それで、

私は、ジュリエット・ビノッシュ演じるそのパリジェンヌに、

死ぬほどなりたかった。

正確に言えば、

そのパリジェンヌの心意気、エネルギー、周波数に、

なりたかった❗ということ。

汚い乱雑な住まいに、無頓着に暮らしたいのでは、全くなく、

私の本音の本音は、

選べるなら、勿論❕

迷わずに、綺麗・清潔・整った・美しい住まい&部屋で、

物事にあまり囚われない自由な心持ち(=意識)で、

今を感じて(=楽しんで)、暮らしたい💗

だ。

この映画を、よくレンタルしていた頃、

私は、きちきちと、ライフスタイルを、頭で統制して、

思考した通りに、スパルタで、

綺麗に整えて生きていて、

遂に、

強制終了の憂き目に遭った顛末がある。

だから、

強制終了(←私の場合、無気力により、体が動くのに動かないという終了💦)になる前から、

無意識で憧れていた、そのパリジェンヌの“てきとーっぷり”=おおらかさ✴が、 

喉から手が出る程に、

欲しかった&眩しく感じられていたのだった。

ある意味、無計画の中の計画性のある性質、

その一方で、頓着の無い純粋さによる彼女の生命力の輝きが、

周りの人間だけではなく、

エネルギーにもろに❕敏感な、動植物にも、

直接的に反映し、

活力を与えてゆく“命の瑞々しさ✨”“命の輝き✴”が、 

私には、とても❕目映く映った次第。

私の強制終了の憂き目は、

人生を、幸運な流れに乗って、幸せに運ぼうと、

思考と情報により、自分で取り込んでいたアクション(規則正しい生活、家事、運動、社交、等々)が、

私には、開運の魔法から、呪いへと、変えてしまったのが、
 
原因だった。

それらのアクションは、魔法であることが前提なのに、

使い方を間違えると、

呪い😖になるのだった。

間違え方法は、

思考により、自分の行動を決めると、そうなる(呪いとなる)のだと、

今はわかる。  

思考により、今の自分の気持ち、欲求、気分を、無視したら、

無視された自分から、

祟られる😱💦ということ。

思考と、今の気持ち、欲求、気分が、
 
一致していれば、

問題はないのだが、

頭(思考)優位の生き方優勢で、

生きて来たら、

大抵は、今の自分の本当の気持ちは、

無視されたり、覆されたり、そもそも無いものとして扱われたりするものに思う💡

↑生き方、要注意事項だ❕

無視した自分自身&自心から、

祟られた私には、

ジュリエット・ビノッシュ演じるそのテキトーパリジェンヌ💗の姿こそ、

真面目に目指し、
   
自分に取り入れるエッセンスだったのである。

形ではなく❕

要は、エネルギー。

❇❤❇

美しく整った形ではなく、  

要は、意識。

❇❤❇

エネルギー(意識)が、自由で、

尚且つ、形も整うなら、それが何よりだ✴

形は整えど、思考が本音を統制しているならば、

形の美しさに比例した幸福感は、得られない。

それならば、
 
薄汚く💦乱雑な形で、その形の中で、

今を楽しく、満ち足りた気持ちで、過ごせる意識の方が、

断然に、

幸せに思う💡

今、ふと、思い浮かんだのは、

“過ぎたるは及ばざるが如し”。

何であれ、大きく振れても、

真ん中のゼロ地点、

ニュートラルなバランスを見つけられたら、

一番、心地よいということか。

散らかった、薄汚れた部屋で、

生命力を輝かせて生きるパリジェンヌ💗も、

美しく整った部屋で、

同じく、生き生きと、自分を生きるパリジェンヌ💗も、

どちらも、
    
私の中に存在して“よい”と、

そろそろ諦めて、

“自分を許そう”  

なタイミング✨ということだ。

😌💝

許すは、受け入れる❤認める❤愛する💝

だものね。

以上✒✨