県議会における席次が1番だった正造の発言は、際だって多く議事録
に残されていて精力的な議員活動を裏付けていた。その後、議長を再選
された正造は明治22年2月11日に帝国憲法発布式典に参列した。
この日、同時に衆議院議員選挙法が公布されて正造は国政参加に向け
て決意を固めたのである。
翌年第1回衆議院選挙に当選した正造は立憲改進党に所属し民党の
立場で頭角を顕わし政府を追及対立していった。ここでも質問書は
圧倒的に多かったが、第2回議会において初めて足尾鉱毒事件を取り
あげた。
これがきっかけとなり、渡良瀬川流域の農民の生死を賭けた闘いの
先頭に立つことになっていった。
その後も、正造の質問と演説は鉱毒問題をはじめ藩閥政府の不正と
軍隊による国費乱用問題に及び執拗なまでに政府を追及し続けた。
11年に及んだ代議士を投げ捨て議員辞職した正造は、鉱毒から
農民を救う最後の手段として悲願を書面に託し明治天皇への直訴を
決行した。転んで取り押さえられ逮捕された正造はこの日の夕刻
に釈放された。
死罪を覚悟していた正造は妻に害が及ばぬように予め離縁状を
送っていたとされている。
これが波紋を広げ足尾鉱毒事件を象徴する事件となって歴史に
刻まれたのである。正造の闘いは1913年9月4日に亡く
なるまで、一歩もひるむことも後退することもなく続いた。
正造が71歳で激動の人生を終えた時、所持していた信玄袋から
出てきたのは聖書のマタイ伝と3個の石ころだった。
その石の一つが河童の皿だったことを知る人は既にいなかった。
完


