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本田宗一郎さんの跡を継ぎ、ブルドーザーの様な突進力で今日の「世界のホンダ」の地位を確固たるものにされた、本田技研工業2代目社長河島喜好さんが、10月31日午前9時11分、お亡くなりになられました。
ホンダスピードクラブの監督であり、父が兄のように慕っていた方でした。
謹んでご冥福をお祈り致します。

下記は、拙ブログの読者の方から頂いた、ホンダのリリースです。
情報ご提供、ありがとうございました。




訃 報
2013年11月6日 Honda広報部

弊社元社長 河島喜好 が永眠いたしましたので、ここに謹んでお知らせ申し上げます。

河島 喜好(かわしま きよし)
本田技研工業株式会社 元取締役社長  
2013年10月31日 午前9時11分、肺炎で死去。1928年2月1日生まれ、享年85歳。
葬儀は、故人の遺志により、すでに近親者で執り行われており、後日弊社として「お別れの会」を行う予定です。尚、弔意は固くご辞退申し上げます。
お問い合わせ先: 弊社総務部 電話: 03(5412)1112





以下は、11月7日付日本経済新聞朝刊記事より。




<社会2面:訃報>

元ホンダ社長の河島喜好(かわしま・きよし)氏が10月31日午前9時11分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。85歳だった。連絡先は同社総務部。お別れの会を行うが日取りなどは未定。

1973年、ホンダ創業者の故本田宗一郎氏の後継者として2代目社長に就いた。

82年に日本の自動車メーカーで初めて米国で現地生産を開始、海外展開を進めて事業を拡大した。社長を10年間務め、83年に取締役最高顧問に退いた。

94年には東京商工会議所副会頭に就任した。


<企業1面:評伝>

技術のホンダけん引 河島喜好氏死去

ホンダの2代目社長で、日系自動車メーカーの米国進出の先陣を切った河島喜好(かわしま・きよし)氏が10月31日、死去した。創業者の故本田宗一郎氏から1973年に社長を引き継いだ。石油危機や日米自動車摩擦など経営環境が激変した10年間で、売上高を5倍の2兆円に増やし同社の成長の礎を築いた。

「勝ち残るためには培った『ホンダイズム』の良い部分を残していく」。生前こう語っていた河島氏は、技術力を武器に自主独立を貫くホンダを象徴する経営者だった。

47年にホンダ前身の本田技術研究所に入社。草創期のエンジニアとして二輪車エンジンを設計した。61年、英国の伝統的な二輪車レース「マン島TTレース」に監督として挑み、125ccなど2つのクラスで1~5位を独占。「技術のホンダ」を世界に知らしめた。

45歳で故本田宗一郎氏の指名で2代目社長に就任。元副社長の故藤沢武夫氏と宗一郎氏の両創業者の強いリーダーシップが特徴だったホンダの経営を集団指導体制に移行した。日米自動車摩擦が激しくなるなか、日本の自動車メーカーとして初の米国生産を決断し82年にオハイオ州でセダン「アコード」の生産を開始。その後の成長につなげた。

実弟は元日本楽器製造(現ヤマハ)社長で、元ダイエー副会長の故河島博氏。