・・・三島由紀夫賞(これは逃してしまったが)、芥川賞候補にまで選ばれてしまった、今話題のピース又吉さんの「火花」を読んだ。

これは、お笑い芸人「ピースの又吉」の書いたエンターテイメント的なタレント本などではなく、「又吉直樹」さんという作家さんの本だった。




文学といえども、読む側にも当然個人的な「好み」というものがある。

率直に言えば、「あくまでも私個人的には」あまり好まないタイプの作風だった。

「三島由紀夫」や「谷崎潤一郎」を彷彿とさせるような空気感を持った作品だなと思った。

正統派な純文学だが、どういうわけか、彼らの作品を読了したあとには必ず、そこはかとない「嫌悪感」が残るのだ。私の場合・・・。

滑らかなスープを飲んだはずなのに、飲み込んだ後、舌の上には何か得体のしれない嫌なザラザラ感が残るような、そんな「微妙な後味の悪さ」を心の奥の方に感じてしまうのだ。

・・・それは私が抱えている「心の傷」が疼くから、生理的に嫌悪感を感じてしまうのかもしれないが。

「屈折した愛(特に男女間における異常性癖)」や、「まっとうな人間味」をドーンと中心テーマに据えられた作品が、私個人的には非常に苦手なのだ・・・。

しかし、本というのは実際に読んでみなければわからない。




・・・まぁとにかく、そんな私の「個人的な好み」の問題は脇へよけておいて、「火花」という作品についての感想を書こう。


正直なところ、文章そのもので強く印象に残っているのは、「始まり」と「終わり」の部分だけだ。


熱海の花火大会。型破りな先輩芸人「神谷」の登場。主人公「徳永」と「神谷」のネガティブ感漂う芸人トーク・・・。二人の間に不可思議で奇妙な「絆」が出来上がる・・・。そんな風に物語は始まった。

この二人の最初のトークは、思わず笑ってしまった。

一見トンチンカンにも思える二人のやり取りが、いかにも芸人さんらしいなと思った。

私は「お笑い」が大好きだが、芸人ではないので、「リアルな芸人の世界」とはどんなものなのか想像がつかないが。


物語全体としては、又吉さんの個人的な信念なのか、それとも「神谷」のモデルがいるのかは分からないが、「芸人哲学」とでもいうようなものが随所に語られている。


しかし、皮肉なことに物語はその「哲学」に相反するように淡々と進んでいく。


「神谷」という人は、まるで別の星からやってきたような、理解不能で、奇妙で、奇想天外な行動ばかり取る。そして、頑なに「自分的哲学」に固執する。完全に「破滅型」の人間だ。

「頑なに自分哲学に固執すること」が面白いと神谷は考えているようだが、見ているほうは痛々しくて仕方がない。

本人は「面白さを追求」していると豪語しながら、本当はそんな頑なな生き方に息苦しくなっている。
自らを一度はめ込んでしまった「鋳型」の中から取り出すことができなくてもがいている。

そんな自分で作った息苦しい「鋳型」の中でもがいている限り、突破口は見えないことも自分ではわかっているのに、気が付けばもう後戻りできない地点にまで達している・・・・。

「破滅」に向かって、一直線に進んでいる。

突出した「何か」をしようとすればするほど、それは「破滅」への道にもつながっているのかもしれない。どこかで分岐点があったかもしれないのに・・・。


・・・自ら進んで「破滅」をしたがる人間がいる。それは無意識の中での出来事が、「意識」を操っているからだ・・・と思う。


そして、「神谷」は芸人であるがゆえに、「破滅、破壊こそが面白い」と頑なに信じている。

彼がやろうとしているそれは、単なるダダイズムでしかないのに・・・。

「信念」を通り越して、もはやその考えは熱心な「信仰心」に近いものにすらなっている。

その軌道から外れたら、幸せにはなれないというような・・・。




最終的には神谷の行動は、「自暴自棄」なのか、「信念」なのか、もはやどちらとも区別がつかなくなっている。


神谷は巨乳を揺さぶりながら、自分の行動を持て余している。自分自身の存在を持て余している。

常軌を逸した神谷の言動を、「弟子」である徳永がたしなめる。

徳永は至って常識人だ。お笑いを愛する常識人。



この物語のラストシーンで語っている徳永の言葉は、彼(作品中の徳永であり、又吉さん本人だろう)の「お笑いに対する信念」なのだろうと思った。

自分は面白いと思っていても、悪気はなくても、あまりにも常軌を逸した行動や世間を無視したやり方は、人に優しくない。
「徳永」は「神谷」を厳しく戒める。

ラストシーンのセリフの中には、又吉さんの「静かな怒り」が込められているように感じた。

「人を傷つけること」への静かな怒り。



・・・しかし、そんなシリアスな場面にも関わらず、読み手側も思わず神谷の「巨乳」にばかり意識が注がれてしまう。

徳永の「真面目な笑いの哲学」と、ダダによって身も心もボロボロになっている神谷の揺らしている「巨乳」という不道徳な物体の対比が、逆に悲哀を帯びた切ない笑いをもたらしている。

単純に「下品な下ネタ」とは違った、胸の奥をえぐられるような悲しい笑いというものがあるのかもしれない。




・・・うーむ。やはり「又吉直樹」という作家はあなどれない・・・。

こうして感想を書きながら物語の展開を振り返ってみると、オヤオヤ・・・私も意外と好きなのか・・・?

悲哀のこもった「ナンセンス」なラストシーンが衝撃的だったせいなのだろうか・・・・。