二日目(9日土曜日)の「ノッテ・ステラータ」仙台公演を見て10日に帰宅した。実は、夫も九州に1週間の出張で、私と同じ9日に出発し、今日金曜日(15日)の夜中まで帰ってこない。つまり、今週の月曜から金曜日までは、私一人だった。ブラボー!。この開放感・・食事は手抜き、洗濯も一人だと少なく、数日に一回で済む。だからこの5日間は文字どおり「羽生三昧」の日々で、体調もすっかり戻ってしまった(羽生さんのおかげです)。
まず、Hule配信で、「ノッテ・ステラータ」の見逃し配信を見て、次に、録画してあった「Gift」をゆっくり見て、最後に「RE_PRAY」を、これは何回も繰り返し見た。
そこでここでは、4月に「RE_PRAY」宮城公演もあるので、まず、そちらの方の感想を書き留めておきたい。
二つの自由
「RE_PRAY」は、見るたびに感じること、考えさせられることが異なる。ブログに書くのも、これで3回目だ。前回、「RE_PRAY」は一つの短編小説のようなものと書いたが(このこと自体は羽生さん自身が、そう言っていた)、私は、むしろいくつかの「章」からなる中・長編小説に近いものだと思う。全体的には、人間が様々な選択をして生きていくのが人生であることを物語っているが、明確な論理によって一貫したストーリーを構成しているというわけではなく、いくつかのテーマが、プログラムとプログラムの間に「章」のように挿入され、その「章」によって、紡がれる物語は少しずつ異なっており、だからこそ私たちに見えるもの、感じられるものも違ってくるように思う。私が、今回最も強く感じたことの一つは、「自由」というもののとらえ方が、プログラムの前半と後半では、まったく異なっているということだった。
① 最初に心に刺さったのは、後半の「自由」の方だ。
「流れる命を手にする?」という問いに、「彼」は「NO!」を選択する。他の命を犠牲にしたり壊したりせずに、全てを大切にしたいからだと言う。が、その結果何も見えない暗闇の底の方へ沈んでいってしまう。暗くて、一人なのか周りに誰かいるのかも、どこに進んでいるのか方向すら分からない。進むのが「怖い」何もかも「怖い」。
そういう状況の中で、「彼」は「選ぶものがない、選択肢はない、自由を与えられた、ルールが消えた世界、これが自由だ」と言う。
私は、こうした自由の怖さについて分かるような気がしたのだ。目隠された状態で、「あなたは自由だ」と言われたら、怖いだろう。方向や進むべき道も見えず、その中で歩き始めたら、転んだりけがをしたり、全く知らないところに辿り着いてしまうかも知れないからだ。選択肢がなく、すべてを一から自分で決められるのは絶対的に自由だ。でも、それは、自分の人生を自身の決定にしたがって生きていくことであり、その先に、どんな結果がまっていようが全て自分の責任としてひきうけなければならない。つまり、後半の自由とは、暗闇の中で一人、すべてを自ら決めることのできる自由であり、いわば「絶対的な孤独ゆえの自由」ということができる。こうした心境は、コロナ禍のもとでたった一人で、スケートをする意味を見失いそうになりながら、それでも練習を積んでいた時期の羽生さん自身の経験が反映していると思われる。
②前半でも「自由」という言葉はしばしば出てくるが、それは、後半で言われる「自由」とは全く違う。後半のような、孤独ゆえの自由ではなく、圧倒的な勝者の自由だ。激流という日常に抗い、命を永らえるために、「彼」は他の命を喰らい、突き進んでいこうと決意し、「私がこの世界のルールだ」と叫ぶ。次々に敵を倒し闘っていくなかで「彼」はより強くなり、できることが増え、欲しいものも手に入るようになった。そこで「彼」は「もう激流にのまれることもない、自由を手に入れた」と宣言する。このように、前半の自由とは、敵を倒し続け強くなった結果手に入った「自由」、いわば「闘い抜いて手に入れた王者の自由」だ。こうした自由は、彼が、戦闘モードでガンガンライバルとの差を広げ、最高得点を更新し続けていた頃の羽生さんのメンタルを一部反映していると思われる。
③ここで、二つの自由についてかたっている「彼」は、ストーリーの語り手であり、アスリート羽生結弦選手自身と同義ではない。羽生さんの体験を基に、人間とはいかなる生き物か、生きるということはどんな意味があるのかといった深い思索と、人間に対する愛や共感に基づく豊かな想像力とを兼ね備えた、物語の作者としての羽生結弦氏である。
「RE_PRAY」は、羽生さんの29歳までの人生と思索と、フィギュアスケーターとしての高い技術と表現力のすべてを注ぎ込んだ他に類を見ない、羽生さんの大傑作と言うべきものだと思う。
もう一つだけ、深く心に残ったことを書いておきたい。
「いつか終わる夢」というタイトル
このタイトルを見た時、私は、かすかな違和感を覚えた。実力も人気も絶頂にある今の羽生さんが、なぜ「夢が終わるとき」を言うのだろうと。私にとって夢は、人生を通じて希求するものであり、夢の終わりとは、人生の終わりを意味するように思われたからである。事実、私の知人で画家になる夢を持ち続けつつ、別の仕事に就き長く働いたが、夢を諦められず、子供が大学に入ったのを機に仕事を辞め画業に専念して、最近ぼちぼち絵が売れるようになり、今年の秋には個展を開くという人がいる。そんな風に、夢は生きている限り終わらないと思っていたのだ。
でも、羽生さんは最後のMCのなかで、「いつ何があるか分からない。明日が今日と同じようにやってくるとは限らない」というようなことを話した。こうした実感は、やはり3・11の大震災を経験したからこそ強く胸に刻まれているのだろう。だから、私は当初、夢は、もしかしたら翌日に終わってしまう可能性だってあるのだという思いが、羽生さんに「いつか終わる夢」というタイトルの曲を選ばせたのかなと思った。
いえ、そうではないとも思った。「RE_PRAY」を何回もみているうちに、羽生さんの夢とは、長い人生を通じて持ち続けられるようなものではないのではないか、常に今のように、フィギュアスケーターとして実力も人気も絶頂期にあってなお昨年より、いや昨日より、質の高いフォーマンスを見せるということなのではないか、と思うようになった。例えば、「破滅への使者」は、佐賀公演のときジャンプのミスがあったが、今回は、佐賀公演後ものすごい筋トレ中心の練習を積み重ねた(1日6時間という)結果、前半の最後、最も疲労が蓄積しているだろうところに、最も技術構成の高い、このプログラムをもってきて、これをノーミスで終わった。このこと自体に、私は本当に驚嘆したし、とてつもない努力をしてきたんだろうと心底思った。実際、羽生さんは、「RE_PRAY」の最後に、ここまで出来た達成感とそれに伴う「寂しさ」について話した。達成感が大きければ大きいほど、その「至福の時」が終わってしまうという喪失感も大きいのだろう。(でも、四月に宮城でもう一度再演機会がある。羽生さんがこれを望んだのかも知れない)
つまり、努力すればまだ成長できるという実感や困難な課題を乗り越えたという達成感を得ることこそが、羽生さんの夢なのではないかと思われるのだ。だとしたら、いつもギリギリのところでやっているからこそ、そのような夢が永遠に続くわけではない、と思うのは当然かもしれない。今でも羽生さんは、若い時と同じように体力・気力の限界に挑み突き進んでいる。自分自身が以前のパフォーマンスを越えるられないと思ったときが、羽生さんの「夢の終わり」なのかもしれない。そして、そういうときが「いつか来る」と思っているのかもしれない。そう想像することに一抹の寂しさを感じる。
けれど、30歳にもなっていない若い羽生さんが、夢は「いつか終わる」と想うのは、彼が、命の炎を燃やすような、濃密で激しい生き方をしており、彼の「夢」が、彼の全てにおける最高値、絶頂期を維持もしくは更に成長し続けて行くという桁違いの高い理想に基づいているからだろう。だから、羽生さんに対するファンの夢も希望も決して終わることはないはずだ。
以上は、私の想像であり全く見当違いかもしれない。けれど、羽生さんは、「受け取り方は人それぞれでいい」と言ってくれるだろう。そして、羽生さんが、人生を全力で走り続けていると想うことは、人生も後半に入っている私に、羽生さんへの深い敬愛と畏怖の念さえ感じさせる。そして、体力・気力の減退を感じている私の背中を、そっと押してくれる。羽生さんへの感謝の念は尽きない。
【追記】
「RE_PRAY」は、歴史に残る作品、大傑作である事実と、これを創り上げてくれた羽生さん(と、この作品に関わってくださった多くの方たち)への感謝を、言葉にして残したいと思い、これを書きました。そして、羽生さんの夢が続くためにも、怪我のないよう健康であって欲しいと願っています。
羽生さんの言葉にあった「守りたい、希望も夢も命も」という言葉こそ、あなたに捧げる私たちの祈りです。