8「政元のクーデター決行」

4月22日夜、政元はついに挙兵、クーデターを決行した。清晃をすぐ遊初軒に迎え入れて保護し、義材の関係者邸宅へと兵を向けた。

その兵によって、23日には義材の関係者邸宅のみならず、義材の弟や妹の入寺する三宝院・曇花院・慈照寺などが襲撃・破壊された。

更に当時の記録によると、富子が先代(義政)御台所の立場から直接指揮を執って、政元に京を制圧させたと記録されている。

同日、政元は義材を廃して清晃を新将軍に擁立すること、また政長を河内守護職から解任すること公表し、事態を収めようとした。

そして、4月28日に政元は清晃を還俗させて義遐(よしとお)と名乗らせ、11代将軍として擁立した。義遐はのちに名を義高、義澄と改めている。

この報を聞いた義材や諸大名、奉公衆・奉行衆ら将軍直臣は激しく動揺し、その上伊勢貞宗から義材に同行する大名や奉公衆ら将軍直臣に対して新将軍に従うようにとする内容の「謀書」が送られると、大名や将軍直臣は27日までにほとんどが河内から京都に帰還してしまった。その後、直臣は京の義遐のもとへと参集し、大名も畠山政長を除いて義材を支援した者はいなかった。

赤松政則は政元のクーデター直後、先の六角征伐に積極的に協力し義材と親密な関係にあったことから、「政元ではなく義材に味方するのではないか」と囁かれていた[24]。だが、政則は政元の挙兵前に彼の姉と結婚していたため、緊密な関係を構築していた。それゆえ、政則は最終的に政元へ味方することを決したのであった。

周防・長門守護・大内政弘の息子で、父の名代として河内出兵に参加していた大内義興も政元に味方している。

なお、閏4月1日に京都にいた義興の実妹が若狭国の武田元信配下に誘拐される事件が発生しており(『大乗院寺社雑事記』明応2年閏4月1日条)、細川政元・武田元信が応仁の乱の時に義視・義材父子を擁して最後まで西軍として戦った大内政弘が義材に加担するのを阻止するために、義興の妹(=政弘の娘)を人質に取って、政変に同意させたとする説もある。

大内 義興(おおうち よしおき)は、室町時代後期から戦国時代にかけての周防(山口)の戦国大名。周防の在庁官人・大内氏の第15代当主。

父は周防守護で大内氏の第14代当主・大内政弘。弟(一説に庶兄とも)に大内高弘(隆弘とも、初めは出家して大護院尊光)がいる。正室は長門守護代・内藤弘矩の娘。子に義隆(第16代当主)、娘(大友義鑑正室、後に大友義鎮(宗麟)や大内義長(第17代当主)がこの間に生まれる)。

室町幕府の管領代となって将軍の後見人となり、周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前・山城の7ヶ国の守護職を兼ねた。

家督相続と内訌

文明9年(1477年)、大内氏の第14代当主・大内政弘の子として生まれる。幼名は亀童丸。長享2年1月30日(1488年3月13日)に京都にて元服し、将軍・足利義尚から「義」の字を許されて「義興」の名を与えられた。

明応元年(1492年)、父の命令で六角高頼討伐(長享・延徳の乱)に参戦する。ところが、その最中の明応2年(1493年)に管領細川政元が将軍足利義材を幽閉する明応の政変が発生する。

義興は兵を摂津国の兵庫に引き上げたまま事態の推移を見守っただけであった。この政変に関連して、細川政元派の武田元信の配下によって当時京都に滞在していた義興の妹が誘拐される事件(『大乗院寺社雑事記』明応2年閏4月1日条)や父・政弘が義興の側近に切腹を命じる事件(『大乗院寺社雑事記』明応2年8月4日条)などが発生しており、細川政元らが大内政弘が足利義材を支援することを恐れて人質を取って若年の義興に圧力をかけ、その対応の拙さが本国の政弘の怒りを買ったと推測される。

だが、一方でこの出兵が京都生まれの義興と本国の被官との関係構築に大いに寄与する事になり、家督継承後の義興の支配に資することになった。

明応3年(1494年)秋、父が病気により隠居したため、家督を譲られて大内氏の第15代当主となり、 暫くの間、義興は父である政弘の後見を受けるが、明応4年(1495年)9月18日に父が死去すると、名実ともに大内氏の当主となる。ところが、義興への家督継承の前後から大内家中で不穏な事件が相次いで発生する。

まず、先の畿内出兵中に義興に従って出陣しながら、突如出奔して出家してしまった陶武護が帰国して、代わりに家督を継いだ弟の陶興明を明応4年(1495年)2月に殺害した。そして武護は「長門守護代の内藤弘矩が弟の尊光を擁立しようとした」と義興に讒言した。

それを信じた義興は明応4年(1495年)2月28日に兵を防府にさしむけて、弘矩と子の弘和を誅殺してしまった。

ただし、後に内藤父子の冤罪を知り、讒言した武護を誅殺し、弘矩の娘を正室に迎えて弘矩の弟である内藤弘春に内藤氏を再興させ、同じく陶氏も末弟の陶興房に継がせて再興させた。

弟・大護院尊光の擁立に関しては明応8年(1499年)に現実のものとなり、重臣の杉武明が反乱を起こしたが、義興はこれを鎮圧して武明を自殺させ、尊光は大友氏を頼って豊後に亡命した。

ところが、内藤弘矩・陶武護・杉武明の誅殺については通説と異なる話(例えば、内藤弘矩は陶武護とともに謀反を起こそうとして先代当主である政弘に殺された説(『晴興宿禰記』明応4年3月21日条)の存在や、杉武明が直前まで義興の信任を受けていたこと)が伝えられ、大内氏内部により複雑な政治的対立があったとも考えられている。

そして、父・大内政弘の存命中に陶弘護(武護・興明・興房兄弟の父)・内藤弘矩が亡くなり、有力重臣である陶氏・内藤氏を一時没落させたことが、後を受けた義興の地位を安定させることにもつながった。

九州進出と前将軍亡命

大内氏は長い間北九州で大友氏や少弐氏らと合戦を繰り広げながら、勢力を拡大してきたが、大友政親が大内政弘の妹を妻として婚姻関係を結び、次いで彼女が生んだ大友義右が家督を継いだことから義興と義右が従兄弟として協力することになり、安定した関係が築かれた。

ところが、明応5年(1496年)に義右が急死すると、義右が対立していた父の政親が毒殺したという噂が流れ、実権を取り戻した政親は北九州の大内領侵攻のために兵を挙げた。