“『古代史群像の回想』二十三、広嗣の乱と吉備真備”

藤原一族に取り逆風であった。とりわけ宇合の子の、広嗣の事件が起きた。
広嗣は性格と素行が悪く、大宰府に左遷されてしまった。天平十二年(740)聖武天皇に大宰府の少弐藤原広嗣から上表文が届いた。災害が続くのは政治が悪いからで、それは僧正玄昉と右衛士監の下道真備の重用が要因である。
聖武天皇、これは謀反であると判断、討伐の兵を指示をした。
その事がから、事件が勃発、大宰府の隼人を巻き込み、反乱軍と成った広嗣軍と、大将軍に任命された大野東人の広嗣征伐軍とが関門海峡を挟み、繰り広げられたが、政権に就いて間もない橘諸兄は直接指揮を取った様子もなく、聖武の敏速な指令で、あっさり広嗣が捕らえられ処刑されたが、政権の不安定さは否めなかった。
事の経緯はこうである。広嗣は、大和朝廷の不満をそのまま九州の隼人の民衆に潜在しているのを目に付け、不満を煽りたて自分の大宰府の兵と合流させ蜂起したが、大和の官兵諸国より一万七千を徴兵、広嗣軍の隼人とを分断させるため、畿内よりの隼人を派遣し戦力を弱める作戦を取った。
戦局は関門を渡り、板櫃川を挟んでの決戦となった。
広嗣は北周りの鞍手道から大隈、薩摩、筑前、豊後の五千の兵を広嗣の弟綱手が率いて進む予定が政府軍の豊前掌握に綱手軍が進路を絶たれが、結局、北へ遠賀川付近で広嗣軍、綱手軍が合流、そして板櫃川へと向った、官軍六千に対して広嗣軍、綱手軍総勢一万とが板櫃川を挟んで対峙した。
此の時の時の様子を、こう記されている。
官軍方の隼人から、広嗣軍の隼人へ動揺させ分断させる為に巧みな心理作戦の呼びかけに、裏切り、寝返るもの続出、広嗣の正当性のない反乱軍は、逆賊広嗣の陰謀が、陣営内にも暴露され九州各地より結集した郡司達も政府軍に帰順する者余々に増え、統制の利かない広嗣軍は西へ敗走、五島列島から、済州島付近まで行ったが、強い西風に拭き戻され、五島列島の宇久島で捉えられて、大宰府へ護送される途中で処刑された。

何故無謀な反乱を企てたのか、身内からも疎外され九州に左遷され、孤立感から、玄昉、下道真人への妬みは藤原一門への腹いせにあったのか、無名に近い二人は唐国に十七年も大陸の文化物品、備品、仏教の経典は新鮮なものだったに違いない、そして何より聖武や光明に取り求めたものは唐の情報が欲しかったに違いない。
大陸の情勢や、政治文化も気に成っていただろうし、また聖武の母の宮子の病気の怪しげな祈祷まで買って出た、益々聖武は玄昉を信じ切っていった。
異例の抜擢、成人に成るまで会えなかった母宮子の病を手懸け、効果が有ったか無かったは定かではないが、野心満々な政僧玄昉はたちまち政治の中枢に参入していった。
処がその後の政変で失脚した。天平十七年(747)九州は筑紫の観世音寺に左遷、翌年栄華を極めた玄昉は没した。
一方下道真人は出身の吉備の名を取り、吉備真備と改め、常に政治の中枢に有って、節目、節目に登場し重要な役割であり続け、孝謙の時代まで朝廷を支え続けた。
※問題の発端になった吉備真備は(695~775)政治家で父は右衛士少尉下道道朝臣、母は渡来系、養老元年(717)遣唐使に留学生として安倍仲麻呂や玄昉と共に入唐し。滞在17年にも及び、儒学、礼儀、律令、軍事などを諸般の多くの学問の書物を持ち帰った。帰国後、孝謙天皇に重用され学士になった。以後この女帝に厚遇され、藤原四兄弟死後の橘諸兄にも登用された。九州大宰府の藤原広嗣の名指しで追放を掲げて反乱された。その後、仲麻呂政権下では冷遇され、嫌われて西海道に左遷されるが、再び遣唐使で唐に渡るが帰国後も帰京は許されず地方の役人として十数年を過ごした。天平宝字八年(764)造東大寺司の長官として戻り、恵美押勝の乱(藤原仲麻呂)では率先し敵の退路を断ち活躍した。その後、弓削の道鏡政権下では異例の出世をした。七十二歳の高齢で右大臣に上り詰め、七十七歳で右大臣を辞し、四年後八十一歳で生涯を閉じた。吉備真備ほど長きに渡り時代の節々に活躍した人も稀で、唐との文化導入の橋渡しの功績は大きい。