『古代史群像の回想』三十三、承和の変
光仁十四年(823)四月十六日嵯峨天皇は譲位し、代わって異母兄弟の大伴親王皇太子は淳和天皇として即位した。この即位と同時に正良親王に決められた。
その次を考えてみれば自分の子の恒貞親王に譲位の暗黙の見返りを予測しての譲位が皇太子正良親王への擁立に有った。
桓武天皇の後継者には平城天皇、次に嵯峨天皇、そして次に淳和天皇と異母兄弟が弟に続けて譲位していったが、ここに自分の皇子に継がせたい思いが過ぎって生じたのが、承和の変である。
承和九年(842)嵯峨上皇が五十七歳で死去し、淳和上皇の方が、それより早くその二年前の五十五歳で没した。嵯峨上皇の死後直後の春宮坊帯刀伴健岑と但馬権守橘逸勢が皇太子恒貞皇太子を奉じて挙兵し、仁明天皇を廃する計画を立てそれが発覚をした。
発覚した原因は伴健岑が平城天皇の皇子阿保親王を謀反に誘ったが阿保親王は前回の薬子の事件で懲りて、ここが挽回とばかりに藤原義房に手渡し良房が仁明に知らせ露見した。建岑、逸勢に至っては流罪、大納言藤原愛発、中納言藤原吉野等は退けられ淳和天皇の近臣者は排除された。直ちに恒貞親王の皇太子が廃され、良房の甥で仁明天皇の皇子の道康親王が皇太子になった。
仁明天皇はこれまで両統迭立されてきた状態の断ち切るに絶好の機会を得た感じである。結果藤原の良房の天皇家と姻戚関係を造った面で勝利した。
この良房ご摂政時代の先駆けと成った。
承和の遣唐使は親政三代に渡り唐風追随の平安に入って二回目となる遣唐使は一定の成果を収め、参議藤原常嗣が大使に弾正少弼篁副使によって唐の医、陰陽、雅楽、天文、暦などと唐の情勢を知った。
桓武天皇系に平家が誕生したように、嵯峨は多数の皇子に源朝臣の氏姓を与えた。