神様が母に下された罰は十年 | kumikoのブログ

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吉田九美子(四柱推命鑑定士・医学気功師・除霊師九氣.遠隔治療技術士)は、人のお役に立つためのブログを書かせて頂いております。人生の歩みの方向性を見失われた方、霊に悩まされておられる方等、様々なお悩みを解決し、アドバイスもさせて頂いております。

十年前

母は何時もの様に病院へ行く為

化粧をし、高価な衣類を着て豪華な貴金属を身に付け、パラソルを差し

ハイヒールを履き車椅子

車椅子を押す父に、もっと早よ押さんか!命令しながら直ぐ目の前に停まってるタクシーに乗り込む


本当にご近所では、母はいい笑い者でした


あの日も朝から父に命令をし

自分の身支度をすべて父にさせ

意気揚々と車椅子に乗り、そしてタクシーで病院へ

煌びやかな衣服を着た母は病院内では浮いていますが、本人はあんたらとは違うわと、何時も他の患者さんを見下していました


診察が終わり、また車椅子に乗り

タクシーに乗る時に父が母に目を離した隙に母は転んでしまい大腿骨骨折

そのまま救急車で病院へ行き

母は入院となりました


その日の夜、父から電話があり、

お母さんが入院したよと知らせがありましたが、父は今日からやっとゆっくりお風呂に入って寝れるよ

と、ホッとした感じで電話口で話していました


でも、父は毎日その日から母のお見舞いにいかなければなりませんでした

朝早くから夜の九時まで、私が呼んだら直ぐに来れるとこに居とかなあかんで

と母は父をまるで召し使いの様に扱っていました


お父さん

あんな人間、ほっておけばいいでしょう?お父さんは好きな事をして

と、いくら言っても  父は

お母さん可愛そうだろ?

でした


は?なぜ可愛そうなの?

あんなわがままな女、相手にしなくていいよ

お父さんの体が心配

そう懇願しましたが、父は寒い中も自転車で早朝から夜遅くまで母が入院している病院へお見舞いに通いました


その間に母の認知は急速に進み

そのまま介護施設に転移…の時に父が倒れ植物状態になってしまったのです

父の入院手続き、母の転移

何度も何度も名古屋と京都を往復しましたが、母の装飾品と衣類のアホほどの支払いや、最新型の家電等、残されたのは山のような支払いでした

兄に相談しましたら、兄は泣きながら、僕お金無いよ  ですって


父と母の病院代は、父が個室でしたのでひと月二人で40万円かかりました

私に請求書が来ました時、それを見て私は目の前がくるくる回ってしまいました


そうです  私には誰も助けてくれる人がいなかったからでした


実家にはお金が全くなく、預貯金もありません

2人の年金は、母が全て自分の衣類に使いきっていたのです

もちろん、自分達の老後の資金なんて全く無く、小銭の340円がタンスの中に入っていただけでした

私は本当に苦労を致しました


私は幼少期からいつも母に顔を殴られ、夜には家の外に放り出されていました

私のお産の時も3日しか実家に滞在させてもらえず、食事はカップヌードルとパンだけで、母乳も2日か3日で止まってしまいました


早よ出ていけ

二度と来るな!貧乏人め!

と、生まれたての我が子を抱いた私を平気で追い出す母でした


私は実家で生まれました

いつも父がいる時は、父に大変可愛がって頂きましたが、母親はそれが許せなかったみたいです


私は実家が大好きでした

特に庭坪の石で出来ました金魚鉢の中の金魚を観るのが好きでした

自分の部屋でゆっくりするのも好きでした

でも、母は私が大嫌いでした

ですので私が結婚しました次の日には私の部屋の物は母は全て捨てて

兄の部屋に改装

豪華なカーテンや絨毯等、私の貧相な部屋とは大違いに改装されました


たまには実家に帰りたいと言っても

1日 3000円支払いや

と、母は金銭を要求してくるのでなかなか帰れませんでした

とにかく、私は実家には殆ど帰る事は許されなかったのです


煌びやかに着飾って病院へ向いて自宅を出ました母

その日に骨折をし、実家には帰れなくなった母

自分の物で埋め尽くされた部屋に、きっと帰りたかったと思います

でも、神様はそれを許さなかった

母が自宅を出て丁度十年

母は介護施設で亡くなり、遺骨になって自宅へ帰って来ました


母が愛した衣類や装飾品(二束三文です)は実家の改装費の一部に使い殆ど処分


母が最後に出ました自宅とは様変わりしていましたが、母の遺影はホッとした顔に見えました


自宅を出ましたあの日、

まさかこれが自分が自宅を見るのが最後となるのは思ってもいなかったと思います

入院中、何度も家に帰りたい

私の指輪盗まんといてや!

と私を罵倒していました


家に帰りたいけど帰らせてもらえなかった私の気持ちが分かるか?

そう母に問いましたら、仕返しか!

と、恨みの目で私をにらみ続けていました


私は母に仕返しなんか出来ません


全ては神様御仏様がお決めになられたその人の道


外泊も十年間一度も許されず、母はわが娘を虐め抜いた罪として、神様が自宅へ戻る事は許されなかったのだと理解しています


私が人に優しくさせて頂くのは

生涯一度も母親に優しくされた事かわ無かったからだと思います


優しさとは何か

我が子を守るとは何か

人を慈しむとは何か


私はそれらを母親から学べなかったのです

ですからある意味、私は不完全な人間であるかも知れません

母親から受けました深い心身の傷

母親から愛情の欠片ももらえなかった私の人生

ゴミクズの様な着古した衣類しか着せてもらえず、父が出張の時は食事はまともな物は殆ど無く、砂って食べれるのかなと砂を口にしたり小石を口に入れたりして、飢えを凌いだ事もありました

置き薬を飲んでお腹を膨らませた事もありました


母が亡くなり、来週納骨となりますが、悲しみは一切無く

これでやっと母親との縁が消滅する


今はそんな気持ちが私の心を占めています


私は母親を知らない

母親がどんなに暖かい人なのか

知らない

母親が料理を作るなんて知らない

母親という生き物は、自分さえよければいい

自分の欲しいものだけ買う生き物


今回の私人生の中での母親像です


でも、その分

私を本当の娘の様に思って下さるお母さんが私には三人もいて下さります

その方々から、わたしはお母さんからの深い愛、優しい温もり、そして大切に包んでもらえる安心感を頂けています

血縁ではないのに

本当に本当に感謝しています


皆様

ごめんなさいね

長々と自分の心の内を書いてしまいました

私は、母親を忘れるためにこのブログを書いたのだと思います


私は母親を恨んではいません


ただ、その存在を自分の記憶から消し、これからは自分の苦しかった過去を消し去り、未来を観て生きて行こうと思います