緊急事態宣言が延長になりましたんで、今週も書評です。「観応の擾乱」、今書店に売っているのは、マンガイラストが書いてある帯付きのものですが、僕が持っている本にはそれがありません。はい、積読本です。読もう読もうと思っている内に、長い年月が経ってしまいました(ちなみに「応仁の乱」も積読ですw)。 元々南北朝時代はあまり詳しくないのですが、城跡や史跡巡りをしていると、たまにこの時代のものに出くわす事があります。その時は案内板を読みながら「ふ~ん、そうなんだ~」と思いながら、わかったようなわかってないようなモヤモヤした気持ちで立ち去るのですが(笑)、今回この本を読んでかなり理解できたような気がします。
 
 とはいっても理解できません(笑)。理解不能な事の連続です。圧倒的優勢だったかに見えた高師泰・師直兄弟が一気に没落し失脚、一気に逆転勝利を収めたかに見えた足利尊氏の弟直義も、わずか一年で敗退してしまいます。高師直は、幕府の中でもずば抜けた功績の家臣(執事)で、直義は尊氏に代わって実質的に幕府の運営をする最高実力者です。その二人がなぜ争ったのか?それは、この本を実際に読んでもらった方が理解できると思いますが、結局行きつくのが恩賞の問題なのでしょうか?いかに武士達が納得する領地を与える事が困難か、最終的にはそこに行きつくような気がします。師直や直義の政策や性格が、命運を分けたわけです。最終的な勝者の尊氏は、武士達の満足いく領地を与えたのでしょう(大盤振舞いをせざるを得なかったのでしょうか)。
 
 興味深いのは、直義は鎌倉幕府以来の理非糾明型、尊氏の嫡子義詮は一方的裁許型の訴訟制度を採用したという所です。理非糾明とは、双方の主張を聴いて公平に判決を下す訴訟で、一方的裁許は訴人の主張のみ聴いて、主張通り判決を下す裁判だそうです。鎌倉幕府が「御成敗式目」を制定すると、理非糾明訴訟が登場した事から、鎌倉幕府の執権政治は理想の政治、善政と称えられたそうです(先週の「太平記」再放送でも北条方の評定で、公平な裁きとかそんなようなセリフが出てきましたね)。確かにこれだけ見ると、理非糾明型の鎌倉幕府、それを引き継いだ直義の方が良さそうにみえます。しかし、実際は理想通りいかず、裁判の手間や時間ばかり費やす、弊害の多い制度だった事が著者によってわかりました。訴人だけの主張を聴き、迅速に判決を下す。当時の武士達にとって、義詮の政策は大歓迎された、との事です(もちろん、一方的裁許では済まない案件は、理非糾明で裁判したようです)。
 
 実は、観応の擾乱のキープレイヤーとなるのが、尊氏の庶長子直冬です。優れた資質を持ちながら、なぜか尊氏は毛嫌いし冷遇してしまいます(なんとなく、後醍醐天皇の子、護良親王を思い浮かべてしまいます)。これには高師直も同調していたそうです。西国に左遷された直冬は、後に九州で勢力を拡大します。高師泰・師直兄弟がこれの討伐を失敗したことが、高兄弟の没落の遠因となるわけです。何という因果でしょう。大河ドラマ「太平記」にも直冬は出てきそうで楽しみです。母親は、あの登場人物かな?(未見なので、ネタバレはやめて下さいねw)
 
 まだまだ語る事が山ほどありますが、実際に本を読んでもらった方が早いと思いますので、この辺で。
 
今週も積読本解消です。今回はかなり古い(2013年10月刊行)の、「戦国三好氏と篠原長房」です。三好氏家臣の隠れた名将・篠原長房について書かれた本で、平成元年に刊行された本を復刊させたもののようで、著者も故人です。史料の制約上、軍記物や後世記録からの記述が多い印象でしたが、それでも巻末の参考文献の数は圧倒されます。
 
篠原氏は、長房の祖父の代から三好氏に仕え、三好之長、元長、長慶三代に渡って重用されたようです。阿波の実質的な国主である、長慶の弟義賢(近年の研究では、実名は之虎、出家名は実休らしい)に従い、畿内の戦いには阿波の軍勢を率いて、たびたび渡海していたようです。永禄五年(1562年)三好実休の討死後は、幼い実休の嫡男長治を助け、三好三人衆や松永久秀に勝るとも劣らない地位や名声があったようです。それは軍記物だけではなく、当時の宣教師の記録にも残されており、「篠原は阿波における絶大の領主である」事などがわかります。また、後世記録ではありますが、長房は幼少時代に、三好長慶・実休の弟・十河一存と剣術試合を行うと造作なく勝利したが、一存とは禍根を残したというような、興味深い記述もありました。
 
三好三人衆と松永久秀の抗争、その後の織田信長入京の頃には、長房は阿波に加えて讃岐も傘下に入れていたようです。三好四兄弟は、長慶は畿内、実休が阿波、安宅冬康が淡路、十河一存が讃岐と、きれいに分布していたイメージがありましたが、この頃には三好氏随一の実力者となって、阿讃衆を率いていたようです。織田信長に抵抗する三好三人衆を助けたり、備前で毛利元就に対抗する為に、大軍を率いて渡海しています。そんな長房でしたが、元亀元年(1573年)、突如主君の三好長治によって大軍で居城上桜城を攻められ、討死してしまいます。この不可解な結末に、後世の記録には、長治の生母大形殿の乱行(一族である篠原自遁をほのめかし、長房が長治への謀反を企んでいると讒言させた)であるとしています。著者の見解は、将足らざる器量の長治が、長房の実力を恐れ疑心暗鬼になった、もしくは信長台頭後の情勢認識の違いについての意見衝突があったのかも、としています。僕としては、三好長治だけではなく、讃岐支配をめぐって十河存保とも対立があったのかな、と思いました。先に紹介したエピソードも、存保の養父一存のものであり、何かを暗示するものだったのかもしれません。しかし、真相は闇の中であり、後世記録が正しいかもしれないし、正しくないのかもしれません。ともあれ、戦国期の地域を代表する実力者の著書があるというのは、素晴らしい事だと思います。
 
4月から、大河ドラマ「太平記」の再放送が始まりました(未見だったので、毎週楽しみに視ています)。今週も積読解消週間という事で、2017年4月に刊行された、「征夷大将軍・護良親王」を紹介します。実は南北朝時代はあまり詳しくないので、10年前くらいまで「ゴラしんのう」と読んでました(笑)。他の後醍醐天皇の皇子も「〇ラしんのう」と重箱読みして、おかしいともなんとも思っていませんでした。正しくは、「もりよししんのう」と読みます(ただし、かつては「良」を「なが」と読んでいたという事にも触れています)。
 
護良親王は後醍醐天皇の第三皇子といわれ、異母兄には尊良親王・世良親王の二人がいた事は確実ですが、母親の血筋のような基礎的な情報ですら確定されず、謎が多い存在のようです。そしてそもそも、後醍醐天皇自身が中継ぎ的な皇位継承者であり、甥の邦良親王が成人するまでの微妙な立場の皇位だったのです。しかし、邦良は二十七歳の若さで薨去します。後任の後継者は何人か選ばれた中、後醍醐天皇は優れた資質を持つ二男の世良親王に期待をかけたようです。その世良親王も四年後の元徳二年(1330年)に薨去したため、後醍醐流が皇統から排除されてしまう事はほぼ確定になってしまいます。当時の平均在位期間10年に迫ろうとしている後醍醐天皇にとって、鎌倉幕府にいつ退位を迫られてもおかしくない、そんな状況打破のために、この前後から討幕の陰謀を巡らせ始めたのではないかと、著者は説きます。
 
護良親王の生い立ちですが、十五歳ごろから梶井門跡(現在の三千院・移転後改称)に入り、子房の「大塔」に入室したので、護良親王を「大塔宮」と称されるようになりました。この梶井門跡は、承久の乱における敗者が多く集い、反幕府的な護良の性格は、この梶井門跡時代に形成されたのではないかと指摘しています。その後、ニ十歳で天台座主(比叡山延暦寺のトップ)になるものの在位期間は短く、その座主を務めていた頃も朝から晩まで武芸の稽古に明け暮れていたようです。元弘二年(1332年)、後醍醐天皇が幕府軍に捕らえられ隠岐の島に流されると、吉野など畿央南部でゲリラ活動をし、楠木正成と同等に幕府側から警戒されていた事がわかります。しかし、足利高氏(後の尊氏)の裏切りによって六波羅探題が滅び、鎌倉幕府も滅びると、早くも護良親王と足利尊氏との争いが勃発します。『太平記』の結果論的な記述から、尊氏に幕府再興の野望があることを理由に、護良は尊氏討伐を願い出たとされていますが、実際は一番おいしいところを持って行った尊氏への反発ではないかと説きます。後醍醐天皇は護良を征夷大将軍にすることで宥めますが、わずか三ヶ月で退任されます。護良が討幕活動で出した令旨と後醍醐綸旨とで、所領関係の矛盾があり、それらの競合が原因かもしれません。勢力が減退した護良はとうとう尊氏暗殺テロを目論むも失敗、拘禁された後、鎌倉で足利直義によって殺されてしまいます。う~ん、なんという不運と不幸にまみれた人生なのでしょう。もう少し先の南北朝時代まで生き延びていれば、北朝側の強敵となっていたかもしれません(さほど強敵にならなかったかもしれませんがw)。
 
最後の方には、護良の遺児・興良親王の事も書かれていて、南朝方の北畠親房の甥である興良は、親房と共に常陸小田城周辺で戦うも突如出奔、下野小山城の小山朝郷は興良を奉じて鎮守府将軍となり、北朝南朝とは別の第三王朝を樹立しようとした、というような非常に興味深い話もありました。著者の記述もわかりやすく、わからないことはわからないと書く所が好感をもてます。この【実像に迫る】シリーズ、オールカラーで写真・図も豊富で、手軽に読めてありがたいです。もう少し安くしてくれるともっと嬉しいです。
 
 
最初に断っておくと、新刊本ではありません。2017年6月刊行です。いわゆる「積読本」だったわけで、昨今の情勢で外出の機会が減ったため、積読解消が徐々に進んでいる状況なのであります。なんでまたこのタイミングで松永久秀なのか、特に意味はありません。今年の大河ドラマにちょくちょく出ているし、最新の研究で「実は忠臣だった」という説が発表され興味があった(その割には読んでいないw)ので、急に読みたくなっただけです。
 
下克上と三つの悪行(将軍殺し、主君殺し、大仏殿を燃やす)で知られる松永久秀が最初に史料に現れるのが、天文九年(1540年)に西宮神社の門前寺院宛に出した奉書が始めで、天文二十二年(1553年)頃に、摂津の滝山城主となりました。この頃さほど久秀の活躍は見えず、むしろ弟の長頼の方が出世していた、というのは割と知られた話ですね。そして久秀が治める大和に侵攻を始めるのが、永禄二年(1559年)で、思ってたよりも遅いです。しかも、翌永禄三年中には大和一国をほぼ平定という、かなりのスピードです。この頃は、主家の三好家の最盛期だったからでしょうか。
 
しかし、翌永禄四年になると、主家三好家は暗転します。三好長慶の末弟十河一存が病死したのを皮切りに、永禄五年には長慶の次弟三好実休が戦死、永禄六年には長慶の嫡男義興が二十二歳の若さで病死、永禄七年には長慶の三弟安宅冬康を長慶自身で殺害、その二か月後に三好長慶が病没と、呪われたかのように三好一族の重鎮達がバタバタと斃れていきます。そして久秀が関与したと伝わったのが、一存、義興、冬康で、一存は久秀と仲が悪かったので当時から暗殺説が伝聞、義興も久秀の毒殺が疑われるが当時の史料では久秀が悲嘆に暮れているので俗説、冬康の殺害も久秀の讒言と伝わるものの定かではないとしています。翌永禄八年には、久秀は三好三人衆とともに将軍足利義輝を殺害したと伝わります。しかし、実際に将軍を攻めたのは息子の久通で、久秀は大和にいて後の将軍義昭を保護していたとあります。永禄十年には、敵対した三好三人衆に攻められ、東大寺に陣取った三人衆を破った際、大仏殿が全焼してしまいます。こちらも後世久秀の仕業とされますが、久秀が意図的に焼いたものではないとしています。
 
なんとなくモヤモヤとする部分もありますが、3つの悪行は久秀の仕業では無いという事がわかりました。しかし、当時の宣教師の書簡によると、「我らの最大の友人」と前置きしながらも、「都全体を圧制により治め」、「暴君の圧制と残虐さ」等、当時から結構散々な評価だった事がわかります。長慶の死の前には宣教師が書き記したような専横な振る舞いは行っていないとしていますが、それはそれでどうかと思います。当時からこのような評判では、主君暗殺等を噂されても仕方がないような気がします。確かに主君三好長慶を裏切ってはいないので「忠臣」なのかもしれませんが、「忠臣」という言葉に付き纏う、清廉さは感じられませんでした。逆に、忠臣という枠に収まりきらない、非常に複雑な人物であると感じました。
『僕が愛したマイナー武将小説』(番外編)
 「雑兵記」 新井甲一郎 (まつやま書房)
 
 
 
今回紹介する小説の主人公は、武将ではありません。
「雑兵」です(だから番外編なのです)。
武州岩付太田領朝日村に住む弓足軽・半次郎と、
同じく千々川村に住む槍足軽・丑松と、それぞれの子供達二代の物語で、
彼ら四人が別個に章分けされています。
 
 
さて、本作品ですが、評価するのが非常に難しいです。
別にまつやま書房から出ているから、という訳ではありません(笑)。
まず、史実との整合性があまり取られていません。
長尾景虎が、関東侵攻前に上杉の名跡を譲られていたり、
京への上洛前に謙信と名乗っていたり、
政虎と名乗る前に輝虎を名乗っていたり、
太田資正が息子に追放されたのではなく、家督を譲って城を出たり、
その他細かい間違いが目立ちます。
しかし、間違いが多くとも、面白ければ良いのです(良くないけどw)!!
本作は、ひたすらあらすじのような展開が延々と続きます。
もう少し二人の雑兵が絡み合って、いろいろと起こる事を期待しましたが、
残念ながら、特にそのような事もありませんでした。
 
 
ただ、考えてみればただの雑兵なのですから、
別に面白い事が起こらなくても不思議はないのです。
ごく普通の雑兵の、等身大の一生を、描きたかっただけなのかもしれません。
特にドラマチックでもない、雑兵達のリアルな日常を描いた作品です。
 
 
評価:2 ★★☆☆☆
武将マイナー度:無し ☆☆☆☆☆(武将ではない)
『僕が愛したマイナー武将小説』

第25回 「鄙の御所」 北見輝平 (さきたま出版会)
 

 

鄙の御所 鄙の御所
1,650円
Amazon

 

 
 
今回紹介する小説の主役は、なんと古河公方!!
古河公方が主人公の小説って今までありましたっけ!?
そんなマイナーな存在である古河公方ですが、
今回の小説の主人公・足利成氏は初代古河公方で、
関東管領上杉氏や太田道真・道灌父子と争い、
古河が東国の首都として百年近く存在した礎を築いた、すごい人物なのです。
 
 
物語の始まりは、結城合戦から。
父を幕府方に殺され、兄達も結城合戦で喪った成氏は、
紆余曲折の末鎌倉公方に復帰した後、怨敵である幕府方である上杉憲忠を殺害するのですが・・・、
上杉憲忠殺害とかは説明だけですっとばされています。
結城合戦から、いきなり古河への移居。
成氏も、あまり幕府方を恨んでいるようには見えない、
というか活躍がほとんど目立ちません。
そのかわり、やたらと宴会シーンが多いです(儀式シーンも多め)。
これはつまり、成氏は自身の強力なリーダーシップでグイグイ行くタイプではなく、
家臣や周辺領主に据え置かれたトップのような感じなのでしょうか。
成氏のキャラクターも、至極普通な好青年風で(やや鬱気味ですが)、
心の闇のようなものはほとんと感じられません。
ホントにこんな感じだったんですかねぇ。
 
 
家臣は数多く登場し、結城合戦で幼い成氏を抱いて逃げた、幸手城主一色直満、
冷静で切れ者ながら酒が飲めない、関宿城主簗田持助、
お調子者で宴会で役に立つ(?)、栗橋城主野田右馬助や、
結城、小山、宇都宮等の周辺領主の面々等。
特に簗田持助は活躍が多く、
築城の可能性を探れという成氏の密命を受け、岩付の沼地へ赴くと、
そこには太田持資がいて(もちろん両者とも正体を知らない)、
両雄語り合う(「もちすけ」同志)シーンがなかなか印象深かったです。
他にもこうした古河周辺の観光(?)を意識したシーンが多く、
先の岩付久伊豆神社を始め、鷲宮神社や騎西竜興寺、
館林茂林寺等、まるでその場にいるかのような描写が数々あります
(茂林寺のエピソードはどこにも伏線があるようには思えないのだが・・・)。
 
 
割と戦闘や政治状況などはすっとばされがちですが、
丁寧な儀式描写や酒宴描写等の他、たまに光るものがあり、
なかなか評価しづらい作品です。
足利成氏に対する先入観によって、評価が分かれる作品かもしれません。
 
 
 
評価:3 ★★★☆☆
武将マイナー度:3 ★★★☆☆
 
 
 いきなり手前味噌な話になりますが、昨年末刊行された『太田資正と戦国武州大乱』では、太田資正の家臣についての記事を書かせてもらいました。今回紹介する『戦国武士の履歴書』も、大名家当主などのトップの話ではなく家臣の話なのですが、なんとただの家臣の話ではなく、大名家を「渡り歩く武士」の話なのです。
 
 大名家を渡り歩く武士に関しては、僕は実はそれほど詳しくは無く、そういう人達がいたという事はなんとなくわかりますが、戦争で滅ぼされた家の武士が、仕方なく食つなぐ為に他家に仕える、というようなイメージでした。しかし本書に書かれた「戦功覚書」を残すような武士は、自らの意思で他家を渡り歩く(滅ぼされてなくても、他家へ仕えてしまう)ような人たちなのです。そして彼らの中には近世大名の下で出世し、重臣として高禄で迎えられている人達もいるのですから驚きです。もちろん、彼らは出世したからこそ「戦功覚書」が残せるわけで、そこまで出世しなかった渡り歩く武士達が、それ以上にたくさんいた事は容易に想像できると思います。
 
 さて、本書で紹介される武士の名は「里見吉政」、全く知りませんでした(もし「マイナー武将小説」だったら星5つですw)。房総里見氏の方ではなく、上野国の里見氏発祥の地が出身地の武士で、生年が天文二十一年(1552年)だったようです。彼は北条氏、滝川氏、秀吉軍や浅野長吉などを経て、最終的には井伊家でなんと知行1000石の重臣となります。そんな彼が、子孫たちに自分の戦いぶりを残すために記したのが「吉政覚書」なのですが、この「吉政覚書」が面白いのは単なる子孫への自慢話ではなく、やや自嘲的な教訓書だからです。彼は確かに有能だったのでしょう、合戦で功績をあげはするものの、それが軍令違反だったり他人に功績をさらわれてしまったりして、細々とした失敗を重ねてしまうのです。彼の覚書には、太田資正や真田昌幸など、有名無名問わず様々な関東近辺の武将が登場し、当時の合戦の状況などもわかるので、読み物としても優れていると思います。

 

 このような「吉政覚書」なのですが、果たして書かれている事は真実なのでしょうか?こればかりは何とも判断しようがありませんが、即これに書かれた事を史実だと断定してしまうのは危険だと思います。まず、第一に吉政が高齢になってから書かれたので、記憶違いは必ずあるでしょう。そして第二に、これが子孫への教訓書として書かれた書物であるからです。僕自身は話を「盛る」という事はまずほとんどしませんが(面白い話が即座に思い浮かばない為)、彼の場合は子孫に伝えるために、考え抜いて面白く「盛った」部分もあるかもしれません。「証人となった武士がいるから聞けばいい」という風に書いている場面もありましたが、これだって実際に聞きに行ったら「父の言う事を疑ってたのか!」となる事を恐れて、子供達は聞きに行きづらかったりするかもしれませんし(それを見越しての記述かも)。で、本当に聞きに行ったとしても、吉政と仲が良い友人ならば「それは本当だ」と言ってしまうかもしれません。実際、著者が書かれているように、明らかな誤りもあるようなのです。ですが、彼はなんとなく誠実そうで、あまり嘘を書きそうもないような感じなので(思いっきり主観w)、真実も何パーセントか何十パーセントかわかりませんが含まれているようにも思えます。合戦描写なども、(他所からの伝聞とか、もしかしたら軍記物からインスパイアされたものも含まれるかもしれませんが)かなり詳しく記されているようで、当時を知るうえで貴重な史料となりえるものです。このように、どこが真実なのかわからない、なんとも「もどかしい」史料ではあると思いますが、他の当時の史料と突き合わせるとか、それが出来ないならば「戦功覚書である~~覚書では」と注意書きをして使用するしかないと思います。とはいえ、戦功覚書というジャンルは面白いので、他の人の覚書も読んでみたい(もちろん解説つきで)と思わせる素晴らしい内容でした。是非シリーズ化を期待したいですね。

今日の銅像2019

 

 
今日の天海僧正 Twitter=
https://twitter.com/hikisimousa/status/1099755257406533632
                 場所=川越市:喜多院
 
今日の太田道灌公 Twitter=
https://twitter.com/hikisimousa/status/1100847099220914177
                  場所=川越市:市役所前
 
今日の武田信虎公 Twitter=
https://twitter.com/hikisimousa/status/1142889129954304000
                   場所=甲府市:甲府駅北口
 
今日の武田信玄公 Twitter=
https://twitter.com/hikisimousa/status/1142888208360861701
                     場所=甲府市:甲府駅南口
 
今日の山県大弐公 Twitter=
https://twitter.com/hikisimousa/status/1142887572995096576
                     場所=甲府市:山県神社境内
 
今日の武田信玄公と上杉謙信公 Twitter=
https://twitter.com/hikisimousa/status/1173661457520545794
                     場所=長野市=川中島古戦場史跡公園
 
今日の真田幸村公 Twitter未掲載
                     場所=上田市:上田駅北口   
毎年ツイッターでやっていた、”昨年をデータ的なもので一年振り返える”を、今年からはブログでまとめる事にしました。
 
 
 関東の全市町村を観光する、と謳っているので集計(2019年)。昨年は新たに茨城県5、栃木県2、群馬県1、埼玉県6、千葉県6、東京都2、神奈川県5の市町村を観光した。
ちなみにおととしは茨城県12、栃木県6、群馬県5、埼玉県13、千葉県2、東京都8、神奈川県11だったので、全体的に激減している。これには訳がある(後述)。
 
2016年5月から始めた関東全市町村を巡る旅。通算で(政令指定都市は、区で分けて計算する)茨城33/44、栃木16/25、群馬14/35、埼玉45/72、千葉21/59、東京15/53(島部は除く)、神奈川19/58となる。関東合計で163/346となった。
達成率でみると、茨城75%、栃木64%、群馬40%、埼玉63%、千葉36%、東京28%、神奈川33%と、相変わらず南関東が弱い。全体での達成率は47%。去年でやっと折り返し地点に達すると思ったが・・・。
 
昨年は関東を観光した全30週で27カ所と、かなり低調。それ以外の週は、関東外が3週、博物館講演会が13週、何もなしが10週(内ブログ更新のみ週が8)あった。今年は本の執筆や打ち合わせがあったので、負担軽減のため、博物館や講演会、ブログ更新のみの週が増えてしまった。
 
昨年一年の観光走行距離:7075km、高速代が¥52470。関東外3回を除くと走行距離:5420km、高速代:¥30190(電車で行った週は、電車賃は面倒なんで計算しない)。
ちなみに、おととしの観光走行距離:9066km、高速代が¥67210。関東外1回を除くと走行距離:8190km、高速代:¥61440。
 
訪城数は計算しない。なぜなら今年は同じ城を何回も行っていたり、どこまでを訪城したのかという明確な基準もないなので、わけがわからないからだ。今年はできるだけ千葉の城へ行きたいな。
 
訪問合計数
    茨城 栃木 群馬 埼玉 千葉 東京 神奈川 合計
2016  07 02 07 13 04 00 02  035
2017  16 08 08 26 13 05 03  079   
2018  28 14 13 39 15 13 14  136
2019  33 16 14 45 21 15 19  163
各県総数  44 25 35 72 59 53 58  346
達成率(%)
2016  15 08 20 18 07 00 03  010  
2017  36 32 23 36 22 09 05  023
2018  64 56 37 54 25 25 24  039  
2019  75 64 40 63 36 28 33  047
 

 

 

 今年2019年は、甲府開府500周年だそうです。甲府駅前には武田信虎像が建てられ、これは、かつて「悪逆無道」といわれた時代からは考えられない事です。そもそも、この「悪逆無道」とは真実だったのか、を問うたのがこの「武田信虎」なのです。
 

 武田信虎とは武田信玄の父であり、子の信玄によって追放された人物、というのが一般的なイメージでしょうか。信虎の代までに甲斐一国を統一し、居館を甲府へ移転させた、というのはそれ程知られていないのかもしれません。「武田信虎」では、彼が成し遂げた偉業が、著者独自の研究と、甲斐国周辺で進んだ研究から得られた事実によって描き出されています。
 

 まず、信虎が家督を継いだ時点で、周囲は敵だらけだった事がわかります。相模、駿河、信濃(諏訪)方面に、それぞれ甲斐国内に敵国と結びつく国衆がいた事があげられます。信虎が家督相続した年に挙兵し、討伐された叔父の油川信恵も、相模の伊勢氏(後の北条氏)と結びついていた、というのはこれまでにない新しい視点でした。唯一、武蔵方面だけは上杉氏(山内上杉氏・扇谷上杉氏)と同盟を結んでいて、武田氏滅亡時に三方向(織田、徳川、北条)敵に回していたのに、一方向だけ唯一の味方が上杉氏(越後)だった状況と似ていますね。しかし、ほぼ四面楚歌状況だった武田氏滅亡時と比べて幸運だったのは、三方向から同時に攻め寄せてこなかったという事でしょうか。油川信恵の挙兵も、結局単発のものとなり、数的有利な信虎方の勝利になったとしています。これには理由があり、信虎と対立する甲斐国衆達を後援する敵国には、堀越公方府と室町幕府との対立によって形成された同盟関係が引き継がれていて、いわば敵の敵は味方状態(伊勢氏の敵は両上杉氏、諏訪氏の敵は小笠原氏、今川氏の敵は斯波氏)となっていたため、安易に甲斐には攻め込めなかったようです。しかし、幸運だっただけでは無く、敵国が同盟国と戦っている間に甲斐国衆を叩く(後援が出せない)等、戦略的にも優れていたと思います。
 

 信虎は、甲府への本拠地移転と城下町建設、他の大名と比べて先駆的な城下集住策等を実行し、また甲斐国衆の力を削ぎ落とし、武田氏の力を強めようとしたようです。しかし、そのせいで甲斐国内での戦乱は続き、穀物の相場が乱高下したことが、当時代史料『勝山記』によってわかったそうです。これは毎年のように、天災、飢饉が起きたからのようで、それに加えて戦争(街道の封鎖などが行われた)ですから、甲斐国内は大変だったようです(ちなみに黒田基樹氏の『百姓から見た戦国大名』では、戦争こそが飢饉の原因、と書いていたような)。結果的に、信虎追放時には、『勝山記』にも「悪逆無道」等と書かれており、領民からの支持を得られてなかったようですが、後の軍記物等が提示するような振る舞い(妊婦の腹を裂いて胎児の生育を観察した等)は、当時の史料には無いようですので、苛政からの印象が尾ひれを付けて広まった、といったところでしょうか。
 

 甲斐一国を統一し、武田氏飛躍の基盤を作ったのは、武田信虎である事は明らかだと思います。しかし、信虎を他国へ追放せざるを得なかった事によって、武田氏に悪い因果が残ってしまった印象が拭えません。領民の疲弊への不満を解消するには、「代替わり」しか手はなく、信虎が隠居を容易に納得しなかったとしたら・・・、父子で家督争いとなります。そうなれば国内はさらに混乱するので、他国へ無血で追放したわけですが、それが後々信玄自体に悪評がついて回る事になります。さらに、信玄自身も子に叛かれる事を常に警戒せねばなりませんでした(武田氏は代々父子で争っている)。また、本拠地移転や城下町建設など領民に負担を強いる政策や、城下集住等の家臣や甲斐国衆の力を削ぐ政策も、実はあまり受け入れられていなかったのかもしれません。信玄も領民や家臣の顔色を伺わねばならず、先駆的な政策が打ちにくくなったのかもしれません。また、甲斐一国を統一はしていますが、国衆である穴山、小山田は残したままで、例えば北条氏のように相模一国をまるまる本国とする事は叶いませんでした。力を削ごうとすれば再び国内での戦乱は避けられず、後援となる今川、北条氏と結ぶ事で手を打ち、以後は国内で戦争をする事はありませんでした(穀物の相場も安定する)。結構、信玄にも不運な点があったのかもしれません。真の武田氏の飛躍には、スムーズな家督継承が不可欠だったと思います。