さっき、九死に一生を得た

 

昼ごはんにパスタを作っていたら

急にすごい咳き込んじゃって

 

そう、半月以上前から出てる咳がよくならなくて

日に日に絡む痰が増えていたんだけど

痰のねばりがそれはもう

ものすごい強さになっていて

 

さっきはその最強の痰が喉につまって

「どうしよう!息ができない!!」ってなって

いやまじで痰が切れなくて

「やばい、死ぬ!!」

って思った

たぶん、餅が喉につまったときもこんな感じだ

 

1人で変な咳しながら

もだえ苦しんで、息を吸うことができなくて

でも、同じ家の中にいる夫や子供たちは無反応

人が死ぬって、意外とあっさりこんなもんかもしれないな・・・・

って孤独感感じたところで、なんとか痰が切れた

 

あいかわらず家族は無反応

私がいま命の危機からなんとかギリギリ生還したことも知らない

多分、彼らに「今大変だったんだよ!!痰がからんで死にそうになったんだよ!!」

って言ったところで、せいぜい

「そうなの?あぶない、気を付けてね」って言葉が返ってくるだけで

この緊迫感を理解してもらうことはできない

 

しかし、もしかして今頃死んでいたかも

という経験をした今の私は、さっきまでの私とは

別物に生まれ変わったような気がするのだ

 

 

 

 

 

 

昔から物覚えが悪いことが

コンプレックスだった


歴史が大好きで一番勉強してたのに

テストは超苦手

流れがわかっても人名や年号が覚えられない


大好きで何十回も歌っている歌も

歌詞カードがなきゃ歌えない


人の顔や名前もすぐ忘れる

さっきニコニコ手を振ってくれた人

誰だっけ、、、?


マニアックな話が大好きなのに

知識が蓄積されないから

私自身はマニアにはなれない



ても最近ようやく

覚えていないからこそ

いいこともあるなって気づいた


覚えていないからこそ

変な先入観がない

いつも新鮮で客観的な目でみれる

その場所その瞬間の反応を楽しめる

固執しない

知識の組み合わせがフレキシブル


それってなんか、自由だ


知識は多ければ多いほうがいい

それが頭の良さであるというのが

今の一般的価値観だけれど

私は私らしくていいんじゃない?


そんな折

メイクアップアーチストの藤原美智子さんの

著書『美の宿るところ』を読んだら

同じようなことを言っていて

なんだか勇気づけられた


--------------

こうして"忘れる"技術を身につけた私だが、これはヘアメイクの仕事以外にも有効であることがわかった。まず、新鮮に思えることが増えた。それはそうだ。忘れてしまうのだから何度、同じものを見たり聞いたりしても初めてのように新鮮に思えるのは当然だ。

(中略)

他によかったことは、気持ちを引きずらずにパッと切り替えられるようになったこと。そして、目の前のことに瞬時に集中できるようになったこと。それもこれも、過去を忘れるからできるのだ。つまり、忘れるということは過去に囚われずに、過去から自由になることでもある。だから過去より未来に目を向けたい時は、忘れるに限るというわけである。


藤原美智子『美の宿るところ』幻冬舎

p138

--------------



『東京の生活史』
  岸 政彦 編 筑摩書房

最近、私が情報を得るときに
強く興味が惹かれるのは
実際に体験した当事者のナマの声
ということ

人のフィルターが入った伝聞や
データや資料を読み解いた解説は
参考にはしても

あまり興味はない

そういう意味で、この本は非常に面白い

東京で暮らす、さまざまなバックグラウンド

(階層、年齢、職業、ジェンダー、国籍)

の人たち、150人の人生語りを集めたもの

現在の東京で行ったフィールドワークだ


正確に言えば、語り手とは別に、

聞き取って文章に起こした人のフィルターは

若干は入っているはず

しかし文章は

語り手の口調を極力そのまま再現している


話がいったりきたり

喋り方の癖や訛りもそのままで

意味がわからないところや

文章としては破綻しているところも多々ある


それが、確かにその人がそこで語っている、

自分もその場で聞いているかのような

感覚になる


ドラマチックなものもあれば

淡々としたものもある

ニュースや小説にはならないような

美しくは整っていない

名もない人たちの人生


しかし、そこには確かに

人間が、生活が、人生がリアルに感じられ

私に多くの刺激をくれる


1人につき約1万字×150人分で1200頁超

図書館から持ち帰るにもズッシリきたが

まだ3分の1ほどの進捗

正月が終わるまでに

何人分の人生を読むことができるか、、、




2023年の始まりとともにカレンダーを替える


今年は岩合光昭さんの「日本の猫」にしてみた

これがとってもよくって

正月からテンションあがってる


岩合さんの写真は

猫の魅力にあふれていて

去年の「世界の猫」も大満足だったけど


今年のカレンダーは

それに加えて

毎日の日付のところに

季節の行事?が書いてあるのがいい


「七草」とか「鏡開き」あたりは

そう珍しくないけれど

「蝋梅咲く」とか「鍋囲む」とか

この季節ならではを楽しみたくなるような

言葉が毎日書いてあって

なんだかワクワクしてくる

4文字以内で超簡潔なので

日めくりのようなやや押し付けっぽさもなし


じゃあ、今日1月2日は何かなー?

と思ってみたら

「振替休日」だったw

のんびりしよう




再放送みれてよかった。

教えてくれた友人に感謝。

録画は永久保存版。

 

感想メモ。

 

「子どもの自死」がテーマの絵本。

谷川俊太郎さんが作った詩に

絵本初挑戦のイラストレーター合田里美さんが絵をつけ

完成させていく過程を追ったドキュメンタリー。

 

テーマについても考えさせられることがたくさんあったし

絵本製作の過程で谷川さんと合田さんが

互いに反応しあって作品を作り上げていく様子も非常に興味深かった。

谷川さんは普段は絵本の作画に口を出すことはあまりないそうだけど

今回、どんどん新しいアイデア、意見がわいてきて伝えずにいられなかったのは

合田さんの絵にインスパイアされたからに間違いない。

 

「子どもの自死」というシリアスなテーマ。

自分はこれまでそのテーマにどのように対していたか?

考えるのも辛い、想像するのも辛いことゆえ

あまり考えないようにして

ステレオタイプなイメージのままで

なんとなくそのままにしていたような気がする。

 

でも本当は、誰が死にたいと思ってるかなんてわからない。

子どもの自死の半分以上は、動機が不明だという。

 

いつも明るくて元気なあの子が

実は毎日死にたいと思っているかもしれない。

友だちと遊ぶのが好きで、麦茶やおにぎりがおいしいと感じるあの子が

突然いなくなっちゃうかもしれない。

 

谷川さんは、「ぼく」が孤独だったんじゃないかとか

すべてを消し去りたいと思ったんじゃないかとか

ステレオタイプなイメージを押し付けない、説明しない、

ということを大切にしていた。

 

合田さんの画風は、イメージを勝手に押し付けてこず、

見る方が自由に想像をめぐらしてしまえるような

不思議な魅力がある。

(もちろん意図的なものはすぐわかるが)

 

ナレーションの石田ゆり子さんの声も、

同じように押しつけがましくなく

聞く方が自由を感じられる魅力的な声だ。

 

谷川俊太郎さんの言葉で心に残った部分の要約。

  ーーーーーーーーーーーー

  今は意味偏重の世の中

  誰でも何にでも意味をつけたがる

  意味を探したがる

 

  意味よりも大事なものは

  何かが存在するということ

  あるということ

  存在

  それを言葉を介さないで感じ取ることが大事

 

  生きているうえで

  意味を回避するというか

  意味づけないで

  じっとみつめる

  じっと我慢する

  そういうことをしなくなっている

  意味をみつけたら満足してしまう

  ーーーーーーーーーーーー

 

そして、死んだら終わり、ではなく、存在は消えない。

私も友人の突然の訃報に直面した時を思い出した。

 

特に、突然二度と会えなくなった人の存在感は

そのショックとともに、とても大きなものとなる。

すごく親しかったわけじゃなくても

もう10年以上会っていなくても

そこに想像以上の存在があったことを感じてびっくりする。

自分の中にその人の存在がずーっとあったんだ、

そしてこれからもずーっとあるんだということを

感じながら生きていく。

存在から受け取った反応は、細胞に刻みこまれていて

自分という存在の一部になっていることを

感じながら生きていく。

 

だから、生きているこの時を大事にしたい。

目の前にいる人の存在も、しっかり感じ

細胞に刻み込みながら生きていきたい。

 

 

若いころは、献血が趣味とまで言っていた私。

 

でも出産後は貧血傾向がひどくなったりで

献血前の検査でお断りされることが続いていた。

 

今日は十数年ぶりの献血成功!

身体が整ってきた実感ができて嬉しい。

 

久しぶりの献血ルームで

私が献血が好きだった理由について

ぼんやり考えてみたりする。

 

献血したくなるのは

決まって気分が落ち込んでいる時が多かった。

そんな時に献血すると

ちょっとスッキリした気分になった。

 

自分に針を刺して血を抜くという行為は

自分に罰を与えているような感覚もあった。

もしかしてリスカにも通じる感覚かも?と思ったこともある。

 

こんなにダメな自分でも

献血という形なら誰かの役に立つことができる

生きている価値はあるのだと

感じたかったのかもしれない。

 

また、血を失うことにより

身体が危機を感じて

生体活動が活性化するのを感じたのかもしれない。

瀉血は近代医学が登場するまで

あらゆる病気の治療として行われていたし。

 

そう考えてみると、献血は一見利他的な行動だけど

私の場合は相当に利己的な動機だなと思う。

 

そして

 

健康

利他的

行動的

 

それらを兼ね備えていると一見してわかる素敵な人たちが

献血ルームにはたくさんやってくる。

 

彼らと同じ空間にいるだけで

なんとなく自分もそれに近づいているような気持になる。

ミラーリング効果はすごい。

 

人には言えない動機を認識しつつ

また献血しにいこうと思う。

 

少し前の対談。

DAncing Einstein主催の第1回Neuro Cafe(脳カフェ)

「個性ってなんだろう?どうすれば活かせる?」

 

 

まちの保育園・こども園を運営する松本理寿輝さんと

DAncing Einstein代表で脳・神経科学者の青砥瑞人さん。

 

個性について、私が何となく感じていたことを

素敵に言語化してもらって

心にぷるるっときたのでした。

 

私なりの理解をまじえた備忘メモ。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

誰一人個性的でない人なんていない。

脳からみても、DNAからみても。

誰でも、必ず、それぞれらしさがある。

 

個性というと、現れてきていること(アウトプット)に目が向きがちだが、

むしろインプットのメカニズム、つまり

何に関して興味を持ち、そこにどう反応しているか、どうアプローチしているかの方に

個性が出るのではないか。

 

個性的でないように見えたとしたら

本来1人1人が内側で感じている好奇心のようなものを

大人によって否定されたり

社会からの同調圧力により押さえつけられ続けた結果

現れていないだけ。

 

個性は他の人の個性も刺激する。

他人の個性から受けた影響が、学びや成長につながり、新しいものがうまれる。

特に好きな人、信頼できる人からの影響は大きい。

もともと興味がなかったことでも、好きな人の興味関心には興味をもつ。

それが世界が広がることにつながる。

だから学びはグループでやった方がいい。

 

心理的安全が大事。

アタッチメントや環境作り。

心理的安全があると、子どもたちは自然に興味がでてくる。

 

心理的に安全じゃないと

脳のリソースが危険を回避するモードでいっぱいになり

できていないところや不安など

ネガティブなところに勝手に強くフォーカスしてしまう。

できていることや、楽しいことなどに

意識的にフォーカスすることが大事。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

とにかく身体のチカラを抜くこと

意識する日々が3年近く続いている

 

無意識のうちに

身体のいろいろな筋肉にチカラが入ってしまっていたんだと

気づいた時から

 

でも

チカラを抜くのは簡単そうですごく難しい

 

すでに身体は

チカラが入っていること前提のバランスになっていて

 

つまりこのバランスでいる限り

チカラが入っていることが不可欠で

 

つまりバランスを変えない限り

チカラを抜くことができないってこと

 

しかも

長年チカラが入っていたところは

チカラが入った状態を維持しやすいように

身体がコリ固まってくれている

 

つまりコリをほぐさないと

身体のバランスは変えられないし

チカラを抜けないってわけなのだ