肥満ウイルス まとめよみ

チャプター9−1 感染


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いうに言われぬ内側の高まりを感じて野口は異様に興奮している自分を抑えきれなかった。ただ、気をつけなければいけない。自分の長所は、あくまでも存在感を消せること。これを長所として表立って発表すると、きっと世間は自分を変人扱いするだろう。この長所は決して
人には言ってはならない・・。


この時から、野口は自分が何か特別な人とは違うすごい才能を持った人間なのだという自信を持つようになった。

自分が目立たない平平凡凡な人間なのは、あえてそう見せているだけなのだ。つまらないクラスの人気者程度とはレベルが違うのだ。




研究所の所員のほとんどが、時間外勤務はせずにさっさと帰っていく。

所員の顔ぶれが変わるタイミングで野口はさりげなく研究所に戻った。更衣室の隣の小さなキッチンで、自分のカップにコーヒーを淹れる。それを持って自分のデスクに座ると、すぐさまPCの画面に見入った。

研究所で所員が使用しているPCは、それぞれデスクに1台ずつ置いてある。

電源を落とすのは週末のみ、というのが所内のルールだ。皆、基本的に平日は自分の仕事が終わってもPCはスリープ状態にしておき、翌日すぐに仕事が再開できるようにしている。パスコードすらもかけない。所員それぞれが扱うデータは全員が共有している。自分のPC・・と言っても個人の大切な情報などは一切残さない。野口は自分の隣のデスクの、今日は休みの南乞(ナンコツ)のPCのサイドのコネクターにUSBをさりげなく差し込む。


野口の
一連の動作は、流れるようにスムーズだ。野口は内ポケットの血液入りチューブをすぐに分析装置にかけた。こうしておけば自分の仕事をしながら、隣の南乞のPCに出る血液の解析途中の状況が手に取るようにわかる。解析にはしばらく時間がかかるだろう。

ポケットの中で、大隈博士から託されたスマホにテキストメールの着信が繰り返しされていることに野口は気がつかなかった。

ふと見ると南乞のPC画面上の解析中の血液データのグラフのラインが全て、通常の数値を振り切り赤ライン、さらにその上の赤黒いラインを描いで突出し始めた。 


え?まさか・・。


野口は画面に釘付けになる。ラインは通常ゆるいカーブを描くように表出するのだが、それとは全く違う動きに野口は驚いた。そのうちに、データの数値が想定基準をはるかに超えカーブはグラフの天井に張り付き黒い1本の線となって続いた。 




「ピーーー!!」


解析の終了音は、こんな大きな音ではない。機械は通常の手順を踏む前に計測不能となって強制的に終了してしまったらしい。野口は慌てて南乞のPCの音量ボタンを消す。だが音は消えない。野口は血液の入った計測器のスイッチを切った。PCのアラームも 消えた。


データはUSBに自動的に残っている。南乞のPCに使用の痕跡が残らないように確認して野口はUSBを外した。ど

うやら、勝盛博士のダイエットクリニックから持ってきたこの血液はこれまでにはない特別なもののようだ。野口は医療用ニトリルグローブをはめ血液チューブの蓋をあけると、シャーレに血液を垂らす。


血液はまるで飢えた動物のようにすら見えた。


野口のスポイトを持つ手が震えた。


「大丈夫ですか?」


急に真後ろから声をかけられ、振り返ると野口のすぐ顔の目の前に初子が立っていた。みんなから「ハツさん」と呼ばれているので、苗字は知らない。多分最初に会った時に苗字も聞いたのだろうが、記憶になかった。そもそも野口は、自分の関心がある非常に限られたこと以外には全くといっていいほど興味がなく、興味がないことへの記憶力が皆無だった。

初子とは一度も口をきいた事は無かったので話かけられた事にも驚いたが、それ以上にいつからここにいたのか、いつから自分の様子を見ていたのか自分が気が付か無かった事に驚いた。咄嗟に声にならない声を漏らした野口だが、疑われてはまずいと思い直し 

「最近、この機械調子悪いですね・・」


と、さっきの悲鳴のようなエラー音がまるで機械の不調のような言い訳をしてみた。しかし初子に話かけたというより独り言のようになっていた。


「あら!大変・・」


初子は初子で野口の言う事は御構いなしという様子だ。 





初子に話しかけられ、作業途中で蓋のきちんと閉まっていなかった血液のチューブから、サンプルの血液、デイブの血液がこぼれ落ちた。慌てて片付けようとして初子は手を出した。野口はその手を振り払った。だが既に初子はチューブを手にしていた。野口の振り払った
手は初子の手の中のチューブに当たった。


蓋のきちんとされていないチューブは勢いで宙を舞う。


「あああーーー!!!」


の初子はギョッとしたような表情で野口を見る。

慌ててチューブをキャッチしようとする野口。

初子と野口2人の手がチューブをつかもうと
してぶつかり合う。チューブはそれをせせら笑うかのように、床に転がり落ちた。リノリウムの床にサンプルの血液はこぼれ落ちチューブは割れた。


「すみません!」


初子は慌てて血液を拾おうとするが、液体を拾い集めることはできない。野口は汚染された血液を
絶望的な眼差しで見つめていた。初子はスポイトで少しでも血液を採取しようと試みている。


「すみませんすみませんすみません」


「・・・」


念仏のように謝り続ける初子の声など、野口には遠い所で鳴る蚊の飛ぶ音のようにしか聞こえなかった。 


「あ!いたい・・」


初子はリノリウムの研究所の床にへばりつくようにして、必死でサンプル血液を採取しようとしている。


「汚染されてる」

「あ、いた・・」

床についた初子の膝からは血が出ていた。サンプル血液入りのチューブは普通のガラスとは違う落としても簡単には割れない材質だ。壊れてもガラスのように破片が細かく飛び散ることはない。野口が拾い上げたチューブは割れていなかった。


「おい、もう辞めろ!」

「で、でも・・すみません!」

「もう使えねーんだよ!そんなもの」

「す、すみません・・本当に・・すみません」 



USBのデータはまだある。

スポイトの中の多少の血液で培養検査をしてみよう。


初子は半べそでとぼとぼとどこかへと行ってしまった。


「ばかやろー!!!」


野口は誰もいない部屋で機械に向かってつぶやいた。こっちが泣きたい気分だ。


「ばかやろー!!!」 



野口は、スポイトに残ったサンプル血液の培養を試みようとしたが、そこにはすぐに乾燥してグラスにへばりつく程度の残量しかなかった。しばらくして検査は不可能だと悟った野口は、デスクにすわって考えをまとめようとじっとリノリウムの床に視線を這わせた。 

結局、初子は床に飛び散ったサンプルを、何を使って片付けたんだろうか?

あいつ、ゴミを医療廃棄物処理用の方にちゃんと入れたんだろうな・・?

初子がどうなろうと、自分には関係のないことだが適切に処理されずに一般のゴミ箱にでも検査機器のパーツの破片でも入ってい
ようものなら、あとでその原因を巡って面倒な調査が入ることも考えられる。



野口はUSBのスティックをポケットにすべりこませて初子を探しに出た。