お盆にお墓参りに行けなかったからかな…
苦しくて苦しくて目が覚めた…

闘病中、痛みが激し過ぎて、モルヒネ投与で意識が朦朧としてる中、
主治医は果たしてどこまで母に癌の進行状況を宣告したのかはいまだに分かりません。

私には、もう多発性骨転移で全身に転移してることは説明されました。それも私が説明を求めたからです。
恐らく母が、私への説明は止めていたのでしょう。

毎日会社を18時頃に帰らせてもらって、
病院に行っての繰り返しの毎日でした。

近過ぎてケンカをすることもあったし、
こんなことは思っては行けないけど、
いつまで続くか分からない中で
相談する家族もいなくて渡しが動かなきゃって思いで動いてた。

でも何より母に1日も長く生きて欲しかった。
母のいない生活など考えられなかった。

世界で一番大切な人だった。

父も母も世界で一番大切な人だった。
どんなに苦労しても母の命が最優先だった。

だから、私は簡単に世界で一番大切な人なんて余程の覚悟ができてないと言わない。

私自身不安で苦しくて辛くて、でも辛いって言うのも辛かった。
だから平気な振りしてた。
課長と部長と支店長にしか言わなかった。

母は担当医の先生が来る前の明朝に亡くなった。

あの日の朝は父が亡くなった日の朝と同じように太陽が眩しくかった。

親戚がたわいのない話で笑ってる姿が、全く腹立たしくなくて、羨ましかった。

私もその立場にいられたら良かったのにって…

でも現実は過酷で母はもうこの世にいなかった。

前にも書いたけど、
亡くなる直前聴力だけは残ると調べてたから、
世界で一番愛してるよ。
お母さんの人生は幸せだった?
私はお母さんの子供で最高に幸せだったって言えた。

慌ただしく涙を拭いながらも朝から母のベッド周りの荷物を整理して霊柩車が来るのを待った。

それから私は人生で初めて喪主をした。

慌ただしくて、悲しんでる暇は正直あの二日間はなかったけど、ふと時間ができると辛くて辛くて
私が死ねば良かったのにって泣いた。

町を歩いてても一人だと自然と涙が出てきた。

109日間の闘病生活に終止符を打った母は
沢山の人に見守られて旅立った。

世界一愛してた人。

そして多分世界一無償て愛してくれてた人。

あの時から時が止まってしまったのかな?

あれから随分経つのにね。

いい加減うつ病は卒業したい。

母は昔の考えの人でせん妄(幻覚、幻聴)が出てるのに、一切精神科医には会おうとしなかった。

薬を飲まされるだけだって…

今の私見てどう思ってるかな…

ごめんね…


今日は数年ぶりに乳癌健診して来ました。
女性の皆さん早期発見早期治療で今は切除手術しなくても住みます。
是非定期的に検査して見てください。