私は81歳ですが戦争体験確り覚えますよ! 私の住む町会の一軒家に航空兵が5人程寝泊まりしてました。 子供が好きな航空兵でした。 休みの日には良く遊びに行きましたが、航空食の内お菓子等を良く持ってきてくらました。 当時見たことも無い美味しいお菓子で戴きました。
お茶洋館とか白い衣で来るんで有って食べると中からチョコレート??が出てくるお菓子等美味しかったですね! 二年ぐらい経つと航空兵は3人になってました。

敗戦前に特攻で3人出撃しましたが、一人は飛行機のエンジン不良で帰ってきましたが二人は帰って来ませんでした。 借家の航空兵が3人に成る頃から、それまで一機位で偵察していたB29が19年の秋ころ?一気にB29が数えて96機飛来爆弾を投下したのを見ました。
それまで空襲警報がなっても防空壕に入らず何機来るか見ていたんで爆弾落とす何て誰も思っていなかったと思います。
爆弾に笛を付けていたんでしょうか?投下された爆弾がヒューっと言う音をたてて落ちて来るんですね。  あの音には恐怖を覚えました。
 
それ以後頻繁に空襲警報のサイレンが鳴り響くと防空壕に避難する様に成りました。 がたまたま避難が遅れて家族と逃げる途中で艦載機に機銃掃射され近くに有った積み上げられた材木の下に隠れた事がありますがその材木下に隠れたと同時ぐらいに銃弾が当たる音がしたのも覚えてます。
空襲警報がなると隣のネコが背を低くして耳を後ろに下げて我が家に逃げ込んできます。 私はそのネコを抱いて防空壕に避難したのをよく覚えてます。 ネコも空襲が終わるまで私の胸に抱っこして温和しくしてました。
 
艦載機が機銃掃射して引き上げ、警戒警報解除されると子供の私達は、機銃掃射で捨てて行った薬莢を拾い歩き、それを玩具代わりにした覚えが有ります。 爆弾投下して炸裂した爆弾の破片を探して、それも遊び道具になりました。 爆弾の破片の端はナイフの様に尖っていて電柱に投げつけると良く刺さりました。
破片が色んな形をしてましたが手裏剣の感じで電柱とか立木に打っ付けて遊びの道具にしました。
米艦載機が日本の戦闘機と空中戦をするのを山の中で見ました。日本の戦闘機がB29に向かって攻撃しますが日本の戦闘機が撃墜されるのを見たときには周りの人は皆手を合わせてました。
子供心に悔しさを覚えたます。
 
B29同士がぶつかったんでしょうか、2機同時に墜落するのも見ました。 防空壕に入っても、
結構壕から出て物珍しく見ている時の方が多かったですね。 波状で来る場合の方が多く帰還する敵機は一目散で帰って行きますが、日本軍機に追撃される事も見かけました。
3月10日の東京大空襲は東京から80キロ離れて我が街の山の防空壕の側で見ました。東京方面の空が赤く染まってました。大人達が東京が遣られていると言ってました。
 
東京大空襲以後段々空襲が激しくなり、空襲警報のサイレンが鳴ると学校の授業も途中で中止生徒は全員帰宅することになりました。私等子供に取って学校が大ぴらに休めるのは大歓迎で空襲警報のサイレンの練習が流行り中には本物と勘違いする程上手なのがいて、そのクラスは授業中止して外に出る騒ぎになった事もあります。
 
玉音放送放送は、意味がわからないまま直立不動の姿勢で聞きました。後で日本は負けたと聞きました。  が日本軍機が上空を哨戒するように飛んでました。
敗戦後、我が町にも米軍の進駐軍が駐留することになり、父などは何される解らないと言って恐れてました。  そんな状況の我が家に米兵がやってきました。 何をするのか恐れてましたが、彼等が袋を開けて出したのはチョコレートとチュウインガムでした。要するに買えって言う事です。 
チョコレートが10円でチューインガムは5枚入ってたかな???5円でした。 買わないと何されるか解らないので、父は10円のチョコレートを一個買いました。 少しずつ分けて食べましたが美味しかった~~  因みに当時の私の小遣いは一日10銭、紙芝居を見る代金です。

なにせその当時食べていた食事はカボチャ、サツマイモ(農林〇〇号とか沖縄〇〇とか)ご飯に混ぜて食べるのですが、米がサツマイモとかカボチャに粒としてくっついて居る程度の食事でしたから・・美味しかったこと!
米軍の進駐軍は悪さしないことが解り一安心でしたが、朝鮮人が暴れて暴行傷害をするので若い女性は、夜は出歩かないようにとか言う回覧板が回ってきた事があります。
敗戦後2~3月後ぐらいから学校の教科書は、先生の指示で黒塗りにさせられました。 これが小学校3年生の時でした。4年生になると教科書が、わら半紙にガリバン刷りになり、戦争はやらないことに成ったこと、大砲や軍艦の代わりに鍋や包丁に帰る。 賠償金は出さなければ成らないが、貿易面で将来有利になり,将来日本の礎になると書いて有って様な気がします。
 
以上