ここ10年、3月11日の14時46分には
東の方向へ指を組み黙禱していたのだが
今年は忘れていたわけではないけれど
頭の隅に押しやられていた。
3月8日、お祭り好きで常に騒々しく、
片時もおとなしくしていなかった父が
どうした気まぐれか、静かに人生を閉じた。
収まらぬ疫病禍の中では
父は寂しがるであろうとわかっていても
10人ばかりの近親でひっそりと
見送る以外なかった。
(通夜式の後家族だけ棺と同じ部屋に
床をとったが、日頃は枕が変わると眠れない
母と私があっさりと眠り込んだあと、
棺からは生前と変わらないいびきが
聞こえていたそうだ。)
3月11日、告別式を終えて荼毘に付した。
棺が竈の中に消えた時、
心優しい義妹がはらはらと流した涙が
ろうそくの炎を映して光って落ちた。
そういえば父は独善的で尊大で幼稚で
自己中心的、一言で言うならウザい奴だが
妙に運の強いところがあった。
こんなきれいな涙で送ってもらえるなら
十分にすぎた幸運だろう。
声も態度も大きいが身体は小柄だった父が
さらに小さく、手の中に入る白いポットに収まった。
火葬場を後にして乗り込んだタクシーの
背もたれについている小さなモニターに
映った時刻は 14:46 だった。
両手は遺影でふさがり東がどちらかも
わからなかったが、頭をたれ黙禱した。
この10年いつも思い出していた
畑や民家を飲み込みながら遡上する川津波や
雪のちらつく瓦礫の中を家族を探す人たちではなく、
小さな白い骨壺と額に入った遺影が
闇の中に延々と2万柱分並んでいる光景が
頭に浮かんでいた。