先週の金曜日、朝御飯が飲み込めなくて急遽病院へ行った。

やっと抗癌剤治療の口内炎から開放されたばかりなのにと、ちょっとうらめしい気持ちで・・・。

 

主治医が院内にいるか心配だったが、行くとすぐに内視鏡室に案内された。

バルーンを使うのは、これで4回目だろうか?

二年前にはわかめが喉元に残っていて、殆ど食べれなくなって病院に行った。 目覚めてわかめを見せられた時には、本当にビックリで笑ってしまった。

 

すぐに麻酔を嗅がされて、目覚めるとバルーンで狭くなった箇所を広げる作業(手術)は終わっていた。

眠らされて寝覚めまで約三十分、睡眠時に呼吸が止まる恐れがあるからと、ドクター二名体制で処置してくれたが、それにしても支払い費用38,000円(実際の医療費128,000円)はお高くありません?

戻ってきました。

ご心配頂いた皆様、有難うございました。

 

1週間の入院のあと、点滴を自宅に持ち込み栄養補給していました。

口内炎で何を食べるのも苦痛になるのは、随分と楽になりました。

 

思ったより、息切れが少なく会社に来ても少しは楽です。

これから体力回復に集中し、治療にも耐えられるように頑張りたいですね。

 

また宜しくお願いいたします。

 

明日から2ヶ月ぶりに、抗癌剤治療で1週間の入院です。

これだけ間が空くと、少しは気力が戻り元気になれた気がしています。

 

6月には秋田に帰ることが出来たし、七月には友人達との飲み会を四回も出来ました。

長時間は付き合えなかったけど、毎回3時間ほど合流して飲みました。

 

9月には、山岳会の五十周年記念会がある予定です。  また体力が落ちてきついんでしょうが、何とか飲み会が再開出来るよう、体力温存に努めなくっちゃ。

 

まだ負けるわけには行かないので、ガンとの共生を目指します。

 

では、二週間後位に再開できるよう頑張らんば!

 

8月1日の夜、上諏訪で、山でのパートナーであった若○ちゃんと一杯やった。

二時間半ほどの小宴会で、歌も歌って楽しく過すことが出来た。

 

その日の夜に宿泊したのは、かつて諏訪で一番の格式を誇った「浜の湯」旅館。

若○ちゃんは伊那谷からやって来たので、隣の部屋に泊まってもらい、小宴会後に軽く一杯をやった。

この旅館が、素泊まり8000円前後で泊まれるようになっていた。こんなレベルの旅館になってしまったのは、寂しい限りだ。

 

この温泉旅館は、セイコーエプソンの礎を作った山崎久夫氏が服部一族から御下賜された旅館であった。 その後に改修などがあり、加賀屋を設計した建築家が作り直ししたらしい。

 

その旅館が、最終的に結局身売りをしてしまった。

正面からだと

格式を感じさせる、良い旅館だったんだけどねぇ

 

山○家は、相当の財産を失う羽目になってしまい、いろいろと接触もあっただけに、残念な想いも尽きない。回を改めて彼らが何故うまくいかなくなってしまったか、書いてみたいと思っている。

2014年の7月5日、 手術入院が7月7日だったのにも拘らず、黒部ダムに出掛けた。

中国からの友人が(お見舞いと言うことで)来ていたので、出掛けたのだった。

 

恐怖の手術がどれほどのものか、深く考えないようにしていたことも確かだった。

その友人に自分が通った山々の、片鱗でも見せておきたいという気持ちもあった。

 

あれから三年が経過して、未だ命を永らえている。(何か十年は経過した気分です)

十日後には抗癌剤治療に入るが、その前にザイル仲間と一杯やって入院しようと思っている。

2014年の眩い光の中の黒部を思い出しながら・・・

 

扇沢駅から黒部湖へ(約三十年ぶりに乗ったトロリーバスでした)

ダムからの放水

ダム湖上にて・・・ 遊覧船ガルベより

 何度かの海外遠征の中で、時々忘却のかなただったことを思い出すことがある。

初めてパキスタンに遠征したときの事だが、男は誰であれ、必ず座りションベンだった。

 

パキスタンの男達は、ほぼ例外なくシャルワール・カミーズと呼ぶ服装をしている。

一説ではシュミーズの語源だとも言われる。

彼らの服装だと、どう考えても立ちションは服を汚す恐れがあり都合が悪いのだろう。

それで必然的に座りションになったと思われる。

 

真ん中に座っているのは私で右隣は地元のお偉いさん・・立ってするのはきついよね

 

左端は私で、ポーターに賃金を渡しているところです。

彼らも例外なく座りションでした。

そんな他愛もないことを、突然に思い出した昨日でした。

 

 愛知県岡崎市に住むブロ友が、こちらの都合でなかなか会えなかったが、上諏訪温泉にやって来て一年と4ヶ月振りに再会した。先週の土曜日にやってきて、日曜は用があるからと早くに帰って行った。

前回は、こちらがセントレア経由で香港に行くということだったので、岡崎で会っていた。

彼の元気さは何も変わっていなかったが、こちらの凋落振りには驚いたかもしれない。以前のように普通に歩けなくなったおいらを見てショックだったかも。

 

それでも夕飯を食べ、二次会までやって楽しい一日であった。

翌朝、次回は中間点の飯田あたりで飲もうと約して別れた。もう暫くはがんばらにゃー。

 ほとんど茫然自失状態で秋田へ帰ったのだったがーー。

何人かの友人とも会い、ガンを脅し上げろと教えてくれた友人とも語らい

 

少しは元気を出さねばと、何枚かの電車の写真を撮影

以前に撮った特急いなほは旧式で、今は新しいタイプになっていました。

特急いなほ 秋田駅にて(6月21日)

 

高崎では金沢開通にあわせて新しくなった青色のあさまに会えました

 

こうして、少しづつでも元気を取り戻したいものです。

 10日前、親友が突然逝去した日の翌朝、秋田時代の友人二人が松本へやって来た。

その二日前に、小田原に住む友人が横須賀に住む友を誘って、遊びに来ると言っていたのだった。

 その彼が電車に乗ったという連絡を寄越した直後に、携帯が鳴り <おう、Sからか。 久しぶりだな>と電話を取ると、 それは奥さんからの電話で、Sの訃報を知らせるものだった。

 

 しばらくは言葉を失っていたが、気を取り直して塩尻駅へ向かい、彼ら二人と落ち合った。

小田原からやって来た友人は、Sの中学時代の野球部仲間でよく知っている仲だった。 彼の死を告げると奴も絶句、信じられないと連発していた。

夕方、二人の内一人は小田原へ、一人は(出向中の)仙台へ帰っていったが、もう秋田に辿り着く術が無いので、翌朝(18日)の電車で秋田に向かった。

 

 そして秋田に着いて葬儀場に直行すると、通夜が始まる直前で小田原の彼も顔を出していた。 電報くらいは出すのかなと思っていたが、秋田まで飛んでくるとは驚きであった。

 

 そして翌日の葬儀で、Sの子供達にお願いして(家族同然なので)小田原からのIも葬儀後の精進落しに加えてもらった。

 

 そしてその夜、「これもある種の因縁で、Sに導かれて秋田に来たようだ。」とIは言う。

Iは相当に不思議な奴で、卒業後三十年も会っていなかったのに、俺が山屋をやっていると知って、俺が死に掛けた時と一致するかは分からないが、三回も死に掛けたお前の夢を見たと言う。 このことは十五年も前から、<死にそうになったお前が見えて、いつも気にしていた>と言っていたのだった。

今回の件についても、奴の言うことが本当に思えてくる。

そして俺に言うのだ 「ガンよ、業火に焼かれたくないなら暫く共存して息を潜めていろ。 さすれば、何年かは奴らを押さえ込めるから。」と。

 

何だか彼の言うことを聞いていると、そう思えてくる。 彼は「俺の周りにはイタコのような人が一杯いたから。」 そういう言葉を聴いて、喪失感からの脱出を図らねば、と思う次第である。

 

先週末、わが人生で最も付き合いの長かった親友が、突然逝去した。

彼は秋田市役所に奉職し、つい三月末まで土崎図書館館長を務めていた。

 

彼の訃報を聞いたのが土曜日の朝で、前夜夕刻に「頭が痛い」の一言だけで事実上の昏睡状態、その5時間後には息をひき取ったとーー。

やっと肩の荷を下ろした矢先の六十五歳、脳内出血でのあまりにもあっけない死に言葉を失った。 兎に角秋田へ行かなければと、手配して電車に飛び乗った。

 

五十数年に亘る彼との付き合いを思い返せば、もう慟哭しかなかった。

俺が先に逝くはずだったのに、そう思うと、もう会えないことがこんなにも切ないとは

 

通夜と葬儀には間に合ったが、喪失感が大きすぎる。

今は亡き友の面影を、生きている限り留めておこうーーそれしか出来ることが無い。