※昔の振り返りを綴っています。
母の病気発覚から亡くなるまでの事を載せて
います。『死』を含む内容になるので苦手な
方はご遠慮下さい。長文になります。



3月6日はお母さんの命日

亡くなって今日で丸18年

私が20代前半の時



お母さんの病気がわかったのは
亡くなる1年ほど前の2月。

結婚してから8ヶ月後に2人だけで
海外へ6泊8日の新婚旅行に行った。

旦那さんはマスオさんで同居していたから
帰ったらお母さんに色々報告しようね~!
なんて話をしながら幸せいっぱいで帰宅。

でも、帰った時に異様な雰囲気を感じた。


「お母さんただいまー!」








あれ?

「おかあさ~ん!!」


探してもいない・・
そんなはずはないのに・・
でも家の中の空気は明らかにいつもと
違っていた。
すぐに兄に電話をかけたら

兄「お母さん旅行に行ってる間に入院した。
今日は疲れてるだろうから休んで、また明日
詳しく話すから」と。

不安な夜を過ごし、翌日兄と会った。


兄から告げられたのは・・

兄「お母さん肺癌だって」

私「え?うそ??」

兄「何もしなかったら余命1ヶ月だって」

私「だって旅行に行くまで普通だったよ?
去年の秋から咳は続いてたけど・・
聞いても風邪が治らないだけだって・・」

兄「ずっと我慢してたって。自分でも
怪しんでて検査してもらったりしてたって。
みかん達が新婚旅行に行くのに心配かけたく
ないから我慢してたらしいよ。
でもどうにも歩けないぐらい苦しくなって
這って電話かけてきた。
おんぶしてすぐに病院に連れて行って
検査してもらった。
病名は知ってるけど余命の事は知らないよ。
今○○病院に入院しているから、
とにかく行って顔を見せてあげて!」

私と旦那さんはすぐに入院している病院へ
向かった。

病室に入ると・・
お母さんはベッドに横になっていた。
けど、私達に気づいてすぐに起き上がり

母「ごめんね、こんな事になって」
と泣いて謝った。

明らかに旅行に行く前より弱々しい姿で
乱れた髪の毛・・酸素をしていて
動くだけでも息苦しそうなのに・・
そんな姿を見て言葉にならなかった。

すごくショックだったけれど、お母さんが
一番辛く悲しいはずだから、私は泣くのを
堪えて
「お兄ちゃんから聞いたよ!旅行に行く前に
気づいてあげられなくてごめんね。」

それ以上は何も言えなかった。

でもお母さんは強くて
「お母さん頑張るから!やれる治療は全部
やって絶対治すから!」と言った。

私「うん、頑張っていこう!」


病院からの帰り、買い物をするため店の
駐車場に停まった。
そこで我慢していたものが一気に溢れ出した

私「お母さんが死んじゃう!!
癌だなんてどうしよう、、
余命1ヶ月だって、、なんで?もっと早く
気づいてあげられなかったの??
看護の仕事してて気づかなかったなんて!!
なんでお母さんが癌にならないといけない?
お母さん今まで1人で頑張って育ててくれた
のに!
これから幸せになってもらいたかった!
私と旅行に行くの楽しみにしたのに!
なんでこのタイミングなの??
私ご飯なんて作れないよ!
お母さんがいないと駄目なの!!」


とめどなく溢れ出てくる涙と言葉達・・
今まで生きてきた中で一番泣いた日


旦那さんは
「そうだよね、辛いよね…」と言ってずっと
頭を撫でたり抱きしめてくれていた。

一番ショックだったのは
気づいてあげられなかった事。

なんのために資格を取ったの?
いくら経験が少なくても気づけたはずだよ?
本当に私はバカだ!
旅行で浮かれてて、お母さんが我慢していた
事にも気づけなかったなんて・・


何度も自分を責めた



肺癌の闘病生活が始まった。
治療方針として
・転移はないができたのが肺門部なので
手術で取り除く事はできない
・かなり体力が弱っているので抗癌剤治療は
厳しい
・あとは放射線治療しか残っていない
・何もしなければおそらく余命1ヶ月

もうとにかく選択肢が放射線しかなかった
ので、それをお願いする事になった。

セカンドオピニオンも考えて色々相談した
けれど、進行性の末期状態だったので放射線
ができるだけでも・・という状態だった。

お母さんは癌を治す!と強い気持ちを持って
いたから余命の事は亡くなるまで一切話は
しなかった。


抗癌剤治療が効いて癌が小さくなり、
痩せてしまってはいたけど元気も出て自宅へ
帰る事ができた時もあった。

今までお母さんに甘えて料理を全くして
こなかったから、
母「私が元気なうちに教えてあげられる事を
教えなきゃ」と言った。
まるで長くは生きられないと
悟っているようにも聞こえた。

元気な時、近場に旅行へ行く事ができた。



肺炎を起こし癌が再び大きくなったため、
再度入院して放射線治療を行った。

でも前回ほど小さくならず、
進行が抑えられていた程度だった。
さらに痩せてしまい体力も全く
なくなってしまった。
それでも家に帰りたい!と食事を頑張って
摂り、自宅へ帰る事ができた。

食事は入ったり入らなかったりだった。
毎日ティッシュ1箱を消費する程の痰も
出ていた。止まらない咳も続く。

ずっと側にいてあげたいのに仕事は
休めなかったので夜勤もこなしていた。
旦那さんと兄に協力してもらいながらの
自宅療養。

病院の許可をもらい自宅で点滴をすることも
あった。お母さんの腕に針を刺す。
私にしてもらうことができて良かったと
言ってくれたお母さん。

日に日に弱っていく姿を目の当たりにして
辛かったけど、お母さんは1度も弱音を
吐かなかった。

自宅療養も厳しくなってきた頃、
家族3人だけで1泊2日の旅行へ行った。
歩く事もできなかったから車椅子を借りて
美味しいもの食べてお母さんの大好きな花や
植物を見られる場所へ行ったりした。

これが最後の家族旅行となった。


旅行から間もなくして
「病院に行く」と言ったお母さん。

体力の限界がきて自分から入院すると…
よっぽど辛かったんだろうな。

まだ若い私達には仕事をセーブしてまで
側にいてあげられるゆとりもなくて、
治療初期に保険適応外の投薬治療を
行ったり、経済的にかなり厳しかった。

母子家庭で生命保険にも入っていなかった
のでとにかく毎日必死で生きていたあの頃


次に入院したらもう厳しいと思って下さい
と言われていたし、できる治療も残って
いなかった。

治療ができないなら総合病院じゃなくて
かかりつけで信頼のおける先生の所へ
行きたいと言ったので、お母さんの事を
昔から診てくれていた病院へ入院した。

病気が発覚してから入院している時は
毎日お見舞いに行った。
仕事帰りや夜勤前でも欠かさず行って
他愛もない会話をしたり、一緒にテレビを
観て笑ったり、一緒にお菓子を食べたり、、

一度、
お母さんのベッドに横になった事がある。
2人で並んで寝て、ちょっぴり照れ笑い
しながら昔の話をした。
子供時代に戻ったみたいで幸せだった。



少しずつお母さんの身体を蝕んでいった癌



亡くなる1ヶ月前から足背の浮腫が増え、
パンパンになった足を見てお母さんは
「こんなになっちゃった。ひどいもんだね」
なんて笑って言ってた。


最後の1週間は徐々に呼吸苦が酷くなって
きて、酸素量も上がっていった。


亡くなる当日、休みだった私は午前中
に面会した。
いつものように甘いお菓子をお母さんと
食べていたけれど、かなり呼吸が辛そう、、
肩で呼吸をしている。

母「昨日は息をするのが苦しくて横になって
寝れなかった。」

明らかに呼吸状態が悪くなっていたので、
お母さんに残された時間が少なくなって
いるのが分かった。

それでもまだ話す事は出来ていたから
仕事の休みをもらう必要はないと思っていた。

いつものように
私「明日は夜勤前に来るからね~!
何か食べたいものはある?」

母「無理しなくていいからね~また明日!」

苦しいはずなのに微笑みながら手を
振ってくれた姿をはっきり覚えている。

これが最後の姿になるなんて・・




その日の夜10時半頃、突然電話が鳴った。

もう嫌な予感しかなかった。

電話に出ると兄からだった。
「お母さんが急変したって!いま病院に
向かってるからみかんも早く来て!!」と。

すぐ旦那さんと病院へ向かった。

お母さんの病室がある階に行ったけど
病室にはいなかった。
「看護師さんが下の階に行きましたよ」

と教えてくれたのですぐに向かう。




病室に入ると兄が立ち尽くして泣いていた。

ベッドに横たわるお母さんは真っ白な顔を
して息をしていなかった。

間に合わなかった・・

嘘でしょ?

だって昼間話せたし・・
また明日って言ったじゃん!
もう1度だけでも起きてよ!
声を聞かせてよ!!

心の中では激しくそんな事を思っていたのに
実際は泣くのを我慢してしまった。
泣いたら認めてしまう気がして
泣くことができなかった。




お母さんの闘病中で泣いたのは
最初のあの1度きりだった。


自分の感情を抑えてしまっていた。
そのせいなのか、しっかり受け止める事が
できないまま日常に戻ってしまった・・


亡くなってから1年ぐらいは精神的に
まいっていて、不安で不安で仕方ない日々を
送っていた時期があった。



夜勤をしていて突然、
旦那さんに何か起きているかもしれない!
と夜中に電話をして安否確認をしたり。

ほんの少しの症状でも全て癌に結びつけて
納得するまで検査をしてもらったり。

なんの異常もないのに症状を訴えていたから
しばらく漢方薬を飲んでいた時期もあった。



あれから18年経ったのに大事な場面は
今でも鮮明に覚えている。
忘れられるはずもない。

少しずつ少しずつ自分の中で
受け止める事ができていた。

余命1ヶ月だったのに
1年1ヶ月頑張ったお母さん。
本当にがんばり屋で弱音を吐くこともなく
最後まで私達に
生きていく強さを教えてくれた。



時の輝きキラキラを見た




去年、私が劇症型心筋炎でICUにいた時に
兄が言ってくれた
「みかんが助かったのもきっとお母さんが
助けてくれただな!まだこっちにくるのは
早いって言ってるだよ!」
という言葉。



私もそう信じている。






午前中、子供達を連れてお墓参りへ
行ってきた。

お母さんが好きだった
カーネーションが入った仏花をお供えした


きれいにお掃除して
たくさんお礼をしてきたよむらさき音符


お母さんの生き様を見習って
生きているからね!


生前、
会わせてあげる事ができなかった子供達。


写真でしか見たことがない〝ばあば〞だけど
普段の会話の中で当たり前のように登場
してもらってる。
思い出を語りながら認識させているからか
いつも買い物にもついてこない子供達は
お墓参りには何も言わずついてきてくれて
一生懸命お掃除をしてくれる。


優しい子達に育っているよ!


これからも見守っていてくださいクローバー


大好きだよハートお母さん照れ