以前、障害者施設に男が押し入り

入居者を殺傷した痛ましい事件がありました。

男は「障害者は生きている意味がない、

むしろ健常者の迷惑になっている」という持論があり、

いらない者、迷惑な者は自分が排除してやるんだ

という論理から殺人を犯しました。

この事件によって、

あらゆる視点からたくさんの人が傷つきました。

大切な家族を亡くした遺族、障害を持つ当事者、

障害がなくても就労できずにひきこもっている人に大きなショックを与えたのです。

 

 

 

社会貢献していない(未就労の)人や、

生きるための費用を税金から援助してもらっている人は、

「自分は世の中の役に立っていないのに生きていていいのか」と

一度ならず自問していると思います。

はたして生産性がなく人の力を借りないと生きられない人は、

生きる意味がないのでしょうか。

 

 

 

【人の迷惑にならないように生きるという観念】

学校で、電車の中で、職場で。

ありとあらゆる場所で人は迷惑にならないように行動することを強要されます。

人の迷惑を考えることは美徳とされ、

人に迷惑をかけずに行動できる人を人は高く評価します。

言い換えれば、

人は良く思われるために迷惑をかけないように頑張っているのです。

本来は、他者が幸せに生きるため、

他者の幸せを邪魔しないために配慮するのが理由だったはずなのに、

「人に迷惑をかけないこと」は人として立派であることの指標のひとつとなってしまいました。

 

 

 

【人生の目標は「人に迷惑をかけないこと」なのですか】

持病があるために就職できずにいるEさん。

「仕事もせずタダ飯を食っている

→タダ飯を食って親に迷惑をかけている

→迷惑ばかりかけて何の役にも立っていない

→生きている価値がない」と考え悶々として過ごしていました。

そこでEさんに問いました。

「あなたの目標は人に迷惑をかけない人間になることですか?」と。

Eさんはその質問に答えられず息をのみました。

「あれ?そうじゃないと思う。」

 

 

 

【少なくともそれは人が決めることじゃない】

人の迷惑になると、自分の望みは叶わないのでしょうか。

人に助けてもらうと、自分は幸せといえないのでしょうか。

「人に迷惑をかけない立派な人」という評価を得れば満足できるのですか。

 

 

 

人に迷惑をかけたりタダ飯を食うことと、

人の幸せは別次元のことです。

迷惑をかけたって幸せになれるし、

タダ飯を食っていたって

人に幸せを与えることはできるのです。

たったひとつの真実、それは、

他人の価値を他人が決めるのは余計なお世話で、

そっちこそが迷惑な話だということです。

 

 

 

 

 

 

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