鑑真は仏教者に戒律を授ける「導師」「伝戒の師」として日本に招請された。「戒律」とは、仏教教団の構成員が日常生活上守るべき「規範」「きまり」を意味し、一般の仏教信者に授ける「菩薩戒」と、正式の僧に授ける「具足戒」とがある。

出家者が正式の僧となるためには、「戒壇」という場で、「三師七証」という授戒の師3人と、証明師(授戒の儀式に立会い見届ける役の高僧)7人のもと、「具足戒」を受けねばならないが、当時(8世紀前半)の日本ではこうした正式の授戒の制度は整備されておらず、授戒資格のある僧も不足していた。

そのため、官の承認を経ず、私的に出家得度する私度僧が増え、課役免除のために私度僧となる者もいて、社会秩序の乱れにつながっていた。

こうした中、天平5年(733年)、遣唐使と共に渡唐した普照と栄叡という留学僧がいた。彼らが揚州(現・江蘇省)の大明寺で高僧鑑真に初めて会ったのは西暦742年10月のことであった。

普照と栄叡は、日本には正式の伝戒の師がいないので、しかるべき高僧を推薦いただきたいと鑑真に申し出た。鑑真の弟子達は渡航の危険などを理由に渡日を拒んだ。弟子達の内に渡日の志をもつ者がいないことを知った鑑真は、自ら渡日することを決意する。しかし、当時の航海は命懸けであった上に、当時、唐から出国することは国禁を犯すことであった。

そのため、鑑真、普照、栄叡らの渡航計画は挫折の連続であった。1回目の渡航計画(743年)は、鑑真の弟子の如海の密告により、船を出す前に発覚し、普照と栄叡が捕縛されてしまった。

2回目の渡航計画(同年)では、船は揚子江を下ったものの強風で難破する。第3・4回目の渡航計画(744年)は密告によって頓挫し、船を出すこともかなわなかった。748年、5回目の渡航計画では嵐に遭って船が漂流し、中国最南端の海南島まで流されてしまった。

陸路揚州へ戻る途中、それまで行動を共にしてきた栄叡が病死し、高弟の祥彦(しょうげん)も死去、鑑真自らは失明するという苦難を味わった。753年、6回目の渡航計画でようやく来日に成功するが、鑑真は当時既に66歳になっていた。

遣唐使船に同乗し、琉球を経て天平勝宝5年(753年)12月、薩摩に上陸した鑑真は、翌天平勝宝6年(754年)2月、ようやく難波津(大阪)に上陸した。同年4月、東大寺大仏殿前で、聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇らに菩薩戒を授け、沙弥、僧に具足戒を授けた。鑑真は天平勝宝7年(755年)から東大寺唐禅院に住した後、天平宝字3年(759年)、前述のように、今の唐招提寺の地を与えられた。

大僧都に任じられ、後に大和上の尊称を贈られた鑑真は、天平宝字7年(763年)5月、波乱の生涯を日本で閉じた。数え年76であった[9]

伽藍の整備

唐招提寺の寺地は平城京の右京五条二坊に位置した新田部親王邸跡地で、広さは4町であった(創建期伽藍は東西255メートル、南北245メートル)。境内の発掘調査の結果、新田部親王邸と思われる前身建物跡が検出されている。

また、境内から出土した古瓦の内、単純な幾何学文の瓦(重圏文軒丸瓦と重弧文軒平瓦の組み合わせ)は、新田部親王邸のものと推定されている。

寺内に現存する2棟の校倉造倉庫のうち、経蔵は新田部親王宅の倉庫を切妻造から寄棟造に改造したものとされている。すなわち、『招提寺建立縁起』(『諸寺縁起集』所収)に「地主屋倉」として挙げられている3棟の倉のうちの一つがこれにあたるとみられる。他に新田部親王時代の建物はない。

『招提寺建立縁起』に、寺内の建物の名称とそれらの建物は誰の造営によるものであるかが記されている。それによると、奈良時代の唐招提寺には、南大門、西南門、北土門、中門、金堂、経楼、鐘楼、講堂、八角堂3基、食堂(じきどう)、羂索堂(けんさくどう)、僧房、小子房、温湯室、倉などがあった。

このうち、南大門、西南門、北土門、中門、金堂は鑑真の弟子でともに来日した如宝の造営、講堂は、平城宮の東朝集殿を移築したもの、食堂(じきどう)は藤原仲麻呂家の施入(寄進)、羂索堂(けんさくどう)は藤原清河家の施入であった。藤原清河は、鑑真が渡日した際の遣唐使の大使であったが、鑑真の乗った第二船と異なり、清河の乗った第一船は遭難して唐へ戻され、彼は唐の地で没した。「藤原清河家の施入」とは、清河の家の建物を移築した、もしくは、清河の家族が建築費を負担した、の意に解されている。

これらの建物のうち、もっとも早く、鑑真の在世中に建立されたものは講堂であった。金堂の建立年代には諸説あったが、部材の年輪年代測定の結果、781年に伐採された材木が使用されていることがわかり、鑑真没後の8世紀末の建立であることが確実視されている。

『招提千歳伝記』によれば、唐招提寺の歴代住持は鑑真、法載、義静、如宝、豊安の順となっているが、このうち第4代の如宝の時代に金堂を含む伽藍の主要部が建立されたとみられる。

主要伽藍のうち、もっとも遅れて建立されたのは東塔で、『日本紀略』に弘仁元年(810年)の建立とある。平安時代以後、一時衰退したが、鎌倉時代になると、釈迦信仰・舎利(釈迦の遺骨)信仰の高まりにともなって、鑑真と彼のもたらした舎利に対する信仰が復興した。

貞慶は建仁3年(1203年)、唐招提寺にて釈迦念仏会(ねんぶつえ)を始めた。寛元2年(1244年)には唐招提寺中興の祖と称えられる覚盛が入寺している。

伽藍

南大門(1960年の再建)を入ると正面に金堂(国宝)、その背後に講堂(国宝)がある。かつては南大門と金堂の間に中門があり、中門左右から回廊が出て金堂左右に達していた。金堂・講堂間の東西にはそれぞれ鼓楼(国宝)と鐘楼がある。講堂の東方には南北に長い東室(ひがしむろ、重要文化財)があるが、この建物の南側は礼堂(らいどう)と呼ばれている。

講堂の西にあった西室、北にあった食堂(じきどう)は今は失われている。この他、境内西側には戒壇、北側には鑑真廟、御影堂、地蔵堂、中興堂、本坊、本願殿、東側には宝蔵(国宝)、経蔵(国宝)、新宝蔵、東塔跡などがある。

金堂[編集]

国宝。奈良時代建立の寺院金堂としては現存唯一のものである(奈良・新薬師寺の本堂は奈良時代の建築だが、当初から本堂として建てられたものではない)。2000年から解体修理(「平成の大修理」)が行われ、2009年11月1日-3日に落慶行事が行われた。

寄棟造、本瓦葺きで、大棟の左右に鴟尾を飾る。このうち西側の鴟尾は創建当初のもので、東側は鎌倉時代の元亨3年(1323年)の補作であったが、いずれの鴟尾も劣化が甚だしいため、平成の大修理に伴い、屋根上から下ろして別途保管することとなり、屋根上には新しい鴟尾が飾られている。