正月は仙台の妻の実家で過ごしていた。
子供も1歳半になった。まだ子供に吃音症状があるかどうかは窺いしれない。トモキにとってそれが一番の心配事だった。
子供に本を読んできかせることはなるべく避け、その代わり歌はたくさん歌ってあげている。歌だとどもらないからだ。
(子供にだけはオレの歩んだ道を通らせてはならない)
トモキは改めて強く心に念じた。それと同時に、ふと母のことが気になった。
母は2年ほど前、精神病院を退院していた。とはいっても精神が正常に戻ったからではなく、単純に入院費を払えなくなったからだった。
数年前、入院費が年金受給額を上回るほど値上がってしまい、やむなく母を退院させたということだった。
退院した母は、父に面倒をみてもらっている。13年もの年月を経て娑婆に戻ってきた母は、思いのほか安定している。父の住むアパートに引きこもり、1日の大半を布団の中で過ごしているのだ。
腹が減ればむくりと起きだす。電子ジャーに溜まっている冷や飯を茶碗によそい、納豆を混ぜて黙々と食べる。
そこにはまったく華がない。ただひたすら、昆虫や魚のように、『純粋に腹がすいたから食べられるものを見つけて食べる』という、およそ人間らしい食事とは大きくかけ離れたものだった。
ほどなくお腹も膨れると、タバコを吸って、また寝床に戻る。食事は基本的に1日1食。お風呂は3日に1回。これの繰り返し。母はこの生活にすっかり満足しているという。
『嫌われ松子の一生』という小説を以前読んだことのあるトモキは、母の姿が、小説にでてくる晩年の松子と重なっているように思えた。
見た目はとても健常者に見えないのは言うまでもないことだった。右目の上に移植した皮膚はだいぶ馴染んではいたが、眉毛がない。そして、その皮膚が常に張っているせいで、右目がうまく閉じられなくなっている。
左手は今も肘を伸ばすことができず、常にフラフラと小刻みに震えている。髪は白髪混じりでボサボサ。10年以上も経っていると思われるジャージを履いている。体はごぼうのようにやせ細り、目は始終うつろな状態。
まだ、テレビからは時折指令のような声が聞こえてくると言っているが、そのときはすぐに常備している薬を飲むことで、なんとか精神をコントロールできているという。
本人が精神の病に侵されていることを自覚できるようになっただけ、父としては生活がしやすくなっているのだという。
トモキは母に今1度会おうと思った。この時点でトモキの心の中に『ある決意』が固まっていた。
「ちっちちちょっと母に会いに行ってくる」
夜、子供を寝かした後、トモキは妻にそう一言残し、父のアパートに向かった。
車を20分ほど走らせると、町の片隅にひっそりとたたずむボロアパートに着いた。
築40年以上は経っているだろうか。木造2階建てで父と母は1階の一番端の部屋だった。
間取りは2K。玄関入ってすぐ4畳くらいの台所で、そのまま6畳の和室が2つという「うなぎの寝床」になっていた。
父はいつも玄関のドアを施錠していないので、父が留守のときでも自由に出入りができた。
「盗みに来られたって貴重なものなんて何もねえからよ。返って泥棒の方が『可愛そうに』って金でも置いていってくれるんじゃねえかな」
かつて父はそう笑い飛ばしていた。
トモキはノックもせずにそのままドアを開けた。ベニヤ板をかませただけの薄いドアはとても軽かった。父は今晩は仕事だった。それを見計らって今日を選んだ。
「……か、か母ちゃん」
トモキはズカズカと部屋に入っていくと、案の定、母は布団で寝ていた。とはいっても眠っているわけではなかった。
「おお、トモキ」
母はあお向けに寝た状態のまま、首だけをこちらに向けてきた。豆電球しか点いていない薄暗い中、ぼんやり見える母の顔は不気味だった。初めて見る人だったら、きっとドキッとするだろうと心の中で思った。
母の従妹は宝塚の元トップスターだということだが、親戚同士でここまで人生が異なるものなのかと、厳しい現実を知った思いがした。
とりあえずトモキは部屋の電気をつけ、気軽な口調で話しかけてみた。
「っげげげ元気そうだね」
「ああ。こんな時間にどうしたの?」
声はすっかり枯れたように力がないが、トモキが来たのが嬉しそうだ。
母はここ数年前から左腕だけでなく口も不自然にパクパク動いているようになっていた。寝床には何種類もの錠剤が大量に置かれている。毎日これだけの薬を服用しているのだから、なにかしら副作用がでてもおかしくはないのだろう。
「いやあ、いろいろと、……はあーはっは……はあ話をしようと思ってさ」
今のは決して笑ったわけではなかった。は行でどもっているときが一番顔が醜くゆがんでいる気がする。母だからまあいいやと気を取り直した。
「なんだあ、トモキ、まだどもるのか?」
徐々に切り出すつもりが、皮肉にもいきなり話の本題に突入してしまった。回りくどくいくよりもむしろよいのだと思い直した。
「ああ、どもるよ。……っかかか母ちゃんは、オレが小さいときのことって覚えてる?」
「うん覚えているよ。お兄ちゃんもトモキも手がかからない子だったねえ。子供たちにはオラみたいな性格になってほしくなかったから、一線を引いてたんだ。オラみたいな、人とうまく付き合えないような人間になってほしくなかったから」
一線を引いていた……。それは正直、初めて知ったことだったが、言われてみればたしかにそうかもしれないと思った。トモキは母と過ごした時間は誰よりも長かったが、2人で遊びに行った記憶はなかった。もっともそういう思い出を作れる歳頃になる前に母がおかしくなってしまったということもあるが。
「ああなるほどね。そう思ってくれてたのはいい判断だったと思うよ。……とっととところで、オレを虐待していたのは覚えてる?」
軽いノリでストレートに聞いた。母のうつろな目は若干見開かれた。
「ええ? 虐待? そんなことオラしたの?」
「ああ……やっぱりそういう記憶はないんだね。ほらあの、オレが、ほ、ほおおー保育園児の頃、11月の寒い夜に、ほ、ほ、ほ保育園から家まで走らせたこととか覚えてない?」
「えええ? トモキをあの保育園から家まで走って帰らせたの? オラが? 嘘でしょ? ……何でそんなことになったの?」
「おおおおオレが昼間に園庭で遊んでて靴を濡らしちゃって。っかか母ちゃん夕方に迎えにくるなりカカカカンカンに怒ってさ。かかか買ったばかりの靴をなに濡らしてんだって。ひーひっひっひとりで帰れ!って怒鳴ったの覚えてない?」
「オラがそんなことしたの?本当に?」
母は本気で驚いている。
「ほおー本当だよ。オレが5歳のときだよ。この間、試しに車の走行距離のメーター使って距離を測ってみたらさ、6キロ以上あったよ」
「ええええー? あの距離を……年端もいかない幼児が走らされたの? ええええー、それはひどいことしたなあ」
「うん。途中から『心臓が破裂するぞ』って罵倒して、どどど恫喝しながらね」
「そんなことまでオラ言ったの? それで、その後どうなったの?」
「何度もへっへっへへへたり込んではまた走らされてを繰り返しながら、なんとか家にたどり着いたんだよ。でもその後、いいいい家に入れないって言い出してさ。
グロッキーなオレを残して、っかかっかかかあちゃんだけ家に入っちゃったんだよ。
それで、体はもう動かないし、怖いし、凍えて、意識が遠のきそうになったあたりで、玄関のドアが開いたんだ。入れてくれたのは、暢気につつつ爪楊枝をくわえた親父だったよ」
「あらあ、オラまだ怒ってたのかあ」
「あとほら、俺が小学3年生のときは、……と……とっとと友達に300円おごってあげたのに激怒して往復ビンタ食らわしたこととか。こうやってさ。両手でバチンバチンバチンバチンっておもいっきり4連発。
っすすそしたらさ、鼻血がドバッと噴き出して、きっききき着ていたTシャツが真っ赤になったの。それでも一切気にもしてくれずに。……こ……ここ、今度はその友達に金を返してもらってこいって怒鳴って。
怖いから言われるとおりに友達の家に行ったよ。そしたら留守でさ。かかか返してもらわなかったらただじゃ済まないと思ったから、家に侵入して物色したんだ。泥棒行為だよ。
でもしょしょしょしょせんガキが探しそうなところなんかにお金は置いてないんだね。
1円たりとも見つけられなかったんだ。すーそれで仕方がないから恐る恐るかかか帰ったよ。
すぅーそそそそしたらさ、かあちゃん今度はもう1人の友達の家に押しかけるって言い出して。はああはああ鼻血まみれのまま、ほっぺを腫らしたオレを連れて……。みんなオレを見てびっくりしていたよ。あ、あ、あ、あの事件はとっても気が滅入ったよ」
「はあああー、本当に? それはとても大変なことをしたんだなあ。全然覚えてないわあ。……はあああ、ひどいなあ、オラ本当にそんなことしたんだ」
「うん、したよ。ぎ……ぎぎぎ虐待はもっともっと覚えてるよ」
「はああ、オラすっかり……。子供たちはオラとは関わらない方がいいと思ってたから、一線を引いていたと思ってたあ。トモキは手がかからなくて、いい子に育ったんだと思ってたわあ」
「いいいいい子に育ったのは間違いないとは思うけどね。……っかか母ちゃんの影響は悪い意味でとても大きかったことは、たたた確かだと思うよ」
「そうだなあ。トモキには怖い思いをさせてたんだなあ。オラきっと必死だったんだなあ。毎日毎日生きていくのが精一杯で。稼がねげねえって……。子供たちを育てねげねえって……。はああ……、しかし、幼児のトモキをあの保育園から家まで走らせたりしたのかあ。たまげたなああ。なんでそんなことしたんだか……。可愛そうに……」
母も生きるのに必死だった……。わかる気がした。必死で稼いで、自分たちを養おうとしていた母の気迫はなんとなく感じてはいた。
トモキは、なにか胸に熱く込み上げてくるものを感じたが、グッと堪えた。まだこれからきちんと言わなければならないことがあるから。
「さっき母ちゃんも言ってたけど、おおおオレ、未だにどもるだろ」
「ああ、どもるなあ。……治んないのか?」
「治せないんだ。いいいいくら頑張っても。頑張れば頑張るほど治らないんだ。……こ、こ、ここれまでオレはどもるせいで、すごい辛い人生を歩んできたんだよ。
家族からも、みんなからもバカにされて、笑われて、おおおお怒られて……。
親父も、母ちゃんも兄貴もみんな怒ってただろ。『ほら、どもるな!』『なんでどもるんだ!』って。『小学校に入ったらみんなにバカにされるぞ』とかっていうプレッシャーもっかかかけ続けていたよね」
「んだっけがやあ? オラも……みんなで怒ったの?」
「すっすすすすそうだよ。しーしかも、どもっているときの醜い顔マネまでされてね。そのおかげでオレは、しーーしゃっしゃしゃしゃべることがますます恐怖になって、どどどどんどん悪化していったんだ。
『落ち着いてしゃべれ!』とか言うけど、お、おお落ち着いて治るなら……とっととととっくに治ってる。
誰にも理解されずに、誰にも相談できずに、ひとりでこここここの悩みを抱えて、これまで生きてきたんだ。そしてこの苦しみは現在進行形で、こここここれからも死ぬまで続いていくんだろうね」
「あああ……かわいそうだなあ。なんとかならないものだがなあ」
「……とっとととと特に、学校生活では国語や英語の音読がつらかったよ。ききき恐怖で毎日生きた心地がしなかった。そして、やっと学校ともおさらばになったら、ここ今度は就職でしょ。
かかか会社に入ってからがさらなる地獄だよ。電話応対とかプレゼンとかさ。っかかかしこまった状態で人前でしゃべることが多いから。しかもこのどもりのせいで干されたよ。し、ししゅしゅ出世の芽も閉ざされたよ」
「あらあ、かわいそうだなあ。……そんな大変な生活をしていたなんて、これっぽっちも思ってなかったあ。オラてっきり、普通に働いて、結婚もして楽しく暮らしているとばかり思ってたあ。……なんとかなんねえものだべか……」
「なんとかしようと、ひっひひひ必死だったよ。……すーすっすっす……すす……そ、そもそも、なんでどもるようになったかわかる?」
感情を抑えようとしているつもりだが、次第にしゃべりに熱がこもっている自分を抑えられない。
「わかんねえ。……なんでや?」
「俺が大学卒業して、しーしぃー社会人になってすぐに、『これじゃあ本当にまずい。治さないと社会で生きていけない』って切羽詰ってさ。藁をもすがる思いで、っき……きき……きき吃音診療所を見つけたんだ」
「えええ? そうなの? 診療所ってカウンセリングってことでしょ? 結構お金かかったんじゃないの?」
「ああ、っかかかかかかったよ。始め3ヶ月コースで契約して治らなかったから、延長、再延長を繰り返してさ。っかっかかかれこれ1年半も続けちゃったよ。でもけけ結局治せなかった。
でも、そこで先生からいろいろ教えてもらったよ。家族から自分の吃音を受け入れてもらえなかったこと。幼児期から母親から慢性的に恐怖を与えられ続けたのが、きききき吃音の一番の原因だろうって」
「あらあ……、ひどいことしたなあ。トモキの人生を狂わせてしまって……。オラそんなことしたのかあ」
「っここれまで何度も自殺しようと思ったよ。いや、今でも死にたいって思うときがあるよ。本当に不便で惨めでつつ辛いよ。まともにしゃべれないのって。
それだけで人にはバカにされ、大笑いされ、雑魚キャラ扱いされ、びっくりされ……。イライラさせちゃったり不快にさせてしまうときもあって、すっすっすすそのときは罪悪感でいっぱいだよ。
おーおおオレって生きてる価値のない人間だって。あとオレ自身だって、意思が思うように伝えられないのは相当なストレスになってるよ。いつ頭禿げてもおかしくない状態だよ」
「あらあ……自殺なんてしないで。結婚して、子供だってできたんだし……」
「昔、何度も一緒に死のう死のうって喚いていた人から、まさか『じじじ自殺するな』って言われるとはね」
「ええ? オラそんなことまで言ってたの? トモキに?」
「ああ、言ってたよ。うっううう海に飛び込むって言ってさ、っっったったったたまねぎネットの中に庭の石をぎっしり詰めて。ご丁寧にオレの分までしっかり2個準備してくれたよね」
「えー? 本当に? オラそんな力あったんだべか……」
「あったんだろうね。そのときは親父がいなかったから、なんとかオレが宥めてここここ事なきを得たけどね。……でも大丈夫だよ。自殺することはないよ。自殺はよくないらしいからね。
人間ってさ、世の中の役に立つために、っかかかか神様から生かされている存在なんだって。だから、生きている間は人様の役に立てるように努力しなければならない。
つつつっつつ辛い人生もなにか意味があってのことらしいから、与えられた人生は真っ当に生き抜かなきゃいけないんだって。偉い人が言っていたよ。
だから、今、かか母ちゃんがこうしてこの世で何をするでもなく、のほほんと息をしているだけの存在なのも、ききききっと人間にはわからない深い意味があるのかもしれないね。
もっとも今の時代、20代30代の若い人たちが見たら、なんて贅沢な生活だと思うよ。外部からの刺激もなく、おおお親父が生きている限りは衣食住が保障されているんだからね」
「んだなあ。たしかに今は安心だなあ」
「まあそれはいいとして。オレはあの診療所に行ってみて、はあーはああはあ初めてこの障害を抱えているのが自分だけじゃないってことがわかったんだ。
こここれまでは地球上でオレだけがどもりの障害を抱えているって思ってたんだけど、それが違うってことが社会人になってからわかったんだ」
「ああ、いるよ。どもる人は結構いるんだよ。オラも昔、結構見てきたもの」
「なんだ知ってたのか。そういうのをもっと教えてほしかったよ。…………っすーーすーーそこでね。オレは考えたんだ。この自分の半生を綴った小説を書いてみようって」
本題に触れた瞬間だった。
「……小説を書くの?」
「吃音でっくくくく苦しんでいる人がオレの他にも世間にはたくさんいるみたいだからさ。中には治る人もいれば、オレみたいに治らない人もたくさんいる。
もちろん己の吃音に対して苦痛を感じないで生活できている人たちもいるのだろうけど、大半はオレみたいに一人で悩みを抱えて苦しんでいる人も多いらしいんだ。
っくく苦しんでいる根本的な原因は、きっきき吃音が世間で正しく理解されていないからだと思う。
っっここっここれがオレが今まで生きてきた中で悟ったことなんだ。
だから、おおオレが自分の半生をリアルに綴った興味満点の小説を書いて、多くの人の心を揺り動かすことができれば、おのずと吃音者を見る世間の目は変わるんじゃないかってさ。
そうなれば、吃音者を取り巻く環境はいい方に改善されてくると予想しているんだ。
ニューハーフみたいに、『吃音』っていう重い言葉が洒落た横文字で表現されるようになったりしてね。要するに、吃音者の『無駄に苦しんでいる部分』を、少しでもっとっとととと取り払うこと。それが狙いなんだ」
一気にしゃべったトモキだったが、母はボーッとした表情で聞いていた。トモキは構わず一呼吸置いてから、また口を開いた。
「自分の半生を書くからにはさ、っきき吃音とは関係ないこと、ありきたりな生活を書いても、そんなの自己満足のブログと同じでしょ。まあブログってなんのことかわからないと思うけど。どうしてもっかっかか母ちゃんと暮らした日々を載せる必要があると思うんだ。きき吃音の根本はそこにあるのだからね」
「……ああ、その小説にはオラがでてくるのか」
「出るというよりも、むしろ主人公に近い状態になるかもね。一応オレが主人公の想定だけど」
「でもこれで世の中のどもる人たちが、無駄に苦しまない生活に変わればいいんでしょ。オラもそれに貢献できるなら本望だ。あと本が売れれば少しは印税が入るんでしょ。トモキにはずっと貧乏生活をさせてしまっていたから。……少しでも裕福な生活になればいいなあ」
「そうだね。っかか母ちゃんをネタにすることになるけど、まあ許してということで……」
「ううん、別にいいよ。オラどうせ外にも出ねえで寝てるだけだから。ただなにかの力で生かされて、心臓を動かされているだけだから」
「ま、とりあえずはそのことを話しておこうと思ってさ」
「ああ、わかった。……頑張ってね。オラ応援することくらいしかできないから」
「じゃあ、っききき今日は時間も遅くなったので、これでということで」
「うん、来てくれてありがとね。……ああそうそう、今度来るときは、まんず買ってきてけろ」
「ああ、安くてもいいからアンコがたくさん入っている饅頭がいいんだよね? いいよ」
「んだ。あと、できればタバコも1カートン買ってきてけねべが?」
「それは、親父に買ってもらって。たたた……ったた高いからね」
こうして言いたいことを伝え終えたトモキは、ボロアパートを後にした。日常の会話にもかかわらず、いつも以上にどもってしまったことは悔しかった。しかし、母に対してはこれくらいのどもりを見せておいた方が実感が湧いてよかったのではないかとも思った。
始めは母がトモキを虐待していたことについて、あそこまで言うつもりはなかった。
さらっと流すつもりだった。でも、母はまったくそれを覚えていなかった。むしろ都合のよい記憶しか残っていなかった。
それでトモキの考えは変わった。なんとオメデタイことなのかと。彼女自身のためによくないと思った。
トモキに与え続けた虐待はまぎれもなく罪だ。その自分の犯した罪は罪として生きているうちは自覚し続ける義務がある。
その十字架を背負い懺悔することで、残りの人生を少しでも世のため人のために尽くすよう努力しなければならない。それは個人的な恨み憎しみという以前に、母のためにも必要なこと。
いずれあの世に旅立ったとき、閻魔の帳ではこの世での行いが全て洗い出されるのだという。その際に、自分が何をしてきたのか覚えていないではお話にならない。少しでも反省の色があれば罪は軽くなるだろう。もちろん母に恨みがないといえば嘘になるが、その感情を表にだすことは全くもって意味をなさないことをトモキは弁えていた。
暗い夜道を走る車内。1人ハンドルを握るトモキの頭の中では、さまざまな思考が浮かんでは消えた。
しかしトモキが驚いたのは、母が予想以上に素直に聞いてくれたことだった。今の母ならそれなりに聞く耳はあると思っていたものの、正直あそこまで心に届くとは思わなかった。自分のこれまでの苦悩の日々を母に打ち明けたことに対して、親身になって同情してくれたことに涙がでそうになった。少しだけ母と一体になれた気がした。
苦しいとき、つらいとき、その気持ちを一緒に分かち合ってくれる人。一つ一つ共に乗り越えていくことで、人と人は信頼関係を築いていけるのではないだろうか。
「……この歳になっても心のどこかで、母の愛情を……求めている?」
まだ暖房が十分に効いていない車内で、トモキの口から白い吐息がふわっと舞った。室温が低かったことに気づいたトモキは暖房を少し強めた。
(母ちゃんはとても醜くなった。ただ毎日を淡々と静かに生きながらえ、色のない、動物のような生活を送るだけの存在。
かつてあれほどの恐怖と苦悩と苦痛と障害をオレに与え続けた母ちゃん。この世での存在価値はとうに消失しているように見える母ちゃん。国に税金を使わせ、お荷物になっているように見える母ちゃん。
そんな生き物に対して、オレはまだ『なにか』を求めているのだろうか?
……今でもおぼろげながら覚えている母のぬくもり。本当に数えるほどしか覚えてないけど、母ちゃんに抱かれているとき、母ちゃんの体温を感じているときはとても安心だった。心が満たされた。……心が暖かくなった。
今でも……それを求めているのだろうか。期待しているのだろうか。子供の頃あんなひどい仕打ちを受け続け、生涯治らないであろう吃音という障害も与えられた。
それでも、オレの心はまだ母ちゃんの愛情を欲しているのだろうか。…………お人好しにもほどがあるな)
その日の夜、トモキは夢を見た。平穏な休日、保育園児のトモキは居間でテレビを見ていた。すると背後から『トモキこっち見て』と母の声。
トモキは呼ばれるままに振り向いた。そこには若い頃の父と母の姿があった。どちらも恋人同士のように腕を組み、満面の笑顔でトモキを見ていた。
それはあたかも自分たちの仲の良さを自慢しているかのように。
その後、母の顔は突如「マザー」に切り替わった。父の姿は見えなくなった。マザーはトモキに暖かい慈悲の眼差しを注いでいる。トモキは「マザー」に引き寄せられるように、内股の足で近づいた。
マザーはトモキの手の届く距離にいる。眩しいくらいの暖かい光を感じる。トモキはマザーに両手を伸ばした。マザーに触れたかった。すると、マザー、いや、『マザーの顔を持つ母』も両手を広げた。トモキのことを受け入れてくれる。
……あとほんの1センチでマザーと両手を絡ませられる。……その寸前のところで、目が覚めてしまった。
(マザー……。かあちゃん……)
枕元にある携帯電話をみると夜中の4時を過ぎたところだった。
窓の外からは電灯の明かりが微かに部屋に差し込んでいる。すぐ横では、その薄明かりに照らされた妻と子供の寝顔が青白く浮かび上がっていた。2人とも深い寝息を立てている。
トモキは胸の高鳴りを抑えることができない。なんでこんな夢を見たのだろう。きっとあれが、トモキが心の中で思い描いている母への願望、理想像なのかもしれない。
(今のオレには可愛い子供がいる。もう母の愛情を要求する立場でもない。オレが妻子に愛情を注がなければならないんだ。
子供にはオレのような人生を歩ませてはならない。……そう、オレは……これからは……こいつらのために……こいつらを幸せにするために……生きていくんだ。
人生あとどれくらい生きられるかわからないけど、きっと死ぬまでこの吃音はオレに巣食い続けるのだろう。なんとも招かれざる虫に好かれたもんだ。でもこれがオレに与えられた人生。
母親から満足に愛情をもらうことができなかった。
人並みにほしいものを買ってもらえず、ボロ布を着せられた。
吃音で多くの人に不快な思いをさせてきた。自分自身も惨めな思いをしてきた。
出世街道からも外された。
……でも……こんなオレでも結婚できた。子供も授かった。決して裕福ではないけどこうして給料をもらい、オレが子供のときのような貧乏からは脱却できた。
それだけ満たされれば充分じゃないか。あとは……残りの人生で、世の中の吃音者の苦悩を少しでも取り払うことができれば……。いや、もうオレの視点は吃音だけに捉われてはいけない。
世の中には様々な障害で、同じように偏見の目に晒されて苦しんでいる人たちがいる。
理不尽な現実は至る所で起こっている。そういうのを少しでもなくしていきたい。
やがて完成するであろうオレの小説が、そのわずかな力添えになれば。
そう。きっとオレは大器晩成型なんだ。風向きは確実に変わってきている。これから……)
気づくと外は徐々に明るくなってきていた。遠くの方からはスズメのさえずりも聞こえてくる。
改めて携帯電話の時計を見ると、思っていたよりも時間がたっていることに気がついた。あと1時間もすれば子供も目を覚まし、遊んでほしいと甘えてくる。またいつもの平和な明るい1日が始まる。
「黎……明…………」
トモキは外の景色を見ながら呟いた。
これまでの暗い人生は洗い流され、これからは新しい光が照らしてくれる。
……きっとそうなるに違いない。
「オレの人生は今、ようやく…………黎明期に入った」
(完)