正月は仙台の妻の実家で過ごしていた。

子供も1歳半になった。まだ子供に吃音症状があるかどうかは窺いしれない。トモキにとってそれが一番の心配事だった。

子供に本を読んできかせることはなるべく避け、その代わり歌はたくさん歌ってあげている。歌だとどもらないからだ。
 

子供にだけはオレの歩んだ道を通らせてはならない
トモキは改めて強く心に念じた。それと同時に、ふと母のことが気になった。
母は2年ほど前、精神病院を退院していた。とはいっても精神が正常に戻ったからではなく、単純に入院費を払えなくなったからだった。
数年前、入院費が年金受給額を上回るほど値上がってしまい、やむなく母を退院させたということだった。


退院した母は、父に面倒をみてもらっている。13年もの年月を経て娑婆に戻ってきた母は、思いのほか安定している。父の住むアパートに引きこもり、1日の大半を布団の中で過ごしているのだ。

 

腹が減ればむくりと起きだす。電子ジャーに溜まっている冷や飯を茶碗によそい、納豆を混ぜて黙々と食べる。

そこにはまったく華がない。ただひたすら、昆虫や魚のように、『純粋に腹がすいたから食べられるものを見つけて食べる』という、およそ人間らしい食事とは大きくかけ離れたものだった。
 

ほどなくお腹も膨れると、タバコを吸って、また寝床に戻る。食事は基本的に1日1食。お風呂は3日に1回。これの繰り返し。母はこの生活にすっかり満足しているという。
 

嫌われ松子の一生』という小説を以前読んだことのあるトモキは、母の姿が、小説にでてくる晩年の松子と重なっているように思えた。
 

見た目はとても健常者に見えないのは言うまでもないことだった。右目の上に移植した皮膚はだいぶ馴染んではいたが、眉毛がない。そして、その皮膚が常に張っているせいで、右目がうまく閉じられなくなっている。

左手は今も肘を伸ばすことができず、常にフラフラと小刻みに震えている。髪は白髪混じりでボサボサ。10年以上も経っていると思われるジャージを履いている。体はごぼうのようにやせ細り、目は始終うつろな状態。
 

まだ、テレビからは時折指令のような声が聞こえてくると言っているが、そのときはすぐに常備している薬を飲むことで、なんとか精神をコントロールできているという。

本人が精神の病に侵されていることを自覚できるようになっただけ、父としては生活がしやすくなっているのだという。
 
トモキは母に今1度会おうと思った。この時点でトモキの心の中に『ある決意』が固まっていた。
ちっちちちょっと母に会いに行ってくる
夜、子供を寝かした後、トモキは妻にそう一言残し、父のアパートに向かった。
 

車を20分ほど走らせると、町の片隅にひっそりとたたずむボロアパートに着いた。

築40年以上は経っているだろうか。木造2階建てで父と母は1階の一番端の部屋だった。

間取りは2K。玄関入ってすぐ4畳くらいの台所で、そのまま6畳の和室が2つという「うなぎの寝床」になっていた。


父はいつも玄関のドアを施錠していないので、父が留守のときでも自由に出入りができた。
「盗みに来られたって貴重なものなんて何もねえからよ。返って泥棒の方が『可愛そうに』って金でも置いていってくれるんじゃねえかな」
かつて父はそう笑い飛ばしていた。
 

トモキはノックもせずにそのままドアを開けた。ベニヤ板をかませただけの薄いドアはとても軽かった。父は今晩は仕事だった。それを見計らって今日を選んだ。
 

……か、か母ちゃん
トモキはズカズカと部屋に入っていくと、案の定、母は布団で寝ていた。とはいっても眠っているわけではなかった。


「おお、トモキ」
母はあお向けに寝た状態のまま、首だけをこちらに向けてきた。豆電球しか点いていない薄暗い中、ぼんやり見える母の顔は不気味だった。初めて見る人だったら、きっとドキッとするだろうと心の中で思った。

母の従妹は宝塚の元トップスターだということだが、親戚同士でここまで人生が異なるものなのかと、厳しい現実を知った思いがした。
 

とりあえずトモキは部屋の電気をつけ、気軽な口調で話しかけてみた。
っげげげ元気そうだね
「ああ。こんな時間にどうしたの?」

声はすっかり枯れたように力がないが、トモキが来たのが嬉しそうだ。
 

母はここ数年前から左腕だけでなく口も不自然にパクパク動いているようになっていた。寝床には何種類もの錠剤が大量に置かれている。毎日これだけの薬を服用しているのだから、なにかしら副作用がでてもおかしくはないのだろう。
 

いやあ、いろいろと、……はあーはっは……はあ話をしようと思ってさ
今のは決して笑ったわけではなかった。は行でどもっているときが一番顔が醜くゆがんでいる気がする。母だからまあいいやと気を取り直した。
 

「なんだあ、トモキ、まだどもるのか?」
徐々に切り出すつもりが、皮肉にもいきなり話の本題に突入してしまった。回りくどくいくよりもむしろよいのだと思い直した。
 

ああ、どもるよ。……っかかか母ちゃんは、オレが小さいときのことって覚えてる?
「うん覚えているよ。お兄ちゃんもトモキも手がかからない子だったねえ。子供たちにはオラみたいな性格になってほしくなかったから、一線を引いてたんだ。オラみたいな、人とうまく付き合えないような人間になってほしくなかったから」


一線を引いていた……。それは正直、初めて知ったことだったが、言われてみればたしかにそうかもしれないと思った。トモキは母と過ごした時間は誰よりも長かったが、2人で遊びに行った記憶はなかった。もっともそういう思い出を作れる歳頃になる前に母がおかしくなってしまったということもあるが。
 

ああなるほどね。そう思ってくれてたのはいい判断だったと思うよ。……とっととところで、オレを虐待していたのは覚えてる?
軽いノリでストレートに聞いた。母のうつろな目は若干見開かれた。


「ええ? 虐待? そんなことオラしたの?」
ああ……やっぱりそういう記憶はないんだね。ほらあの、オレが、ほ、ほおおー保育園児の頃、11月の寒い夜に、ほ、ほ、ほ保育園から家まで走らせたこととか覚えてない?
「えええ? トモキをあの保育園から家まで走って帰らせたの? オラが? 嘘でしょ? ……何でそんなことになったの?」


おおおおオレが昼間に園庭で遊んでて靴を濡らしちゃって。っかか母ちゃん夕方に迎えにくるなりカカカカンカンに怒ってさ。かかか買ったばかりの靴をなに濡らしてんだって。ひーひっひっひとりで帰れ!って怒鳴ったの覚えてない?
「オラがそんなことしたの?本当に?」
母は本気で驚いている。
 

ほおー本当だよ。オレが5歳のときだよ。この間、試しに車の走行距離のメーター使って距離を測ってみたらさ、6キロ以上あったよ
「ええええー? あの距離を……年端もいかない幼児が走らされたの? ええええー、それはひどいことしたなあ」


うん。途中から『心臓が破裂するぞ』って罵倒して、どどど恫喝しながらね
「そんなことまでオラ言ったの? それで、その後どうなったの?」


何度もへっへっへへへたり込んではまた走らされてを繰り返しながら、なんとか家にたどり着いたんだよ。でもその後、いいいい家に入れないって言い出してさ。

グロッキーなオレを残して、っかかっかかかあちゃんだけ家に入っちゃったんだよ。

それで、体はもう動かないし、怖いし、凍えて、意識が遠のきそうになったあたりで、玄関のドアが開いたんだ。入れてくれたのは、暢気につつつ爪楊枝をくわえた親父だったよ
「あらあ、オラまだ怒ってたのかあ」


あとほら、俺が小学3年生のときは、……と……とっとと友達に300円おごってあげたのに激怒して往復ビンタ食らわしたこととか。こうやってさ。両手でバチンバチンバチンバチンっておもいっきり4連発。

っすすそしたらさ、鼻血がドバッと噴き出して、きっききき着ていたTシャツが真っ赤になったの。それでも一切気にもしてくれずに。……こ……ここ、今度はその友達に金を返してもらってこいって怒鳴って。

怖いから言われるとおりに友達の家に行ったよ。そしたら留守でさ。かかか返してもらわなかったらただじゃ済まないと思ったから、家に侵入して物色したんだ。泥棒行為だよ。

でもしょしょしょしょせんガキが探しそうなところなんかにお金は置いてないんだね。

1円たりとも見つけられなかったんだ。すーそれで仕方がないから恐る恐るかかか帰ったよ。

すぅーそそそそしたらさ、かあちゃん今度はもう1人の友達の家に押しかけるって言い出して。はああはああ鼻血まみれのまま、ほっぺを腫らしたオレを連れて……。みんなオレを見てびっくりしていたよ。あ、あ、あ、あの事件はとっても気が滅入ったよ
「はあああー、本当に? それはとても大変なことをしたんだなあ。全然覚えてないわあ。……はあああ、ひどいなあ、オラ本当にそんなことしたんだ」


うん、したよ。ぎ……ぎぎぎ虐待はもっともっと覚えてるよ
「はああ、オラすっかり……。子供たちはオラとは関わらない方がいいと思ってたから、一線を引いていたと思ってたあ。トモキは手がかからなくて、いい子に育ったんだと思ってたわあ」


いいいいい子に育ったのは間違いないとは思うけどね。……っかか母ちゃんの影響は悪い意味でとても大きかったことは、たたた確かだと思うよ
「そうだなあ。トモキには怖い思いをさせてたんだなあ。オラきっと必死だったんだなあ。毎日毎日生きていくのが精一杯で。稼がねげねえって……。子供たちを育てねげねえって……。はああ……、しかし、幼児のトモキをあの保育園から家まで走らせたりしたのかあ。たまげたなああ。なんでそんなことしたんだか……。可愛そうに……」
 

母も生きるのに必死だった……。わかる気がした。必死で稼いで、自分たちを養おうとしていた母の気迫はなんとなく感じてはいた。
トモキは、なにか胸に熱く込み上げてくるものを感じたが、グッと堪えた。まだこれからきちんと言わなければならないことがあるから。
 

さっき母ちゃんも言ってたけど、おおおオレ、未だにどもるだろ
「ああ、どもるなあ。……治んないのか?」


治せないんだ。いいいいくら頑張っても。頑張れば頑張るほど治らないんだ。……こ、こ、ここれまでオレはどもるせいで、すごい辛い人生を歩んできたんだよ。

家族からも、みんなからもバカにされて、笑われて、おおおお怒られて……。

親父も、母ちゃんも兄貴もみんな怒ってただろ。『ほら、どもるな!』『なんでどもるんだ!』って。『小学校に入ったらみんなにバカにされるぞ』とかっていうプレッシャーもっかかかけ続けていたよね
「んだっけがやあ? オラも……みんなで怒ったの?」


すっすすすすそうだよ。しーしかも、どもっているときの醜い顔マネまでされてね。そのおかげでオレは、しーーしゃっしゃしゃしゃべることがますます恐怖になって、どどどどんどん悪化していったんだ。

『落ち着いてしゃべれ!』とか言うけど、お、おお落ち着いて治るなら……とっととととっくに治ってる。

誰にも理解されずに、誰にも相談できずに、ひとりでこここここの悩みを抱えて、これまで生きてきたんだ。そしてこの苦しみは現在進行形で、こここここれからも死ぬまで続いていくんだろうね
「あああ……かわいそうだなあ。なんとかならないものだがなあ」


……とっとととと特に、学校生活では国語や英語の音読がつらかったよ。ききき恐怖で毎日生きた心地がしなかった。そして、やっと学校ともおさらばになったら、ここ今度は就職でしょ。

かかか会社に入ってからがさらなる地獄だよ。電話応対とかプレゼンとかさ。っかかかしこまった状態で人前でしゃべることが多いから。しかもこのどもりのせいで干されたよ。し、ししゅしゅ出世の芽も閉ざされたよ
「あらあ、かわいそうだなあ。……そんな大変な生活をしていたなんて、これっぽっちも思ってなかったあ。オラてっきり、普通に働いて、結婚もして楽しく暮らしているとばかり思ってたあ。……なんとかなんねえものだべか……」


なんとかしようと、ひっひひひ必死だったよ。……すーすっすっす……すす……そ、そもそも、なんでどもるようになったかわかる?
感情を抑えようとしているつもりだが、次第にしゃべりに熱がこもっている自分を抑えられない。
「わかんねえ。……なんでや?」


俺が大学卒業して、しーしぃー社会人になってすぐに、『これじゃあ本当にまずい。治さないと社会で生きていけない』って切羽詰ってさ。藁をもすがる思いで、っき……きき……きき吃音診療所を見つけたんだ
「えええ? そうなの? 診療所ってカウンセリングってことでしょ? 結構お金かかったんじゃないの?」


ああ、っかかかかかかったよ。始め3ヶ月コースで契約して治らなかったから、延長、再延長を繰り返してさ。っかっかかかれこれ1年半も続けちゃったよ。でもけけ結局治せなかった。

でも、そこで先生からいろいろ教えてもらったよ。家族から自分の吃音を受け入れてもらえなかったこと。幼児期から母親から慢性的に恐怖を与えられ続けたのが、きききき吃音の一番の原因だろうって
「あらあ……、ひどいことしたなあ。トモキの人生を狂わせてしまって……。オラそんなことしたのかあ」


っここれまで何度も自殺しようと思ったよ。いや、今でも死にたいって思うときがあるよ。本当に不便で惨めでつつ辛いよ。まともにしゃべれないのって。

それだけで人にはバカにされ、大笑いされ、雑魚キャラ扱いされ、びっくりされ……。イライラさせちゃったり不快にさせてしまうときもあって、すっすっすすそのときは罪悪感でいっぱいだよ。

おーおおオレって生きてる価値のない人間だって。あとオレ自身だって、意思が思うように伝えられないのは相当なストレスになってるよ。いつ頭禿げてもおかしくない状態だよ
「あらあ……自殺なんてしないで。結婚して、子供だってできたんだし……」


昔、何度も一緒に死のう死のうって喚いていた人から、まさか『じじじ自殺するな』って言われるとはね
「ええ? オラそんなことまで言ってたの? トモキに?」


ああ、言ってたよ。うっううう海に飛び込むって言ってさ、っっったったったたまねぎネットの中に庭の石をぎっしり詰めて。ご丁寧にオレの分までしっかり2個準備してくれたよね
「えー? 本当に? オラそんな力あったんだべか……」


あったんだろうね。そのときは親父がいなかったから、なんとかオレが宥めてここここ事なきを得たけどね。……でも大丈夫だよ。自殺することはないよ。自殺はよくないらしいからね。

人間ってさ、世の中の役に立つために、っかかかか神様から生かされている存在なんだって。だから、生きている間は人様の役に立てるように努力しなければならない。

つつつっつつ辛い人生もなにか意味があってのことらしいから、与えられた人生は真っ当に生き抜かなきゃいけないんだって。偉い人が言っていたよ。

だから、今、かか母ちゃんがこうしてこの世で何をするでもなく、のほほんと息をしているだけの存在なのも、ききききっと人間にはわからない深い意味があるのかもしれないね。

もっとも今の時代、20代30代の若い人たちが見たら、なんて贅沢な生活だと思うよ。外部からの刺激もなく、おおお親父が生きている限りは衣食住が保障されているんだからね
「んだなあ。たしかに今は安心だなあ」


まあそれはいいとして。オレはあの診療所に行ってみて、はあーはああはあ初めてこの障害を抱えているのが自分だけじゃないってことがわかったんだ。

こここれまでは地球上でオレだけがどもりの障害を抱えているって思ってたんだけど、それが違うってことが社会人になってからわかったんだ
「ああ、いるよ。どもる人は結構いるんだよ。オラも昔、結構見てきたもの」


なんだ知ってたのか。そういうのをもっと教えてほしかったよ。…………っすーーすーーそこでね。オレは考えたんだ。この自分の半生を綴った小説を書いてみようって
本題に触れた瞬間だった。


「……小説を書くの?」
吃音でっくくくく苦しんでいる人がオレの他にも世間にはたくさんいるみたいだからさ。中には治る人もいれば、オレみたいに治らない人もたくさんいる。

もちろん己の吃音に対して苦痛を感じないで生活できている人たちもいるのだろうけど、大半はオレみたいに一人で悩みを抱えて苦しんでいる人も多いらしいんだ。

っくく苦しんでいる根本的な原因は、きっきき吃音が世間で正しく理解されていないからだと思う。

っっここっここれがオレが今まで生きてきた中で悟ったことなんだ。

だから、おおオレが自分の半生をリアルに綴った興味満点の小説を書いて、多くの人の心を揺り動かすことができれば、おのずと吃音者を見る世間の目は変わるんじゃないかってさ。

そうなれば、吃音者を取り巻く環境はいい方に改善されてくると予想しているんだ。

ニューハーフみたいに、『吃音』っていう重い言葉が洒落た横文字で表現されるようになったりしてね。要するに、吃音者の『無駄に苦しんでいる部分』を、少しでもっとっとととと取り払うこと。それが狙いなんだ


一気にしゃべったトモキだったが、母はボーッとした表情で聞いていた。トモキは構わず一呼吸置いてから、また口を開いた。
自分の半生を書くからにはさ、っきき吃音とは関係ないこと、ありきたりな生活を書いても、そんなの自己満足のブログと同じでしょ。まあブログってなんのことかわからないと思うけど。どうしてもっかっかか母ちゃんと暮らした日々を載せる必要があると思うんだ。きき吃音の根本はそこにあるのだからね
「……ああ、その小説にはオラがでてくるのか」


出るというよりも、むしろ主人公に近い状態になるかもね。一応オレが主人公の想定だけど
「でもこれで世の中のどもる人たちが、無駄に苦しまない生活に変わればいいんでしょ。オラもそれに貢献できるなら本望だ。あと本が売れれば少しは印税が入るんでしょ。トモキにはずっと貧乏生活をさせてしまっていたから。……少しでも裕福な生活になればいいなあ」


そうだね。っかか母ちゃんをネタにすることになるけど、まあ許してということで……
「ううん、別にいいよ。オラどうせ外にも出ねえで寝てるだけだから。ただなにかの力で生かされて、心臓を動かされているだけだから」


ま、とりあえずはそのことを話しておこうと思ってさ
「ああ、わかった。……頑張ってね。オラ応援することくらいしかできないから」


じゃあ、っききき今日は時間も遅くなったので、これでということで
「うん、来てくれてありがとね。……ああそうそう、今度来るときは、まんず買ってきてけろ」


ああ、安くてもいいからアンコがたくさん入っている饅頭がいいんだよね? いいよ
「んだ。あと、できればタバコも1カートン買ってきてけねべが?」
 

それは、親父に買ってもらって。たたた……ったた高いからね
こうして言いたいことを伝え終えたトモキは、ボロアパートを後にした。日常の会話にもかかわらず、いつも以上にどもってしまったことは悔しかった。しかし、母に対してはこれくらいのどもりを見せておいた方が実感が湧いてよかったのではないかとも思った。


始めは母がトモキを虐待していたことについて、あそこまで言うつもりはなかった。

さらっと流すつもりだった。でも、母はまったくそれを覚えていなかった。むしろ都合のよい記憶しか残っていなかった。

それでトモキの考えは変わった。なんとオメデタイことなのかと。彼女自身のためによくないと思った。

トモキに与え続けた虐待はまぎれもなく罪だ。その自分の犯した罪は罪として生きているうちは自覚し続ける義務がある。

その十字架を背負い懺悔することで、残りの人生を少しでも世のため人のために尽くすよう努力しなければならない。それは個人的な恨み憎しみという以前に、母のためにも必要なこと。

 

いずれあの世に旅立ったとき、閻魔の帳ではこの世での行いが全て洗い出されるのだという。その際に、自分が何をしてきたのか覚えていないではお話にならない。少しでも反省の色があれば罪は軽くなるだろう。もちろん母に恨みがないといえば嘘になるが、その感情を表にだすことは全くもって意味をなさないことをトモキは弁えていた。


暗い夜道を走る車内。1人ハンドルを握るトモキの頭の中では、さまざまな思考が浮かんでは消えた。
しかしトモキが驚いたのは、母が予想以上に素直に聞いてくれたことだった。今の母ならそれなりに聞く耳はあると思っていたものの、正直あそこまで心に届くとは思わなかった。自分のこれまでの苦悩の日々を母に打ち明けたことに対して、親身になって同情してくれたことに涙がでそうになった。少しだけ母と一体になれた気がした。

苦しいとき、つらいとき、その気持ちを一緒に分かち合ってくれる人。一つ一つ共に乗り越えていくことで、人と人は信頼関係を築いていけるのではないだろうか。
 

……この歳になっても心のどこかで、母の愛情を……求めている?
まだ暖房が十分に効いていない車内で、トモキの口から白い吐息がふわっと舞った。室温が低かったことに気づいたトモキは暖房を少し強めた。


母ちゃんはとても醜くなった。ただ毎日を淡々と静かに生きながらえ、色のない、動物のような生活を送るだけの存在。

かつてあれほどの恐怖と苦悩と苦痛と障害をオレに与え続けた母ちゃん。この世での存在価値はとうに消失しているように見える母ちゃん。国に税金を使わせ、お荷物になっているように見える母ちゃん。

そんな生き物に対して、オレはまだ『なにか』を求めているのだろうか?

……今でもおぼろげながら覚えている母のぬくもり。本当に数えるほどしか覚えてないけど、母ちゃんに抱かれているとき、母ちゃんの体温を感じているときはとても安心だった。心が満たされた。……心が暖かくなった。

今でも……それを求めているのだろうか。期待しているのだろうか。子供の頃あんなひどい仕打ちを受け続け、生涯治らないであろう吃音という障害も与えられた。

それでも、オレの心はまだ母ちゃんの愛情を欲しているのだろうか。…………お人好しにもほどがあるな
 


その日の夜、トモキは夢を見た。平穏な休日、保育園児のトモキは居間でテレビを見ていた。すると背後から『トモキこっち見て』と母の声。

トモキは呼ばれるままに振り向いた。そこには若い頃の父と母の姿があった。どちらも恋人同士のように腕を組み、満面の笑顔でトモキを見ていた。

それはあたかも自分たちの仲の良さを自慢しているかのように。

 

その後、母の顔は突如「マザー」に切り替わった。父の姿は見えなくなった。マザーはトモキに暖かい慈悲の眼差しを注いでいる。トモキは「マザー」に引き寄せられるように、内股の足で近づいた。

マザーはトモキの手の届く距離にいる。眩しいくらいの暖かい光を感じる。トモキはマザーに両手を伸ばした。マザーに触れたかった。すると、マザー、いや、『マザーの顔を持つ母』も両手を広げた。トモキのことを受け入れてくれる。

……あとほんの1センチでマザーと両手を絡ませられる。……その寸前のところで、目が覚めてしまった。
 

マザー……。かあちゃん……
枕元にある携帯電話をみると夜中の4時を過ぎたところだった。

窓の外からは電灯の明かりが微かに部屋に差し込んでいる。すぐ横では、その薄明かりに照らされた妻と子供の寝顔が青白く浮かび上がっていた。2人とも深い寝息を立てている。


トモキは胸の高鳴りを抑えることができない。なんでこんな夢を見たのだろう。きっとあれが、トモキが心の中で思い描いている母への願望、理想像なのかもしれない。
 

今のオレには可愛い子供がいる。もう母の愛情を要求する立場でもない。オレが妻子に愛情を注がなければならないんだ。

子供にはオレのような人生を歩ませてはならない。……そう、オレは……これからは……こいつらのために……こいつらを幸せにするために……生きていくんだ。

人生あとどれくらい生きられるかわからないけど、きっと死ぬまでこの吃音はオレに巣食い続けるのだろう。なんとも招かれざる虫に好かれたもんだ。でもこれがオレに与えられた人生。

母親から満足に愛情をもらうことができなかった。

人並みにほしいものを買ってもらえず、ボロ布を着せられた。

吃音で多くの人に不快な思いをさせてきた。自分自身も惨めな思いをしてきた。

出世街道からも外された。

……でも……こんなオレでも結婚できた。子供も授かった。決して裕福ではないけどこうして給料をもらい、オレが子供のときのような貧乏からは脱却できた。

それだけ満たされれば充分じゃないか。あとは……残りの人生で、世の中の吃音者の苦悩を少しでも取り払うことができれば……。いや、もうオレの視点は吃音だけに捉われてはいけない。

世の中には様々な障害で、同じように偏見の目に晒されて苦しんでいる人たちがいる。

理不尽な現実は至る所で起こっている。そういうのを少しでもなくしていきたい。

やがて完成するであろうオレの小説が、そのわずかな力添えになれば。

そう。きっとオレは大器晩成型なんだ。風向きは確実に変わってきている。これから……
 

気づくと外は徐々に明るくなってきていた。遠くの方からはスズメのさえずりも聞こえてくる。
改めて携帯電話の時計を見ると、思っていたよりも時間がたっていることに気がついた。あと1時間もすれば子供も目を覚まし、遊んでほしいと甘えてくる。またいつもの平和な明るい1日が始まる。


黎……明…………
トモキは外の景色を見ながら呟いた。
 

これまでの暗い人生は洗い流され、これからは新しい光が照らしてくれる。

……きっとそうなるに違いない。
オレの人生は今、ようやく…………黎明期に入った」    
 

(完)

 

プロジェクト凍結から4ヶ月が過ぎ……。
今日も平穏な1日だった。5月という季節も相俟ってか、仕事中は眠くなることすらある。

今日も静かに仕事を終え、定時のチャイムと同時にロッカールームに直行した。


家に帰れば愛する妻子が待っている。子供は早くも10ヶ月目に入った。一時、夜鳴きがひどくて夜中に何度も起こされることもあったが、今は落ち着いた。
 

ITプロジェクトが凍結してからは、毎日こんな生活が続いていた。去年の今頃とは雲泥の違いだ。こんなに暇でも、毎日会社に行き、与えられたことを無難にこなしていればきちんと給料をもらえた。


ITプロジェクトが凍結した後、プロジェクトメンバーたちは一応元の部署に戻ることができた。

しかし待遇については個人差があった。

以前と同じ業務に戻れた者。

プロジェクト自体は失敗に終わったがそこでの能力を高く評価され出世した者。

反対に干されてしまった者。


なんといっても、プロジェクトリーダーが干されたことにはみな唖然とした。

あの有能なメンバーたちを束ねていた超エリートのプロジェクトリーダーが、である。プロジェクトが失敗に終わったこと、会社の5億とも6億とも言われる金額がドブに捨てられたことの代償は大きかったようだ。

誰かが責任をとらなければ他の社員も納得しないということで、プロジェクトリーダーがその対象になったのだという。

それ以外にも干された犠牲者は幾人もいた。……トモキもその1人だった


ITプロジェクト凍結の通達があった数日後、トモキは直属の技術課長に呼ばれた。無論、何の話かはわかっていた。
「山中くんは……あれだな。事業部長から言われたんだけどさ、今後のITがどうなるかわからないからね。再開したときに、またすぐにそっちに入れるようにということで……『マルシ』をお願いすることにしたから」
 

『マルシ』とは、製品検査作業の中の1つの呼び名だった。製品の製造工程内で品物が不良品かどうかを検査すること。これがトモキに与えられた新たな仕事だった。

この仕事は以前まではパートのおばちゃんが担当していた。言ってみればサルでもできるような作業だった。

それがこの度、大卒の中堅社員であるトモキに任されることになったのだった。
 

課長は説明中トモキと目を合わせようとしなかった。事務的な伝達だけで速やかに済まそうという意思を感じた。感情を殺したサバサバした口調だった。
 

正直なところ、会議、報告、電話など事ある毎にどもられるのが迷惑なのだろうと思った。

たしかに技術職は、頭の良し悪しの他に、きちんとしゃべれないと非常に困る職種でもあった。


「おまえいいのか? それって干されたんだぞ」
かつてのITプロジェクトのチームメンバーからは時折こう言われたが、トモキは気にしなかった。

たしかに課長からそう告げられた瞬間は、目を剥き耳を疑った。オレが検査員かよという声が喉まで出かかった。

しかしトモキは既に元の技術職に戻る気は失せていた。だからその言葉はぐっと飲み込んだ。

 

技術職に復帰したとして、どもることで自分が嫌な思いをすること、周りにも迷惑をかけることが正直とても辛かった。そういうのをもう繰り返したくなかった。
 

マルシを始めてかれこれ4ヶ月経ったが、ITプロジェクトが復活する気配はまったく感じられない。それどころか、どこからか物騒な噂まで流れてきた。


「上層部は2、3年後から徐々に再開する見通しを立てている。しかも今回の失敗を踏まえて、メンバーも一新、やり方自体も大幅に変えるという」
まんざらガセでもなさそうな感じに思えた。いよいよもって万事休すだと思った。

しゃべりが苦手ということで技術職には復帰できず、最後の望みであるIT復帰の道も閉ざされそうになっている。営業職など問題外。

この会社でトモキの行き着くところは、製造現場か検査員しか残されていなかった。


ついに自分は堕ちるところまで堕ちたと感じた。しかし堕ちてみると、それはそれで意外と居心地がよかった。

電話応対をしくじって先方や近隣に迷惑をかけることもない。

自分自身もストレスまみれの仕事から脱却できた。

プライドを捨ててみると、意外と心は晴れやかだった。
 

人生とは、自分の思い描く理想像とはかけ離れたところに、幸せが潜んでいることがある
最近トモキはそう考えるようになった。

 

私生活においても、家に帰れば妻子が待っている。妻もトモキが干されたことは薄々気づいているようだったが、あえて触れてはこない。

妻はあまりトモキの会社での立場や給与については関心がない素振りを見せている。
 

こうしてトモキの環境は、公私共に平和になった。
……平和にはなったものの、トモキは何かやり残したこと、心の中でくすぶるものを感じずにはいられなかった。
それが何であるのか……。まもなくトモキは悟り、後に『一大決心』をすることになるのだった。 

 

(次号へ続く)

トモキ、一大決心の実行?

 

ITプロジェクトは一時凍結とする
午後の3時を過ぎた頃、衝撃が走った。それは突然のことだった。

パソコンの画面にはたしかにそう表示されている。

全社員向けに送信された社内メール。その見出しに『社長通達』と書かれてあることから、タチの悪いイタズラでないことは明白だった。
 

今日もメンバーたちは、目を血走らせながら作業を行っていた。

先月発覚したB事業部の致命的な障害対応は依然として修復できていなかった。

また、その対応に他事業部のメンバーが何人も駆り出されたこともあり、トモキの事業部もさることながらB事業部以外の進捗も大幅に遅れが発生していた。
 

おそらくメンバーの誰もが、最悪のケースが迫ってきていることを感じていたに違いなかった。しかし誰一人としてそれを口に出す者はいなかった。

ギブアップはしたくない。……誰かが試合を止めてくれるまでは。

そして試合は突然、ゴール目前にして止められた。
 

『ITプロジェクトは一時凍結とする』
トモキは改めて読み直した。やはり読み間違いではなかった。

その一文の後に、この決定が下るに至った経緯などが長々と書かれていたが、読まずともだいたいわかっていた。

残りのわずかな日数でどれほど頑張ってみたところで、このシステムがまともに動くことはない。誰が見ても明白だった。

それほどまでにB事業部がこしらえた地雷は並大抵のものではなかった。
 

リリース目前にしてプロジェクトが破綻。
とても呆気ないものだった。無念のうめき声ともとれる独り言が、事務所のところどころから聞こえてきた。無論トモキも呆然としていた。
 

「あと1ヶ月期間を延長できていればな……」
遠くのほうの席に座っている誰かがボソリとつぶやいた。
 

実際あと1ヶ月続けたところで、どうなるものでもない
トモキは心の中でそう思ったが、黙っておくことにした。
 

おもむろに事務所のドアが開いた。プロジェクトリーダーだった。

そういえば今日は、朝のミーティングが終わってから姿を見ていなかったことに気がついた。
 

「みんな悪いな……。へへへ。社長とずっと話し合ってたんだけど、結局うまく説得できなかった。なんとか期間を延長してもらおうと懇願したんだけど、金がかかり過ぎるから駄目だって」
 

プロジェクトリーダーは苦笑いの表情を浮かべた。たしかに、既に予算がオーバーしていることは以前から小耳に挟んでいた。
 

「でもリーダー。『一時凍結』って書いてたから、また復活もあり得るんでしょ?」
誰かが聞いた。
 

「ああ、それはなんともいえない。社長としては、とりあえずこのまま続けても来月のリリースには間に合わないし、このままずるずるジリ貧状態が長引いた場合のリスクを考えると、一度凍結させた方が得策だという決断をしたようだよ。

……おそらく……まずは分析にかかるんじゃないかな。なんでこんな結果になったのかって。

その分析結果によっては……、今のメンバーで続きをやるかどうかも微妙なとこかもしれない。

メンバーを大幅に変更して、ふんどしを締め直すとか。まあ、今の時点で社長としては、今後についてなんともいえないから『一時凍結』って表現で濁したんだと思う」
 

今後のプロジェクト再開の目処についてはまったくの不透明ということだった。
とりあえず現時点ではっきりしたことは、『K-1ダイナマイトを家族とゆっくり鑑賞して年を越せること』だった。   

 

(次号へ続く)

フリダシに戻ったトモキ。どうなる?

 

パソコンのタイピング音だけが鳴り響く静かな事務所内。

今日もメンバーたちは悶々と作業を行っていた。運用テストで発覚した不具合の処理だ。

 

月の作業時間は既に350時間を越えている。

休日出勤が当たり前となっているため、妻はまだ里の仙台で暮らしている。プロジェクトとしては大詰めを迎えている。
 

壁を挟んだ隣の会議室では、プロジェクトリーダー以下、チームリーダークラスが集まり、今後の動きに関する打ち合わせをしている。

予想以上に不具合対処のウェイトが高くなっているため、線引きしたスケジュールに対して実績がかなり遅れていた。

そんなことも相まって、メンバーたちは皆イライラが募っていた。最近はちょっとした意思疎通がうまくいかなかったときでも、すぐに口論となって険悪な雰囲気になることさえある。


それはそれでも、なんとかプロジェクト自体は終わりに向けて動いていた。少なくともトモキのA事業部に関しては、最低限システムを稼動、運用できるだけの見込みが立っている。それ以上の機能については、リリース後のバージョンアップで対応することが妥協策になっていた。
「ようやくゴールへの光は見えてきている。この高負荷な作業もあともう少しの辛抱だ」
そうみんなで言い聞かせ、励ましあい、士気を高めあっている。
 

そんな中、また隣の会議室からプロジェクトリーダーの荒げた声が聞こえてきた。これも日常茶飯事になっているため、最近は誰も驚かなくなっていた。
 

「うそだろ?! おい。……ちゃんと確認したのかよ」
壁越しに聞こえてくるプロジェクトリーダーの声は元々通る声だった。しかし今回はなんともなしに、いつもよりも緊迫したものを感じた。トモキは少し嫌な予感がした。


「おい、そんなはずねえだろうがよ。……ああ? おお、そうだろ」
携帯で誰かと話しているようだ。プロジェクトリーダーの一方的な声しか聞こえないため、内容までは把握しにくい。他のメンバーたちも黙々とタイピングしながらも、耳だけはその声に傾けているようだ。
 

「まあいいや、とりあえずそのままにしておいて。すぐに行くから」
そう言い終えると同時に会議室のドアの開閉音が鳴り響いた。そして廊下を走り去っていく音。プロジェクトリーダーは別館で作業をしているB事業部の方へ向かったのかもしれない。
 

「B事業部でなんかあったな……」
静かになった事務所内で、隣に座っているベテランメンバーがポツリとつぶやいた。
 

その瞬間事務所のドアが勢いよく開かれた。そこには若干顔を引きつらせたチームリーダーが立っていた。
「やべえよ……」
チームリーダーの表情は苦笑いに変わった。一同、次の言葉を待った。
 

「やべえよ。……こっちにも聞こえてたよね?」
チームリーダーが冷静で淡々とした口調でしゃべるときは、深刻な事態であることが多かった。
 

「聞こえてたけど内容まではよくわからないよ。たぶんB事業部がなんかやらかしたんでしょ?」
隣のベテランメンバーが呑気なテンションで言った。禿げ上がった頭が一瞬照明に反射した。
 

「そう。まあ細かい内容は後で説明するけど、B事業部のシステムに致命的な欠陥が見つかったって。

しかも影響度は洒落にならないよ。B事業部のシステム内だけじゃなくて、全事業部の生産管理システムに影響を与えるレベルだから。

オレが聞いた中で想像する限りだと、残り1ヶ月で修正ができるかどうか微妙なレベルかも。

今プロジェクトリーダーがそれを確かめに行ったよ。オレもこれから行ってくるから。場合によっては、ここの誰かも応援に呼ぶかもしれないから、そのつもりでいて」
 

メンバー一同、青くなった。B事業部は当初から、抜擢されたメンバーの実力不足が特に不安視されていた。実際、時には別事業部のメンバーを派遣させてピンチを乗り越えたこともあった。そんなB事業部は通称『ITプロジェクトの地雷原』と囁かれていたが、とうとうその地雷を踏みかけた状況になってしまったようだ。見つかった時期も時期だけに、この地雷を果たして処理できるのか。
チームリーダーは浮かない表情でB事業部へと向かった。
 

ここっここりゃ年末年始は返上になるでしょうね

沈黙の中、珍しくトモキが口を開いた。
「おう、とりあえずK-1ダイナマイトは見たいな。食堂のテレビでみんなで見ようや」
隣のおじさんの陽気なこの一言で、いったん場の空気が和んだのが幸いだった。
しかし、この数時間後、B事業部から戻ってきたチームリーダーから悲劇的な報告をもらうことになるのだった。    
 

(次号へ続く)

トモキが唯一無二の居場所だと見定めたプロジェクトは果たして成功するのか。

 

院長と決別してから、さらに数年の年月が経過した。
トレーニングに失敗してから現在まで、相変わらず精神を擦り減らす毎日が続いていた。

報告や発表ではその都度吃音を晒した。

電話応対をなるべく回避するために、意識的に事務所にはいないようにしていた。

こんなコソコソする自分に対してプライドが許さない面はあるが、先方様や周りの人たちに迷惑をかけるくらいなら仕方のないことだと思った。
 

そんな中、X社では時代の流れに沿った『社内IT化』が着々と進行していた。その中でも業務上の大きな変化といえば、なんといってもメールの活用度が増したことだった。

これまでは、なにか連絡する際は当たり前のように電話や直接会って行っていたが、最近はメールが幅を利かせている。

たしかにメールには電話にないメリットが多い。記録が残せること、自分の都合のよいときに見れること、何度でも確認できること、一括で複数人に発信できること、紙を削減できることなど、仕事を能率的、合理的に進める上で重宝されるのも当然だった。
 

これは言うまでもなく、トモキにとっては願って止まない変革だった。まだまだ電話が主流であることには変わりないが、それでも、これまで10回鳴っていた電話が8回に減ったことは大いに喜ぶべきことだった。

また、これまで3ページ分しゃべらなければならなかった説明資料が、予めメールで一斉送信にしておくことで、実際は1ページ分の説明で済むようになったりもしている。

さぞかし世の吃音者たちも、このメールの普及のおかげで救われていることだろうと想像した。


いっそのこと手話だけの世界になればいい
トモキは子供の頃こんな願いを抱いていたことを思い出した。そして大人になった今も、根本的にその考えは変わっていない。
 

いっそのことメールだけの世界になればいい
せめて職場だけでもそうなってもらえないかと切に願っている。


そしてもうひとつ、この時期トモキにとって大きな出来事があった。

去年の春に出会った彼女との交際が実を結び、このたび結婚した。無論、彼女もトモキの吃音に気づいていると思うが、今のところ一度もその話題に触れてきたことはない。


妻に対しては強気な態度を示しているトモキだが、心の中ではプレッシャーを感じていた。

吃音というハンディを持っていることで、これからも仕事を満足に続けていけるのか。妻を養っていけるのか。やがて生まれてくるかもしれない子供まで養っていけるのか。そして、その子供に自分の吃音が伝染しないか……。


子供に自分の吃音が移る。これだけはなんとしてでも阻止しなければならない。オレが通ってきたこの吃音街道、どもりロードは絶対に通してはいけない。

己の命に代えてでもこの障害だけは受け継がせてはいけない。欠陥品は続けて2回も作ってはならない。

もしオレが一緒に生活していることで、子供にそういった兆候が現れそうだと感じたときは、すぐにオレは……家庭から距離を置こう
 

 

社内IT化の流れは、やがて大規模プロジェクト発足にまで及んでいた。このたび全社を通じての大規模社内システムを導入することになり、既にそのプロジェクトは進行していた。

各事業部からはプロジェクトに加わるメンバーが着々と引き抜かれていく。トモキの部署からも優秀な先輩が既に二人引き抜かれていた。
 

そんな中、なんとその触手がトモキに伸びてきた。事業部長の推薦だという。

しかもこのプロジェクトが成功を収めた暁には、トモキにはA事業部の生産管理システムを動かす中心人物としてのポストも用意されているということだった。

これはトモキにとっては千載一遇のチャンスであった。元々トモキは、少なくとも頭自体はそれなりに悪くないことが認められていた。

そして、客先との電話応対など対人的な部分が弱いことを踏まえてのことだとすると、事業部長の眼力もまだまだ老いてないのだと、トモキは客観的に感じた。
 

人生には何年か、あるいは何10年かに一度ビッグウェーブがくるという。ここが自分にとっての勝負どころだと思った。このポストこそ自分が社内ですっぽり納まる場所だと。このプロジェクトは確実にモノにしないといけないと思った。
 

トモキを奮い立たせた理由は他にもあった。先日妻のお腹に赤ちゃんがいることがわかったからだった。まだ妊娠初期でお腹は大きくないが、先日産婦人科のエコーではっきりと小さな塊を確認してきた。出産予定日は来年の7月ということだった。
 

 
ITプロジェクトに異動してからは、とても生きがいを感じて仕事を行えている。電話応対の恐怖に苛まれることはなくなったし、日々行われるシステム設計、運用方法の検討会は、自分の能力を存分に発揮できていることを実感している。事業部から選抜された5、6人のチームメンバーと毎日討論を繰り返し、システムの仕様、運用、方針を取り決めていく。

プロジェクトの終了、いわゆるシステムのリリースは来年の12月末であるため、あと1年以上はこういった業務を行っていけることになる。
 

しかし、このプロジェクトには発足当初より懸念されていることがあった。総メンバー数50名以上、総額5億円とも6億円ともいわれているプロジェクトの規模、およびその作業工数から見積もると、あまりにも期間が短すぎるのだ。

そしてもう一つ。何よりも優秀なメンバーを集めたとはいえ、皆一様にしてITに関しては素人同然であるのが不安視されていた。


「あまりにも無謀な挑戦」
「このプロジェクトはそのうち破綻するのではないか……」
時折このような物騒な噂をどこからともなく小耳に挟むことがある。その裏づけとして、今の時期から既にメンバー全員の月の労働時間が200時間を優に超えている。そしてプロジェクトリーダーからは、「今後はさらに稼動があがってくるからそのつもりでいてくれ」という話まで聞かされている。
 

一方トモキはそんなことはまったく気にしていなかった。電話応対のない、外線で電話をかけることも受けることもない、ストレスを感じない仕事であるのならば、稼動が高くなることはまったく問題なかった。

(次号へ続く)

幸せも束の間……?
 

 

1年半も続けたトレーニングとの決別は素っ気ないものだった。
……こ、こ今回で延長コースを終わりにしようと思います。あとは自分でトトトトレーニングを続けようと思います


院長にはなんの前触れもなく伝えた。

断定的に言おうと思っていたが、心の中にまだ未練があったため、躊躇いがちな言い方をしてしまった。

また、『今後もトレーニングを続ける』という意味合いの言葉を付け足したのは、院長を気遣ったためだった。

治らないからやめる』と言えば、院長は罪の意識を感じるだろう。トモキはそう考えた。

これだけのお金と時間と労力を費やしておいて、院長を気遣うとは自分自身お人好しにも程があると、心の中で苦笑いした。
 

それに対し院長の返事は、至ってサバサバしたものだった。
「あ、それでもいいですよ。そうですね。あとは自分で継続していってもらっても十分でしょうね」

院長は笑顔を作っていたが、とてもよそよそしかった。院長としては、逆によく1年半も続けて忍耐強い人だなという感想を持っていることだろうと想像した。
 

受付でおばちゃんと最後の挨拶を交わした。おばちゃんの初めて会ったときから変わらないふくよかな体型と同様に、1年半たっても吃音は改善されなかった。
 

診療所のドアを開けて、外に出ようとしたとき、院長が笑顔で見送りにきた。
「今後もこのトレーニングを随時取り入れていって、改善されたときは連絡くださいね」
わざとらしく感じたが、トモキは「はいわかりました」と無難に受け答えして扉を閉めた。

これで終わりだった。
 

 

トモキは今回に限っては完敗の感があった。自分が『これでいける』と判断したことが失敗に終わったショックはそれなりに大きかった。
やはり自分の吃音はそう簡単に治るものではなかった。結果的には最悪のオチで幕を閉じることになった。
 

トモキは駅に向かう最中、空虚な気持ちになっていた。それは大学時代に好きな子にフラれたときのような、一種の虚脱感に似ていた。

これから自分はどうしていけばいいのかわからない。

 

吃音に対する正しい理解を世間に広めたい』という願望を心に秘めつつも、ではいったいどうすれば広められるかということになると、なにも案が浮かばない。

心にすっぽりと穴が空いた感じだ。
 

同じ障害をもつ会社のT先輩にも、このトレーニングを紹介することができなかったことも無念だった。

(次号へ続く)

月日は流れ。。。


 

あれから1年半が経った。
トモキは会議が終わるやいなや、まっすぐトイレに向かった。中に入ると、幸いにして『大きい方』は全て空いていた。『小さい方』にも誰もいない。運良く今トイレは無人だった。
 

よし……
トモキは1人そうつぶやくと、一番奥にある『大きい方』に入った。そしてズボンは下ろさずに便座に腰を下ろした。

おしりのポケットに手を突っ込むと、小さな紙袋の感触があった。静かなトイレの中、カサカサという音がトモキの神経を刺激した。誰かが入ってきたとき、この音が聞こえて不審に思われるのを恐れている。

 

紙袋の中を覗くと、錠剤が3粒入っているのが確認できた。
3粒か。そろそろまた補充しておかないとな……

トモキは速やかに1つ取り出すと、口に含みそのまま飲み込んだ。

水を飲んでいないので、食道を通過するときに若干の痛みがあった。しかしトモキはこの痛みには慣れていた。これまでもう何度も行っているからだ。
 

次にトモキは胸ポケットをまさぐった。中には定期券サイズのマザーがいた。

もうだいぶ色あせて、シワも寄り、端っこは擦れてしまっている。そのマザーを携帯端末を持つように両手で握り締めた。
 

……マザー、今月の報告もボロボロだったよ

心の中でマザーに向かってささやく。
……こんなはずじゃないのにね

トモキの目から、涙はでてこない。
……オレのこの吃音、いつになったら治るのかな。……やっぱり治らない? マザーと出会ってから、もうかれこれ1年半も経っているんだね。オレ一体なにやってんだろね
 

さっき飲んだ胃薬が次第に効いてきたのか、お腹が緩くなってきた。トモキは職場での吃音のストレスで胃を痛めていた。ここ半年くらい前から、お約束の人前で吃音を晒して恥をかいた後に、しばしキリキリと痛むようになった。今も恥をかいてきた矢先のことで、痛みの予防として服用した。


今日は毎月1回行われている技術会議の日だった。部署内の技術課のメンバー10人ほどが集まり、各自業務の進捗具合などを報告する。全社技術報告会とは違って小規模ではあるものの、トモキはここでもすっかりどもり癖がついてしまった。

毎回、前日になると発表への恐怖心が押し寄せてきて、胸が苦しくなる。

そして会議当日は、自分の出番を待つ間がさらに恐怖が倍増していき、完全無欠の吃音モードとなる。

マザーの微笑を思い浮かべても効果はない。上司を含め聞いている人たちからは、『しょうがねえなあ』という呆れた表情がはっきり見て取れる。それでいて敢えて誰も指摘してこないことが、かえってトモキにとっては無言の圧力だった。
 

……もう毎日つらいよ。死にたい。まさかこのオレが胃まで壊しちゃうなんてさ。もう心も体もボロボロだ。なんでこうなんだろう。結局治ってないじゃないか。いつもいつもこの吃音はオレの足を引っ張って。なんでオレは、みんなが当たり前にできることができなくてこんな苦労をしなきゃいけなんだ。

しゃべることって、生きていく中で使用頻度が最も高い能力じゃないか。こんなハンディを持たされたオレが社会に放り出されて、健常者と同じ仕事を要求させられる。もうどうすりゃいいんだよ。どうやって生きていけばいいんだ
 

マザーの前でいくら心を打ち明けても、トモキの感情は高ぶってこない。むしろ心は冷めていく。
もうそろそろ……もうそろそろ潮時か。……院長とは……決別するか
 

すると、トイレのドアが開く音がした。誰かが入ってきたようだ。トモキは構わずマザーと向かい合っている。息を潜めてさえいれば、中で何をしているのかわかるはずがない。さっさと用を足して出て行ってくれといったところだ。
しかし、その足音はトモキのいる『大』の方に向かってきて、次の瞬間、隣の個室に入った。そしてズボンを下ろしている音が聞こえてきた。便座に座った気配があった直後、豪快な音がした。
 

ここは一旦オレが出たほうがいいな。物音をたてずにいつまでも中にいると、逆に不審に思われるだろう。

万一『ドアが閉まったまま物音ひとつしない。きっとこの中で誰かがクソしている状態で倒れているんじゃないか』とか余計な心配をされたら、騒ぎになって面倒なことになる。

わざとキバった声とか出して、普通に用を足していることをアピールするか。……いや、駄目だ。たしかにそれでカムフラージュはできるだろうが、それだとマザーに意識がいかなくなってしまう。やはりここは一旦出よう

隣からは目いっぱい力んでいる声が聞こえてきた。トモキはこちら側に臭いが流れてこないうちにと速やかにトイレから脱出した。
 

事務所に戻ったトモキは、机に座るつもりは毛頭なかった。

いつもの通り引き出しから白衣と実験中の化学薬品、そしてノートパソコンを手に取ると、すぐに実験室へ向かった。

午後のこの時間帯は、事務所に外線電話が頻繁に鳴ることをトモキは把握していた。

このようにほとんど日中は事務所におらず、定時後にノコノコ戻ってくるトモキに付いたあだ名は『夜行性ドモちゃん』だった。

はじめは陰で言われていたようだが、いつの間にか自然とトモキの耳に届くようになった。今となっては親しい先輩などからは面と向かって言われている。トモキはもちろん傷ついているが、笑って聞き流すようにしている。
 

 

『ジリ貧』
実験室でパソコンを立ち上げると、なんともなしにこの言葉を入力してしまった。そしてため息をひとつ吐いた。
オレはこの吃音を抱えたまま、こうやってコソコソとした憂鬱な人生を歩んでいくのか。

こんなの本当のオレじゃない……。吃音というだけで、なんでここまで恥ずかしい思いをして生きていかなければならないのか。

このトレーニングを始めてから1年半。結局他にすがるところがなく、だらだらと続けてしまっていた。いったい何回延長コースを使ったんだろう。数えるとぞっとするからやめておこう。

延長コースは半額とはいえ、交通費も含めれば相当の金額を費やしただろうな。それでも、そのうち効果が表れることを期待して、やめることができなかった。せっかくこんなに金と時間と労力を費やしているんだから、これで治さなきゃ丸損になってしまうって。

なんとしてでもこのトレーニングで効果をださなきゃって。これじゃまるで『負けるギャンブル』と同じだよ。次こそこれまでのマイナスを帳消しにするぞって。

こんな打算的で、しかも力んでいる状態じゃ、うまくいかないのも当然だよね。そういえば、オレと同時期にこのトレーニングを始めていた人たちは、どうなっているんだろう。

始めの頃に受付で見かけていた人たちは今は全然見ないけど。無事克服して去っていったのか、挫折してしまったのか。

克服しているといいな。この世から吃音に苦しむ人間が一人でもいなくなってほしいよ。どもる自分が嫌だし、そういう人を見るのも嫌だ。

こんなんで苦しんでいる人間がたくさんいるのって、誰の得にもならないじゃないか。いや、それどころか、社会的、経済的に見てもマイナス以外のなにものでもない
 

トモキはふと、先日親戚の法事に出席したときのことを思いだした。久しぶりに父と兄と再会し、3人で食事しているときのことだった。そこで兄が思いがけない言葉を発した。
「そういえばトモキのどもり、前よりはマシになってきたんじゃない?」
兄はトモキ本人ではなく、父に話しかけた。

兄はなんとも軽々しい口調だった。父は特にそんなことには無関心であるような態度を示していた。

トモキは触れてほしくなかったネタなので黙っていた。
 

久しぶりにトモキのしゃべっている様子を見ての、兄のその感想は妥当だったのだろう。

たしかに幼少期のトモキを知っている人が今のトモキを見れば、症状は軽くなっているように感じるのかもしれない。

しかしこの認識は大きな間違いだった。障害はまったく改善されていないのが真実だった。

トモキは20年以上もの吃音人生から『言葉の言い換え』などの『バレないための小手先技』を巧みに駆使している。

よって、あくまでも表面上に露出する頻度が少なくなっているに過ぎなかった。その証拠に、音読や仕事場での言葉の言い換えができない状況下ではモロに醜い姿を露呈している。
 

トモキが保育園児の頃から、あれだけ「どもるな!」と恫喝したり、顔マネまでしてプレッシャーをかけ続けていた兄。

「ほらまたどもった。小学校に入るまでに治せよ。友達にバカにされるぞ」と、てんで他人事のように、上から目線でトモキを突き放すだけだった父。

トモキにここまで重度の吃音という障害を負わせた張本人たちが、未だその態度を変えることなく無神経に接してくる。
 

なにを他人行儀で。おまえらのせいでオレは……。オレがどれだけ苦悩の日々を送っているのかわからないで、のほほんとしてやがって。おまえらがもっとオレのことを考えて接してくれていたら、今頃オレは……。今頃……オレは……
トモキは内心、腹わたが煮えくり返っていた。

そして、家族に対してこんな感情を抱いてしまう自分自身の邪悪な心に失望した。自分の性格も原因であることはわかっていた。


トモキは心の中でこういった葛藤があって、あのときの兄の発言を素っ気なく聞き流すことしかできなかった。直接責めようとも思わなかった。

兄も父も結局はこのどもりの原理がわかっていないがゆえの行為なのだ。無理もないといえば無理もない話だ。
 

(兄貴だってやっぱり、自分の弟がどもるっていうのは恥ずかしいんだろうな。兄貴自身の世間体を保つ上でも、弟の吃音は治ってほしいと常々思っているんだろう。しかし家族でもこの接し方だからね。世間はもっと冷たいのも仕方がないよな……)
 

無理もない』、『仕方がない』……自分でそう呟いていて、何か心にひっかかるものを感じた。
そうか、世間は知らないんだ。吃音がどういう障害であるかを。

……いや、そうじゃない。世間が知らないのはもっと根本的な話だ。

要するに『吃音が障害である』ということ自体がわかっていないんだ。

だから平気でバカにしたり、偏見の目で見たりする。腕がないとか、車椅子に乗っていて脚が異常に細い人など、視覚的に明らかに健常者でない人に対しては、気持ち悪いくらい遠慮するのに。
多くの吃音者たちが必要以上につらい人生を歩まねばならなくなっているのは、それだ!

 

核心的な部分を悟った瞬間だった。

トモキはうなだれていた頭を起こした。目は前方の空間を見つめている。その延長線上の壁には鈴木京香の水着姿のポスターが貼ってあるが、まったく視界には入らない。
 

……伝えたい
トモキの中に、沸々とした何か熱いものが込み上げてきた。


世間に伝えたい。無理もなくない、仕方もなくない。多くの知識人たちにきちんと理解してもらえば、社会自体がそれ相応の接し方に変わっていくはずだ。

世間だって悪人ばかりじゃない。きっときちんと説明すれば理解してもらえるはず。

そうなれば、少なくともこれまで理不尽に辛い思いをしていた吃音者たちの無念を晴らすことができるのではないか。

そして、もっと吃音者たちが社会で円滑に活躍できる環境が構築されるのではないか。

今でこそニューハーフと呼ばれて社会で普通に活動できるようになった人たちも、一昔前はゲテモノ扱いされていたと聞いたことがある。

身体障害者だって今ではバリアフリーなんて言って、自由に動き回れるように社会が配慮してくれるようになった。……吃音だって……同じだ。同じにしなければならない
 

しかし、ここで当然のことながらの問題がトモキの頭に浮上した。
伝える手段。……どうすれば世の識者たちに効率よく、そして正確に伝えることができるのだろう。

あの院長やその手の専門家の力を借りるか。……いや、たぶん駄目だろう。

オレの行動はやり方によっては彼らの食いぶちを潰すことになるかもしれない。そんな話に彼らが乗るわけがない。

さらに、それだけじゃない。彼らは理論的な観点に従えば、吃音者本人以上に吃音の実態を事細かく、かつ合理的に説明することができるだろう。

しかし、それだけでは世の中の人の心に衝撃を与えること、響かせることはできない。

やはり吃音者本人が自分の身を削ってでも全てをさらけ出して、体で訴えなければ本質的な部分を伝えることはできないだろう。その役はオレがやってもいい。でも、どうすれば……
 

……実験は成功だった。心はここにあらずだったが、体はしっかりと実験の動作を行っていた。顧客からは現行ゴムの振動吸収性を向上してほしいという要求があった。

これまでトモキの上司からは、添加物を微調整することで改善を試みるよう指示があった。

始めそれに従っていたが、思うような効果が得られなかった。そこで、あらかじめ温めておいた案を提案することにした。

それは『思い切って材料自体を変えてみる』という大胆な案だった。トモキの推薦するその材料に置き換えれば材料コストはやや上がってしまうが、顧客が要求している振動吸収性が充分期待できる。強度や耐久性など他物性への影響も許容範囲であることがこれまでのテストから予想できていた。このことをどもりながらも熱く伝えたところ、上司から実験の許可がでた。
実験結果はトモキの予想通りだった。やや強度が低くでたが、十分仕様に耐えうるものだった。さっそく試験報告書にまとめ、上司に報告する準備に取り掛かった。

(次号へ続く)

院長と決別、そして。。。

 

それから数日経った日の社内にて。

トゥルルッ、トゥルルッ、……トゥルルッ、トゥルルッ
静かな事務所内に突如鳴り響く電話の呼び出し音に、トモキはドキリとした。

 

この短いテンポの着信メロディは外線電話であることを意味している。

トモキは恐る恐る周りを見渡した。わかってはいたが、やはり事務所内には自分以外誰もいなかった。

トモキは迷った。電話にでるか、このままとぼけて居留守を使うか。
 

今日の定時後この技術課の事務所で残っているのは、トモキと直属の技術課長の2人だけだった。そして技術課長は先ほど製造部長に呼ばれて製造現場に走っていったところだった。
 

トモキは電話応対に対する恐怖心が依然として消えていなかった。

だから基本的に、日中はできる限り事務所でのデスクワークを避け、実験室にいるようにしている。

そして比較的電話がこなくなる定時間際に自分の机に戻ってくる。

 

基本的に電話応対は専属事務の女性がしてくれるが、たまに着信が重なったり、女性がたまたま席を外したときに着信されることがある。そのときは、若手社員が率先して応対するのが暗黙の了解になっているため、トモキにとっては気が気でないものだった。

 

事務所はたいがい静かであるため、誰かが電話をしていると、その話し声は事務所の隅々にまで響き渡る。

これまでも運悪くそんな状況下で電話応対したことがあった。無論どもりまくり、逃げ出したいほど恥ずかしい思いをしてきた。
 

製造現場に異動になれば電話応対などなく、ストレスのない気楽な生活になるだろう。

しかし、それでいいのかという思いが強かった。
このオレという人財が製造現場に回ることは会社にとってとてももったいないことだ。ただ言われたとおりに動くだけならサルでもできる。会社はそんな人間をわざわざ大卒から採用するわけないだろ。新しい利益を生み出してもらうためにオレを採用したんだろ。だったら、オレはこの居場所にいた方がいい。この吃音さえなければ、オレには輝かしい出世の道が待っているのだから
トモキは出世欲が強かった。それなりに自信もあった。

トゥルルッ、トゥルルッ、……トゥルルッ、トゥルルッ
我に返ると、まだ呼び出し音は鳴っていた。
シカトしても誰にもばれることはない。このまま放っておくか。……いや、待てよ。誰もいないということは逆に電話応対に慣れるためのいい機会かもしれない。実践練習だ。仮にどもってしまっても、周りで聞いている人がいない分、気が楽だろう。……よし、ここは出てみるか


トモキは受話器に手を伸ばした。そして受話器をとる間際、点滅しているディスプレイの表示が偶然目に映った。そこにはうちの事業部にとって一番重要な取引先の会社名が表示されていた。
 

……っっ………………っっ……っ………………
受話器を握ったトモキは固まってしまった。いや、固まったのは声だけだった。体は随伴運動を活発に行っている。

目は猛烈にパチパチし、口は震え、顔は醜く歪んでいる。

頬とみぞおちが硬直していて、声がまったくでてくれない。
「……もしもし?」
相手先の声は、わりと若そうな男性のようだ。
 

……っ………………え、えっとっ………………ええええっと…………
「……もしもし? X社さんですか?」


…………んっ…………んんん……っ…………
「はい? もしもし? X社さんですか?」
 

…………はああ、はあ、はあああはい。……す、すすすすそうですがっ
頭の中では『はい。失礼いたしました。X社です』という台詞を流暢に言うつもりだった。
 

「ごほん、X社のA事業部さんでよろしいですか?」
…………っっ…………んんん……あっ……ああ……あの、ああの……


「……もしもしっ!? もしもしっ!?」
先方はかなり苛立ってきたようだ。トモキは先方に対して罪悪感でいっぱいだ。こんなことなら、やっぱり出なければよかったと悔いたが、後の祭りだった。
 

……あ…………ああの……。……あの、あのあの…………
「……………………」
ついに先方も黙りだしてしまった。

きっと何事かと驚いていることだろう。トモキは益々焦った。そして焦れば焦るほど声がでてくれない。

背中と脇の下は既に脂汗でびっしょりだ。いつぞや出前を頼んだときのことを思い出した。

あのときと同じ、いつ切られてもおかしくない状態だと思った。

先方様はいつまで耐えてくれるか。いや、むしろ、いっそのことトモキの方が切りたい気分だった。
 

…………もしもし。X社です
ようやくはじめの言葉がでてくれた。

 

「だからA事業部ですか!?」
先方は怒っていた。会社名は既にわかったから事業部について確認したかったようだ。


すーそそそそそうです。はい

動揺したトモキはどもった上に、声まで裏返ってしまった。


「S社の佐藤ですが、技術課長はいますか?」
…………あ、あ、あの……あの、あの…………あの、あの…………
「……………………」
……あのあの…………あ、あ……あの…………。ご、ごほん、……あの、あの……
もう泣きたい気持ちだった。


「ああ、もういいです。明日またかけ直しますので」
ブツっと切れた。

『はい、おります。それではただ今呼び出しますので、少々お待ちください』

という台詞が、トモキの頭の中で何度も反芻している。


トモキは落ち込んだ。まさかここまでひどい結果を招くとは思わなかった。

これまで何度かタイミング悪く電話応対させられたときも、どもって恥ずかしい思いをしたが、『目的の人に取り次ぐ』という最低限の仕事だけはなんとか果たせていた。

今回も、どもることは回避できなくても『今後のためのよい練習になった』といった、前向きな結果になることをイメージしていた。
 

佐藤さんに申し訳ない。すいません佐藤さん、すいません。

……なんでオレは人を不愉快にさせてしまうんだろう。そんなつもりは全然ないのに。

声さえ出てくれれば、きちんと円滑に応対できるのに。技術課長や会社に対しても申し訳ない思いでいっぱいだ。

お得意先からの電話であんな不始末をおかしてしまうんだもんな。オレってダメ人間だな。劣等生もいいところだ。生きている価値すらないかもしれない。

今日はもう帰ろう。もうすぐ技術課長がこっちに戻ってくるかもしれないし。顔を合わせるのがなんだか怖い
トモキは肩を落としたまま事務所を後にした。
 


吃音は症状の分類として『連発性』と『難発性』に分かれるということを、以前院長は言っていた。

前者は「かっかっかっカリスマ」となってしまう症状。

後者は「………………っカリスマ」と、言葉が出てくるまでに時間がかかってしまう症状。


電話のときに相手先をより困らせてしまうのは、言うまでもなく難発性の方だ。

電話は先方の様子が見えないため、沈黙が続くと相手方としては『いったいどうしているのか? なぜ黙っているのか?』という苛立ちを抱いてしまう。

 

そして、トモキは先方の苛立ちを想像することでさらに焦ってしまい、『えええっと、えっと』とか『あの、あの、あの』とか変な繋ぎ言葉を発してしまうため、だらしない応対をする人間だと思われてしまう。まさに負のスパイラルだった。


それに比べて連発性は、一発でどもる奴だとバレてしまうデメリットはあるが、とりあえず何か話そうと一生懸命になっている誠意は相手に分かってもらえる。

よって、相手をイライラさせることはあれども、電話を切られたり、後からクレームをつけられたりといったトラブルになる可能性はわりと低い。

せいぜい『あの部署には噛み噛みの社員がいる』と笑いの種にされる程度で済む。


トモキの吃音の症状は、どちらかというと難発性の方が強い傾向があると自覚している。このことからも電話応対は、特に苦手意識が強い。


今回この1件があってから本当に電話にでることが恐怖で恐怖で仕方なくなってしまった。

またやらかすんじゃないか、またやらかしたらどうしようという、悪い方にしかイメージできなくなってしまった。

どもって頭の中が真っ白になっているときは、マザーのことなど想像できるわけもなかった。

もっとも想像できたとしても現時点では効果は期待できない。


トレーニングの日程としては、今週末の診療が最終日となる。

……継続するか、院長と縁を切るか。トモキは決断しなければならない状況に立たされていた。    

(次号へ続く)

トモキの決断とは。。。
 

3ヶ月コースもあっという間に2ヶ月が過ぎた。その間、トモキは毎週休むことなく診療所を訪れていた。

 

日常生活の中でも勿論トレーニングを欠かしていなかった。外にでているときでも、ちょっとした人目のないタイミングを見計らっては、定期入れからマザーを取り出して見つめていた。

家に帰ってきてからも、寝る前に必ずカセットテープのおじさんの声を聞いて、その後マザーと見つめ合っていた。
 

当初の院長の説明では、およそ2ヶ月が過ぎる頃にはマザーとは既に太い絆が形成できて、声が普通レベルにでるようになっているということだった。
 

「3ヶ月コースというのが短いと言われる人もいるのですが、このトレーニングを普通に行えば、1~2ヶ月ではっきりとした効果が現れてくるのが通例です。ですので、残りの1ヶ月というのは、あくまでも予備の期間というか、仕上げの期間といいますかね。

毎週この診療所にお越し頂いたときも、トレーニングはせずに、これからの希望などのお話をして盛り上がって帰って頂くというケースも多いですよ(笑)。司会の仕事をするとか、営業になるとか。中にはラジオのDJに転職できたという方もいましたね」


トレーニングを始めた頃にこの話を聞かされたときのことを、トモキは思い出していた。院長のこの言葉にとても胸が高鳴ったのを覚えている。

 

(2ヶ月後にはオレもそうなっているんだ!)
今振り返ってみると、希望に満ちていた自分が懐かしく感じた。あのときが何年も前のことのような気がした。


そして今日はその2ヶ月と数日が過ぎた日だった。トモキは診療所で院長と向かい合っている。これからスクリーンのあるソファに座って、いつものトレーニングを行うところだ。
 

院長はいつものようにトモキをソファへ促した。しかし、今日のトモキはいったん拒んだ。

予め聞いてみたいことがあるからだ。

今日は診療所を訪れた際、是が非でも聞こうと心に決めていた。それを確かめないことには、スクリーンのマザーを見てもきっと……。トモキは院長に問いかけた。
 

えっと、すーすいません。ちちちょっときき聞きたいことがあるんですけど……
「んん? なにかな?」
院長はトモキの空気をなんとなく感じ取ったのか、顔は笑顔のままだが、若干狼狽の色を見せた。


い、以前、こここのトレーニングを始めた頃、2ヶ月もすればだいぶ声がでるようになるって言われたと思うんですけど。まだ、なかなか効果が現れてないですよね。こここのまま続けても大丈夫かなって思って……
この『大丈夫かなって』というところが、今回の一番のポイントだった。絶望となるのか、僅かに希望が残るのか。

 

トモキがしゃべっている間、院長はうんうんと頷いて聞いていた。しかし横を向いて目をつぶっていたのが、いつもの院長らしからぬ仕草だと感じた。

いつもなら、人の話を聞くときは自信に満ちた表情で、話し手の顔をじっと見つめて聞いてくれていたのに。

あたかも狼狽を隠そうという心理が働いているのではないかと想像してみた。
 

トモキがしゃべり終えると、院長は細い目を開けて一呼吸置いた。顔の表面には油が少し浮いていた。

そしておもむろに口を開いた。その際、口の端が少し吊り上った。これも院長が見せる初めての表情だった。
 

「んー、山中くんの場合たしかに効果の現れが少し遅いかもしれませんね。でも個人差があるので、ゆっくり治っていく人も中にはいます。元々この3ヶ月コースの他にも6ヶ月コース、1年コースもありますから。

山中くんの場合、長期コースを選択した方がよかったかもしれないね。うん、たしかに3ヶ月では足りなかったかもしれないね。

一応延長コースというのがあって、その際はこれまでのコース料金の半額で継続できます。

あ、そういえば、初めてスクリーンでマザーと対面したときのことを覚えてますよね。あのぐっとこみ上げて来る感覚。あれがもう一度沸き起こってくれば、一気に効果が現れてくると思いますよ」
 

院長の心としては、とりあえず継続した方がよいということなのだと受け取った。

あくまでも断定的な言い回しは避けているように感じた。

『こみ上げてくる感覚がもう一度沸き起こってくれば……』という、条件的な言い回しで切り抜けたのだと分析した。
 

とりあえず、質問については答えてもらったので、トモキは引き続きトレーニングを開始することにした。この話のおかげでマザーと向き合う時間が少し削られてしまったが、あまり残念だとは思わなかった。
 

今日もこうしてスクリーン上のマザーと向き合っていても大して感じるものはない。

今回も院長の視線が気になり、いまいちマザーに集中できないでいる。思い切ってそのことを打ち明けてみようかとこれまで何度も考えたが、なんとなくの言いにくさがあって躊躇っていた。

また、はっきりいってここで行っているトレーニングは家でもできる。家に帰れば誰にも見られないところでできる。だから、ここでのトレーニングはそういうものだと諦めて、家でのトレーニングに賭けようという思いがあった。

トモキにはそういう変にお人好しなところがあった。
 

たしかに毎週電車で片道1時間かけて通っているトレーニングは家でもできることだった。

A4の紙に印刷したマザーも部屋の壁に貼ってある。

おじさんのカセットテープだってある。

家と診療所のトレーニングで異なるのは、大自然の景色を数分間眺めることと、マザーがA4サイズではなく40インチのスクリーン上に映し出されることくらいだ。

あとは、カウンセリングという名目で院長とちょっとした会話をするが、最近は毎回同じようなアドバイスしか聞けなくなり、正直聞き飽きてきた面がある。

しかも、かつてはあんなに滑らかだった院長の舌も、最近はどことなく精彩を欠いた感がある。おそらくトモキに思うような改善が見られないからではないか。
 

今日もなんの改善の兆しが見られることなく、診察は終わった。

受付では、相変わらずおばさんの陽気な笑顔は健在だった。おばさんの仕事は笑顔で接することなのだろう。トモキは来週の予約を済ませ、診療所を後にした。
 

 

家路に向かう中、トモキの背中は丸まっていた。
オレはやはり治らないのか……

これは最近になって心の中に何度か浮かんでいた言葉だ。これまでは浮かぶたびに、物騒なのでかき消していた。しかし、今それが思わず口からこぼれてしまった。


トモキは別にこのトレーニングを信用していないわけではなかった。むしろ、このトレーニングは自分にとって的を射たものであるとさえ思っている。
自分がもっとマザーに心を開けるようになれば……
なぜ心を開けないのか、どうすれば開けるようになるのかが、トモキには分からなかった。
 

(次号へ続く)

このあと、追い打ちをかける絶望的なことが。


 

第1回目の診察から週が明けた月曜日は、会社の全社技術報告会だった。

これは全事業部の技術課に属している者一同が本社に集まり、日頃の蓄積した技術を共有しようという目的で行われる発表会のこと。

 

事業部は全部で4つあり、毎月、各事業部から1名ずつ選出されて行われる。

本人が行っている業務の中から得た技術知識やノウハウをプレゼンテーションすることになっている。

もちろんこの報告内容が技術者の査定・評価の一指標になっており、担当上司はおろか取締役クラスが傍聴にくることもある。技術課の大半の社員にとっては非常に気の重い会議だった。


新入社員は報告者に選抜されることはないが、2年目からは順番が割り振られる。トモキとしてはそれまでには確実に吃音を治しておきたいところだ。
 

今日は7月度の全社技術報告会の日だ。

ここでトモキにとってはとても衝撃的なことが起こった。トモキの属するA事業部の先輩が報告を終え、次のB事業部のT先輩の報告が始まったときのことだった。

ステージに立ったT先輩がなかなか報告を始めないのだ。プロジェクターのスクリーンには既に発表用のタイトルが映し出されている。

トモキはもしやと思い、T先輩を凝視した。心の中では『そうであってほしくない』と願った。


次の瞬間、T先輩の顔が大きく歪んだ。口が小刻みに痙攣し、目をパチパチと瞬き始めた。

続いて……信じたくないが、……聞きたくもないが、……T先輩の声が聞こえてきた。

「……かっかっかっかっカーボン充填に伴う……」
 

恐れていたとおりT先輩は吃音者だった。しかも、聞いている限り、その障害の程度としてはかなりのものであることがわかった。

トモキが吃音モード全開のときと同レベルで、随伴運動もほとんど同じだった。

ひとつ違うところといえば、T先輩は左手に拳を作り、しきりに小さく振っていた。その反動で声を発しようとしているようだ。それでもなかなか声がでてくれないので、結果、左手を何度もぶんぶんと振る羽目になっていた。
 

トモキはとても見ていられなかった。自分がどもっているときに鏡を見せられているような感覚になり、目を背けた。

『ほら、おまえはこんなに醜い姿でどもっているんだぞ』

とあからさまに突きつけられているかのようだ。ドッペルゲンガーのごとく。

 

さらに、周りで聞いている人たちが、『山中と同じだ』とか心の中で思っているだろうと想像して、無言の圧力を感じた。

トモキはこの会議が終わるまで、他人と目を合わせないようにずっと俯いていた。

どもっているのは自分ではないのに、なぜかとっても恥ずかしい気持ちでいっぱいだった。

自分が今ここに座っていることを、自分がここに存在していることを誰にも気づいてほしくないと思った。
 

会議が終わり、みなバラバラに解散しているとき、トモキはふと気になったので、T先輩の方に目を向けた。同僚と思われる人がT先輩に近づいていくのが見えた。そして、冷ややかな言い方ではあったが、一応「おつかれさん」という労いの言葉をかけていた。T先輩は半泣きではにかんでいるような、切ない表情をしていた。トモキはT先輩の心の中が痛いほどわかり、涙が出そうになった。
 

T先輩もきっとこれまで吃音のおかげで辛い思いをしてきているんだろうな。年齢は30代中頃だろう。報告した内容については質が高いものだった。それでいてまだ係長にもなっていないってことは、吃音のおかげで出世の道が遅れているんだろう。可哀想に。

もし……、もしオレがこのトレーニングで吃音を治すことができたら、T先輩に知らせてあげよう。

『ボクもつい最近まで吃音でとても辛い思いをしてきましたが、この診療所のトレーニングで克服することができました。よかったら試してみませんか』って


トモキの中には次第に、『吃音で苦しむ人間がこの世から一人でもいなくなってほしい』と切に願う心が芽生えてきていた。

(次号へ続く)
トレーニングを始めて2ヶ月。果たしてその成果は・・・