「雑兵記」 新井甲一郎 (まつやま書房)
「雑兵」です(だから番外編なのです)。
武州岩付太田領朝日村に住む弓足軽・半次郎と、
同じく千々川村に住む槍足軽・丑松と、それぞれの子供達二代の物語で、
彼ら四人が別個に章分けされています。
別にまつやま書房から出ているから、という訳ではありません(笑)。
まず、史実との整合性があまり取られていません。
長尾景虎が、関東侵攻前に上杉の名跡を譲られていたり、
京への上洛前に謙信と名乗っていたり、
政虎と名乗る前に輝虎を名乗っていたり、
太田資正が息子に追放されたのではなく、家督を譲って城を出たり、
その他細かい間違いが目立ちます。
しかし、間違いが多くとも、面白ければ良いのです(良くないけどw)!!
本作は、ひたすらあらすじのような展開が延々と続きます。
もう少し二人の雑兵が絡み合って、いろいろと起こる事を期待しましたが、
残念ながら、特にそのような事もありませんでした。
別に面白い事が起こらなくても不思議はないのです。
ごく普通の雑兵の、等身大の一生を、描きたかっただけなのかもしれません。
特にドラマチックでもない、雑兵達のリアルな日常を描いた作品です。
武将マイナー度:無し ☆☆☆☆☆(武将ではない)
第25回 「鄙の御所」 北見輝平 (さきたま出版会)
古河公方が主人公の小説って今までありましたっけ!?
そんなマイナーな存在である古河公方ですが、
今回の小説の主人公・足利成氏は初代古河公方で、
関東管領上杉氏や太田道真・道灌父子と争い、
古河が東国の首都として百年近く存在した礎を築いた、すごい人物なのです。
父を幕府方に殺され、兄達も結城合戦で喪った成氏は、
紆余曲折の末鎌倉公方に復帰した後、怨敵である幕府方である上杉憲忠を殺害するのですが・・・、
上杉憲忠殺害とかは説明だけですっとばされています。
結城合戦から、いきなり古河への移居。
成氏も、あまり幕府方を恨んでいるようには見えない、
というか活躍がほとんど目立ちません。
そのかわり、やたらと宴会シーンが多いです(儀式シーンも多め)。
これはつまり、成氏は自身の強力なリーダーシップでグイグイ行くタイプではなく、
家臣や周辺領主に据え置かれたトップのような感じなのでしょうか。
成氏のキャラクターも、至極普通な好青年風で(やや鬱気味ですが)、
心の闇のようなものはほとんと感じられません。
ホントにこんな感じだったんですかねぇ。
冷静で切れ者ながら酒が飲めない、関宿城主簗田持助、
お調子者で宴会で役に立つ(?)、栗橋城主野田右馬助や、
結城、小山、宇都宮等の周辺領主の面々等。
特に簗田持助は活躍が多く、
築城の可能性を探れという成氏の密命を受け、岩付の沼地へ赴くと、
そこには太田持資がいて(もちろん両者とも正体を知らない)、
両雄語り合う(「もちすけ」同志)シーンがなかなか印象深かったです。
他にもこうした古河周辺の観光(?)を意識したシーンが多く、
先の岩付久伊豆神社を始め、鷲宮神社や騎西竜興寺、
館林茂林寺等、まるでその場にいるかのような描写が数々あります
(茂林寺のエピソードはどこにも伏線があるようには思えないのだが・・・)。
丁寧な儀式描写や酒宴描写等の他、たまに光るものがあり、
なかなか評価しづらい作品です。
足利成氏に対する先入観によって、評価が分かれる作品かもしれません。
武将マイナー度:3 ★★★☆☆
大名家を渡り歩く武士に関しては、僕は実はそれほど詳しくは無く、そういう人達がいたという事はなんとなくわかりますが、戦争で滅ぼされた家の武士が、仕方なく食つなぐ為に他家に仕える、というようなイメージでした。しかし本書に書かれた「戦功覚書」を残すような武士は、自らの意思で他家を渡り歩く(滅ぼされてなくても、他家へ仕えてしまう)ような人たちなのです。そして彼らの中には近世大名の下で出世し、重臣として高禄で迎えられている人達もいるのですから驚きです。もちろん、彼らは出世したからこそ「戦功覚書」が残せるわけで、そこまで出世しなかった渡り歩く武士達が、それ以上にたくさんいた事は容易に想像できると思います。
さて、本書で紹介される武士の名は「里見吉政」、全く知りませんでした(もし「マイナー武将小説」だったら星5つですw)。房総里見氏の方ではなく、上野国の里見氏発祥の地が出身地の武士で、生年が天文二十一年(1552年)だったようです。彼は北条氏、滝川氏、秀吉軍や浅野長吉などを経て、最終的には井伊家でなんと知行1000石の重臣となります。そんな彼が、子孫たちに自分の戦いぶりを残すために記したのが「吉政覚書」なのですが、この「吉政覚書」が面白いのは単なる子孫への自慢話ではなく、やや自嘲的な教訓書だからです。彼は確かに有能だったのでしょう、合戦で功績をあげはするものの、それが軍令違反だったり他人に功績をさらわれてしまったりして、細々とした失敗を重ねてしまうのです。彼の覚書には、太田資正や真田昌幸など、有名無名問わず様々な関東近辺の武将が登場し、当時の合戦の状況などもわかるので、読み物としても優れていると思います。
今日の銅像2019
https://twitter.com/hikisimousa/status/1100847099220914177
https://twitter.com/hikisimousa/status/1142889129954304000
https://twitter.com/hikisimousa/status/1142888208360861701
https://twitter.com/hikisimousa/status/1142887572995096576
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ちなみにおととしは茨城県12、栃木県6、群馬県5、埼玉県13、千葉県2、東京都8、神奈川県11だったので、全体的に激減している。これには訳がある(後述)。
ちなみに、おととしの観光走行距離:9066km、高速代が¥67210。関東外1回を除くと走行距離:8190km、高速代:¥61440。
茨城 栃木 群馬 埼玉 千葉 東京 神奈川 合計
2016 07 02 07 13 04 00 02 035
2017 16 08 08 26 13 05 03 079
2018 28 14 13 39 15 13 14 136
2019 33 16 14 45 21 15 19 163
各県総数 44 25 35 72 59 53 58 346
2016 15 08 20 18 07 00 03 010
2017 36 32 23 36 22 09 05 023
2018 64 56 37 54 25 25 24 039
2019 75 64 40 63 36 28 33 047
武田信虎 (中世武士選書42)
3,080円
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今年2019年は、甲府開府500周年だそうです。甲府駅前には武田信虎像が建てられ、これは、かつて「悪逆無道」といわれた時代からは考えられない事です。そもそも、この「悪逆無道」とは真実だったのか、を問うたのがこの「武田信虎」なのです。
武田信虎とは武田信玄の父であり、子の信玄によって追放された人物、というのが一般的なイメージでしょうか。信虎の代までに甲斐一国を統一し、居館を甲府へ移転させた、というのはそれ程知られていないのかもしれません。「武田信虎」では、彼が成し遂げた偉業が、著者独自の研究と、甲斐国周辺で進んだ研究から得られた事実によって描き出されています。
まず、信虎が家督を継いだ時点で、周囲は敵だらけだった事がわかります。相模、駿河、信濃(諏訪)方面に、それぞれ甲斐国内に敵国と結びつく国衆がいた事があげられます。信虎が家督相続した年に挙兵し、討伐された叔父の油川信恵も、相模の伊勢氏(後の北条氏)と結びついていた、というのはこれまでにない新しい視点でした。唯一、武蔵方面だけは上杉氏(山内上杉氏・扇谷上杉氏)と同盟を結んでいて、武田氏滅亡時に三方向(織田、徳川、北条)敵に回していたのに、一方向だけ唯一の味方が上杉氏(越後)だった状況と似ていますね。しかし、ほぼ四面楚歌状況だった武田氏滅亡時と比べて幸運だったのは、三方向から同時に攻め寄せてこなかったという事でしょうか。油川信恵の挙兵も、結局単発のものとなり、数的有利な信虎方の勝利になったとしています。これには理由があり、信虎と対立する甲斐国衆達を後援する敵国には、堀越公方府と室町幕府との対立によって形成された同盟関係が引き継がれていて、いわば敵の敵は味方状態(伊勢氏の敵は両上杉氏、諏訪氏の敵は小笠原氏、今川氏の敵は斯波氏)となっていたため、安易に甲斐には攻め込めなかったようです。しかし、幸運だっただけでは無く、敵国が同盟国と戦っている間に甲斐国衆を叩く(後援が出せない)等、戦略的にも優れていたと思います。
信虎は、甲府への本拠地移転と城下町建設、他の大名と比べて先駆的な城下集住策等を実行し、また甲斐国衆の力を削ぎ落とし、武田氏の力を強めようとしたようです。しかし、そのせいで甲斐国内での戦乱は続き、穀物の相場が乱高下したことが、当時代史料『勝山記』によってわかったそうです。これは毎年のように、天災、飢饉が起きたからのようで、それに加えて戦争(街道の封鎖などが行われた)ですから、甲斐国内は大変だったようです(ちなみに黒田基樹氏の『百姓から見た戦国大名』では、戦争こそが飢饉の原因、と書いていたような)。結果的に、信虎追放時には、『勝山記』にも「悪逆無道」等と書かれており、領民からの支持を得られてなかったようですが、後の軍記物等が提示するような振る舞い(妊婦の腹を裂いて胎児の生育を観察した等)は、当時の史料には無いようですので、苛政からの印象が尾ひれを付けて広まった、といったところでしょうか。
甲斐一国を統一し、武田氏飛躍の基盤を作ったのは、武田信虎である事は明らかだと思います。しかし、信虎を他国へ追放せざるを得なかった事によって、武田氏に悪い因果が残ってしまった印象が拭えません。領民の疲弊への不満を解消するには、「代替わり」しか手はなく、信虎が隠居を容易に納得しなかったとしたら・・・、父子で家督争いとなります。そうなれば国内はさらに混乱するので、他国へ無血で追放したわけですが、それが後々信玄自体に悪評がついて回る事になります。さらに、信玄自身も子に叛かれる事を常に警戒せねばなりませんでした(武田氏は代々父子で争っている)。また、本拠地移転や城下町建設など領民に負担を強いる政策や、城下集住等の家臣や甲斐国衆の力を削ぐ政策も、実はあまり受け入れられていなかったのかもしれません。信玄も領民や家臣の顔色を伺わねばならず、先駆的な政策が打ちにくくなったのかもしれません。また、甲斐一国を統一はしていますが、国衆である穴山、小山田は残したままで、例えば北条氏のように相模一国をまるまる本国とする事は叶いませんでした。力を削ごうとすれば再び国内での戦乱は避けられず、後援となる今川、北条氏と結ぶ事で手を打ち、以後は国内で戦争をする事はありませんでした(穀物の相場も安定する)。結構、信玄にも不運な点があったのかもしれません。真の武田氏の飛躍には、スムーズな家督継承が不可欠だったと思います。