2020年の闘病記をもとに綴っています
8月に入り旦那さんは3ヶ月の
介護休暇を取得した。
目的は私の夏季療養と秋に向けての
仕事復帰のため(←こっちがメイン)
旦那さんが休暇に入ってすぐの8月初め、
私が傷病休暇をとっている職場病院へ電話を
かけ、看護部長に旦那さんが休暇を取った
ことを伝えた。
それを聞くなりすぐ看護部長は
「旦那さんせっかく休暇取ってくれたけど
コロナがまた流行り出しちゃったでしょ?
ちょっと今みかんさんを復帰させる事は
厳しいかな。あなたが感染してしまっては
ダメだし、病院側も色々と慎重になっている
から今回はちょっと…それにまだワクチンや
治療薬もできてないでしょ?あと2年は
こんな状況が続くと思う。」
「病院の面会も禁止になっているでしょ?
そういうのがあるうちはあなたを復帰させ
られないから、規制が緩くなったらまた連絡
して欲しい。」
いきなり一方的にそう言われ、復帰への
話が進むと思っていた私はショックで
すぐに返す言葉も出なく
「えっ?でも…」としか言えなかった。
ちょうどこの頃、コロナの第2波がやって
きた時だったから、病院側の言ってることも
分かるけど…
私が復帰するために旦那さんが休みを
取ったのに、それはないんじゃない??
何でそうなる?そう言われたらこっちは
何にも言えないじゃん!!
そう思ったら何だか悲しくなって
泣きそうになった。
でもぐっと我慢して看護部長に
私「旦那さんの介護休暇が3ヶ月あるので
その間にコロナが少しでも落ちついたら
復帰の話進められますか?」
と聞いたら、
「こんな先の見えない状況だから厳しいと
思う。旦那さんに悪いことをしちゃった
から申し訳なかったと伝えておいてくれる?
また頃合いみて連絡下さい」
と言われ、
「分かりました」
としか言うことが出来なかった

電話を切ったあと悲しくて悔しくて
泣いてしまった。
せっかく3ヶ月の介護休暇を取ってもらった
のに旦那さんに伝えないといけない…
介護休暇を取ったらその間、お給料の6割
ちょっとしかもらえないし、介護対象となる
家族1人に対して3ヶ月分しかもらえない。
しかもボーナスも減額になる。
移植費用も貯めないといけない状況なのに
そうまでして復帰への準備として話し合い
取ってもらったのに…
なんでこうなってしまった?
そんなことを思ったら悲しくて悲しくて

しかも私の復帰に対して前向きに考えて
くれていたのに、そういう予定で話もして
いたのにいきなりそれ??言い方も一方的な
感じにしか受けとれなかったし、看護部長に
対して反論できなかったことが悔しかった…
1人でこっそり泣いて落ち着いてから
旦那さんに電話の内容を伝える。
旦那さんは最初は
「なんだ?それ、せっかく介護休暇取っても
意味ないじゃん。2週間前までは取ったら
連絡って形になっていたのにおかしくない?
だったら取る前に言って欲しかった。」
と。
でもすぐに
「まぁ第2派がきちゃってるから仕方は
ないかもね。みかんが感染したら意味がない
し、少しして落ち着いたらまた話を
進められるかもよ

せっかく3ヶ月も介護休暇取ったから
やれる手続きとかしてのんびり過ごせ
ばいいんじゃない?」
と前向き発言

確かにもう介護休暇は取ってしまったのだ
から今さら何か言っても仕方はないけど…
その辺りは旦那さんはいつも前向き。
いい意味で楽観的

悩むぐらいならできることをやろう!
って感じの性格。
私も基本楽観的だけど、一度ショックな
出来事が起きたら短期間は落ち込む。
そして旦那さんの前でだけウジウジ悩んだ
姿を見せる。しばらくして気持ちが上向き
になったら、そこからはLet's前向き精神

「じゃあ他の方法考えよ~」とか、
「なるようにしかならないか!」って
切り替えてそこからは前向きになる

復帰の話進めたかったけど、今は
タイミングじゃないってことだもんね。
焦っても仕方ないから、ゆっくり療養
しながら今できることをしよう!
って旦那さんが言ってくれたからそう思える
ようになったこの時。
8月は障害者手帳が発行されたので市役所
へ取りに行ったり、受けられる障害者割引
の各種手続きを行った。
時にはランチをしてみたり、入院中に
たまってしまった書類の整理をしてみたり、
朝晩の涼しい時間に庭のお手入れをしたり
と、とても充実していた。
7月に鳴りまくったアラームも鳴らなくなり
〝落ち着いたかな!〞と思っていたら…
8/7
朝、低流量アラームが2回鳴ってしまった

この頃、流量(フロー)は低めで拍動指数は
高めが続いていた。前回の教訓を生かし、
朝起きてから早めに水分を多く摂って
様子を見ていた。
8/11
VAD外来受診した時、このところずっと
低流量や拍動指数が高めなのを相談した。
水分も最低3㍑は飲むようにしているのに
数値が安定しない。
飲んでいるのに低流量になってしまうため
ポンプ内の流量(フロー)を安定させるように
設定を変更してくれた。
ヘモグロビン設定をいじって流量の底上げを
してくれたおかげで2後半だった流量が
3前半になった
(2.5以下でアラームが鳴る設定)

退院してから少しずつ減量していた
プレドニンもこの日2㎎になった。
流量に関する設定をいじってもらった
おかげでアラームの心配もなくなり、
その後もゆったりとした療養生活を送る
ことができていた。
9月には障害厚生年金の手続きのために
年金事務所へ行ったり、コロナ第2派が
落ち着いてきてから少しだけ遠出をして
日帰り旅行をした。
家族で出掛けられる喜びを感じながら
穏やかでゆったりとした日々を過ごす。
でも…前向き精神で過ごしてはいたけれど、
心の奥底にずっと仕事復帰への思いがあって
気づいたらそのことを考えてしまっていて
悶々とした日々を過ごしていたのも事実

10月に入ってからVAD装着後6ヶ月の
検査入院をした。
血液検査、胸部X-P、心電図、肺機能検査、
心エコー、CPX(運動負荷試験)、心カテ、
リハビリなどなど…
転院してからこの病院で心カテを行うのは
初めてでちょっと心配したけど、
大きな変わりはなかったので安心

違ったのは橈骨動脈でAラインをとるぐらい
かな~

VADの回転数は変わらず5000回転。
左心の動きはVADでサポートしてもらって
いるため良好。右心の動きが悪めなのは
続いていた為、利尿剤は続けていく事に
なった。
その他の検査結果もふまえ、減量しながら
8ヶ月続けてきたプレドニンが全面中止に
なった

この頃は体調も整ってきていたし、体力や
筋力もついてきていたので、いつでも仕事
復帰できるのにな…と思って過ごしていた。
第2派が落ち着いてきたとはいえ、
コロナ渦での状況はそんなに大きな変化も
なく、復帰できないまま3ヶ月の介護休暇が
終了してしまった。
11月からはまた平日の日中は兄、その他は
旦那さんと週1でYちゃんというVAD体制で
再スタートをした。
でも…週4日は兄の仕事に同行。
事務仕事の日もあれば現場巡りや現場仕事
なんかも当然ある。夏も冬も関係ない。
職場まで車で1時間なので朝は6時半過ぎに
迎えにきてくれて、家に帰ってくるのは
19時過ぎ。
忙しい日は20時~21時にもなる。
現場の日は私は車の中で待機。
時には12時間ほど車の中にいることも。
なので冬は毛布を持ち込ませてもらったり
夏はエアコンをかけっぱなしにしたり、
待機できる場所を見つけて(施主さんに依頼して
くれることも…)くれたり…
兄は本当に優しいので、そんな状況でも
『大丈夫だよ』と言ってこの生活を続けて
くれている。
兄の職場の工務店も私を受け入れてくれて
職場のSNSやニュースレターの仕事なんかの
お手伝いをさせてもらっている。
みんなにたくさん迷惑をかけている。
〝そんな風に思わなくても大丈夫だよ〞って
兄は言ってくれているけど、、
そう思わずにはいられない。
私はこんな身体になっても仕事がしたい!
こんな身体じゃなかったら…っていうそんな
気持ちと、自分が本当に看護の仕事が好き
で主治医からの許可も出て復帰ができる状況
なのにコロナのせいで復帰ができないことに
ずっと悶々として過ごしていた2020年。
タイミングが悪いといえばそれまでだけど
何よりも兄の負担を減らすためにも早く
復帰がしたい!
そうすればみんなが適度な距離的感で
介助者、サポートという体制でまわすこと
ができるのに…
それは今でもずっとそんなことを思っている
このブログを始めた2020年11月終わりの
時点ではコロナのせいだから仕方ない。
ワクチンが始まり、世の中がコロナと
共存していくようになれば復帰の話が
進むと思っていた。
現在、私は傷病休暇中でその期限が
8月15日までになっています。
先週、職場病院で復帰についての話をしに
旦那さんと共に行ってきました。
色々と打ちのめされて帰ってきた感じですが
その辺りはまた最終的に話がまとまって決着
がついたら綴りたいと思います。
2020年の闘病記としてはこの記事が最後に
なります。
去年の激動の闘病生活もVADを装着して安定
したとはいえ、介助者が必要な障害者として
の悩みが尽きません。
ちょっと今は負の感情が渦巻いてます

落ちるだけ落ちたら這い上がるのみなので
そのうち崖を登り始めると思います!
これからは現在進行形のブログになるとは
思いますが、いちVAD装着者としての悩みや
日々の何気ない気付き、家族との関わりや
私という人間のことを綴っていけたらな…
と思っています

人生はジェットコースターの様ですね
良いことも悪いことも受け止めて
これからも私なりに頑張るぞ


