9「平城京到着戒壇院設立」

天平勝宝6年2月4日に平城京に到着して聖武上皇以下の歓待を受け、孝謙天皇の勅により戒壇の設立と授戒について全面的に一任され、東大寺に住することとなった。

孝謙天皇(こうけんてんのう)、重祚して称徳天皇(しょうとくてんのう;稱德天皇、718年〈養老2年〉- 

770年8月28日〈神護景雲4年8月4日〉)は、日本の第46代天皇(在位:749年8月19日〈天平勝宝元年7月2日〉- 758年9月7日〈天平宝字2年8月1日〉)および第48代天皇(在位:764年11月6日〈天平宝字8年10月9日〉- 770年8月28日〈神護景雲4年8月4日〉)。

父は聖武天皇、母は藤原氏出身で史上初めて人臣から皇后となった光明皇后(光明子)。即位前の名は「阿倍内親王」。生前に「宝字称徳孝謙皇帝」の尊号が贈られている。

『続日本紀』では終始「高野天皇」と呼ばれており、ほかに「高野姫天皇」「倭根子天皇(やまとねこのすめらみこと)」とも称された。

史上6人目の女帝で、天武系からの最後の天皇である。この称徳天皇以降は、江戸時代初期に即位した第109代明正天皇(在位:1629年 – 1643年)に至るまで、850余年、女帝が立てられることはなかった。

皇太子

聖武天皇と光明皇后の間にはついに男子が育たず(基王は早世)、阿倍内親王のみであった。

聖武天皇と県犬養広刀自との間には安積親王が生まれたが、後ろ盾を持たなかったため即位は望み薄であり、天平10年1月13日(738年2月6日)に阿倍内親王が立太子し、史上唯一の女性皇太子となった。天平15年(743年)5月5日には元正上皇の御前で五節舞を披露している。

天平17年(744年)に安積親王が没し、聖武天皇の皇子はいなくなった。直後に聖武天皇が倒れて重態に陥った際、橘奈良麻呂は「皇嗣(皇位継承者)が立っていない」と黄文王を擁立する動きを見せている。

当時の女帝は全て独身(未婚か未亡人)であり、阿倍内親王が即位してもその次の皇位継承の見通しが立たず、彼女に代わる天皇を求める動きが彼女の崩御後まで続くことになった。

孝謙天皇としての治世

天平勝宝元年(749年)に父・聖武天皇の譲位により即位した。治世の前期は皇太后(光明皇后)が後見し、皇后宮を改組した紫微中台の長官で皇太后の甥にあたる藤原仲麻呂の勢力が急速に拡大した。天平勝宝8歳(756年)5月2日に父の聖武上皇が崩御し、新田部親王の子である道祖王を皇太子とする遺詔を残した。しかし翌天平勝宝9歳(757年)3月、孝謙天皇は皇太子にふさわしくない行動があるとして道祖王を廃し、自身の意向として舎人親王の子大炊王を新たな皇太子とした。

この更迭劇には孝謙天皇と仲麻呂の意向が働いたものと考えられている。強まる仲麻呂の権勢にあせった橘奈良麻呂や大伴古麻呂らは、孝謙天皇を廃して新帝を擁立するクーデターを計画した。しかし事前に察知した仲麻呂により、関係者は同年5月に粛清された(橘奈良麻呂の乱)。以降仲麻呂の権勢はさらに強まった。

太上天皇時代

天平宝字2年(758年)8月1日、孝謙天皇は病気の光明皇太后に仕えることを理由に大炊王(淳仁天皇)に譲位し、太上天皇となる。この日、孝謙上皇には「宝字称徳孝謙皇帝」、光明皇太后には「天平応真仁正皇太后」の尊号が贈られている。

また、尊称として孝謙上皇には「上臺」、光明皇太后には「中臺」が用いられているが、「上臺」は中国南朝・隋・唐においては皇帝およびその機関に対する尊称であった。「皇帝」や「上臺」の称号は政権担当者である藤原仲麻呂の単なる唐風趣味ではなく、新天皇の正当性の保証者としての役割を大炊王および仲麻呂から期待されていたとみられている。

仲麻呂は大炊王から「藤原恵美朝臣」の姓と「押勝」の名が与えられ、藤原恵美押勝と称するようになり、貨幣鋳造権も与えられている。仲麻呂は官庁を唐風に改名する(官職の唐風改称)など、さらに権勢を振るうようになった。

天平宝字3年(759年)、光明皇太后が淳仁天皇の父・舎人親王に尊号を贈ることを提案した。淳仁天皇は孝謙上皇に相談すると、上皇は皇太后に対して辞退する奏上を行うよう助言をしている。

結局、皇太后が再三説得し、舎人親王に「崇道尽敬皇帝」の尊号を贈ることになったが、このことは孝謙上皇の影響力の大きさを明示したものとなった。天平宝字4年(760年)1月4日、仲麻呂は太師(太政大臣)に任命されているが、その際も孝謙上皇が淳仁天皇や百官が同席する場で突然口頭でその旨を宣言し、淳仁天皇が追認の形で正式な任命手続を取った。

孝謙上皇は律令上は大臣任命の権限はないものの淳仁天皇が直ちにそれを認めたことで、孝謙上皇の影響力の大きさを明示するとともに仲麻呂にとっても光明皇太后亡き後も上皇と天皇からの二重の信任を受けていることを明示する意味合いを持っていた。

天平宝字4年(760年)7月16日に光明皇太后が崩御すると、孝謙上皇と仲麻呂・淳仁天皇の関係は微妙なものとなった。同年8月に孝謙上皇・淳仁天皇らは小治田宮に移り、天平宝字5年(761年)には保良宮に移った。

ここで病に伏せった孝謙上皇は、看病に当たった弓削氏の僧・道鏡を寵愛するようになった。天平宝字6年(762年)5月23日(6月23日)に淳仁天皇は平城宮に戻ったが、孝謙は平城京に入らず法華寺に住居を定めた。

ここに「高野天皇、帝と隙あり」と続日本紀が記す孝謙上皇と淳仁天皇・仲麻呂の不和が表面化した。6月3日に孝謙上皇は五位以上の官人を呼び出し、淳仁天皇が不孝であることをもって仏門に入って別居することを表明し、さらに国家の大事である政務を自分が執ると宣言した。

不和の原因は道鏡を除くよう淳仁天皇と仲麻呂が働きかけた事や、皇統の正嫡意識を持つ孝謙上皇が淳仁天皇に不満を持ったことなどあげられている。

天平宝字7年(763年)から天平宝字8年(764年)には道鏡や吉備真備といった孝謙派が要職に就く一方で、仲麻呂の子達が軍事的要職に就くなど、孝謙上皇と淳仁天皇・仲麻呂の勢力争いが水面下で続いた。