昨年6月に母が、
10月には姉が旅立ちました。
母は胆嚢ガンから肺への転移で、
3月頭には余命1、2ヶ月という
余命宣告を受けていたので、
本人も家族も
気持ち的な準備は出来てはいましたが。
姉は、脳に腫瘍が見つかったのが昨年2月。
大きなものは摘出出来ましたが、
細かな腫瘍が複数点在し、
かなり進行が早いとの話でした。
抗がん剤や放射線治療が続いていたので、
母の状態もその後亡くなったことも、
姉には知らせず…。
お彼岸が過ぎてすぐ、
年を越えられないかもしれない、という連絡。
間もなく容態が急変し、
10月入ってすぐに天に召されました。
63歳でした。
結局、
姉とは一昨年5月に会ったのが最後に。
決して仲が良いとは言えない姉ではありましたが、
一番下の妹が乳ガンで亡くなって以来、
以前より関係は良くなってました。
まさか、こんなに早く逝ってしまうとは…😢
コロナが無ければ
もっと会う機会もあったはずだし、
そもそもコロナが無ければ職域接種もなく、
脳腫瘍なんぞにはならなかったでしょう。
憎っくきワク○ンめ❗
姉が亡くなって約1週間後に、
越智啓子先生の診察で沖縄に。
というのも母の四十九日法要少し前、
玄関前で脚立を踏み外し、
左側のあばら骨4本骨折
同時に後頭部をタイル部分にしこたま打ち付けて、
意識が飛んでしばらく起き上がれなかった…。
頭を打ったその瞬間思いました。
『ヤバい、私死ぬかも…』
奇跡的に、
頭はケガも脳内出血もなかったのですけど、
骨折が辛かったのなんの…💦
1週間は横にもなれず、
ヨギボー(大きなビーズクッション)に座って寝ました。
で、その転倒が、
何かしらの力が働いたのでは?
というくらいの激しさだったので、
これは何か意味があったのでは?
と思ったのです。
以前の私なら霊能者?A氏に、
ハイアーセルフなどからのメッセージを
翻訳してもらうところなのですが、
A氏とはご縁が切れて3年、
あとは啓子先生しか思い浮かばず。
しかしながら
啓子先生のメンタルクリニックは、
10月の診察から
啓子先生の体調面の問題などもあって、
再診は3回まで、と変更に。
私は既に過去5回受けていたので、
まあもういっか、と諦めました。
ところが
話を聞いた友人が心配して、
そもそも電話が繋がらないのが当たり前、
というくらい予約が取れない診察予約を
いとも簡単に取り、
私に譲ってくれたのです。
その友人、
「私は思いの念が強いから予約は必ず取れるの」
という人で、
マジでこれまでも外したことがない❗
で、転倒の理由は…
母への強烈な罪悪感でした。
父が突然の脳梗塞で亡くなって10年、
1人になった母の、
病院への送り迎えや日常の買い物など、
それまで父が担っていたことが
近くに住む私の役目に。
膠原病の発症をはじめとして入退院が多くなり、
経済的な面でも頼られ、
それまであまり見たことのなかった
母のネガティブな側面に戸惑い、
私の中で嫌悪感が大きくなっていきました。
母に冷たく当たる場面が増えて、
後で深い自己嫌悪に陥り、
何度泣いただろうなあ…
その、溜め込んで重くなり過ぎた罪悪感を
解放するために、
相当な荒療治が必要だったとのこと。
『もしかしたら母に引っ張られたのかも💦』
とまで思ったのだけれど、
啓子先生、笑顔で
「私はやってない、って言ってるわよ~」と😅
姉のワク○ン死?に関しては、
「どんな亡くなり方であったとしても、
本人のスケジュールどおりなのよ」と一言。
そうでした、私たちは、
自分で書いた人生のシナリオを持って
産まれてくるんでした。
何十年、啓子先生の本を読み、
講演会やワーク等に参加してたんだか💦
啓子先生の診察を終えて心スッキリ、
ではあったのですが、
翌日に、焼けた首里城のその後を
見に行く予定にしていたからか、
(たぶん)姉に乗っかられた❗のは、
予想外なことでした💦
久々に身体全体、特に肩に
どっしりと重い具合の悪さに閉口…
(これは言葉でうまく表現出来ない)
案の定、
首里城に着いたらいつの間にか解消してました。
母と姉は、
フランス時代の過去生でお友だちだったそうで、
共にダンサーとして活躍していたそうです。
2人は、
亡くなる時期を合わせたシナリオのもと、
産まれて来たんだなあ…
と、後で思い至りました。
余談ですけど…
姉の葬儀で超ビックリしたこと。
お骨拾いの際、
骨壷が小型のペット用?なぐらい小さい
で、喉仏の骨とか一部のみ納めて、
後の骨は『産業廃棄物』として処理ー⁉️
姉は三重県住まいだったので
名古屋のお友だちに聞いたら、
「そうよー。それが普通よー。
だいたいそんなおっきい骨壷じゃ、
納骨堂すぐいっぱいになっちゃうじゃないの!」
この年齢になっても、
まだまだ知らないことがいっぱいです~😅