Netflixで『The Investigation of Lucy Letby(ルーシー・レトビー事件)』を観た。
彼女は有罪判決を受け、終身刑で服役している。
この時点で、普通は「じゃあ終わり」でいい話のはずだ。
でも、私は終わらなかった。
序盤、私はわりと早い段階で「犯人じゃん」と思った。
理由は単純で、番組はそう思わせる材料を並べてくる。
「彼女がいる時に事件が起きる」
「彼女が現場を離れると起きなくなる」
それに、空気やインスリンみたいな“具体的な加害のイメージ”が付く。
ここまで揃うと、人間は納得したくなる。
むしろ、納得しない方が不自然に感じる。
私はその流れに、普通に乗った。
で、真相が見えてきた頃。
新たな弁護士側の主張が出てくる。
すると、いままで「確定」に見えていたものが、前提ごと揺れる。
勤務と出来事の一致は、本当に“犯行の証明”なのか。
医療現場の異変は、どこまで“加害”として断定できるのか。
そもそも、事件として切り出されたものは、どう選ばれたのか。
怖いのは事件そのものじゃない。
私が「犯人確定」と思い込む速さの方だ。
そして、その確信が、前提の置き換えひとつで揺れること。
冤罪かもしれないと思うと、背筋が冷える。
でも同時に、最初に確信していた自分も怖い。
私は正義感で見ていたつもりで、ただ“納得できる形”に飛びついていただけかもしれない。
結論。
この話は、胸糞で終わらない。
「確信する人間」を見せられて終わる。
怖いのは、悪人じゃなくて「確信」だ。
私はそれを自分に見た。
