元々幼い頃から霊現象というものは遭遇してきましたが、それらは10代になっても変わりありませんでした。

俗にいう金縛りというものもこの頃に経験しましたが、後にも先にもあのような経験はこの一度だけです。

その日は夜になっても暑く、とても喉が渇いてしまい、近くの自動販売機にまで飲み物を買いに行きました。

すると、私の前をおかしな歩き方をする男性が歩いていたのです。

妙な歩き方をする方だなと不思議に思っているとその男性は道路を右に曲がっていきました。

自動販売機は同じ方面にある為、私も右に曲がるとその男性は何故かもう姿がなくなっていたのです。

「おかしいな。今いたのに、もういないなんて。」と嫌な感じはしたのですが、私の目には生きている人間と変わらない姿形がはっきりと映っていたのです。

ですから、それが霊だとは思ってもいませんでした。

そのまま自動販売機で飲み物を買い、自宅に戻るとその晩は何事もなく眠りにつきました。

しかし、ちょうど丑三つ刻と言われる時間帯に何故か体が重苦しくなり目を開けると、見知らぬ男性が私の上にいたのです。

それもすごい形相で刃物を持ち、私を殺してやるというのです。

体を動かしようにも動かすことが出来ない、声も出せない、これが金縛りというものなのかとその時初めて知りましたが、そのうち疲れ果て気を失うように眠ってしまっていたようです。

朝になって、やっと昨日見た男性があの金縛りに出てきた霊であったということに気づきましたが、後にも先にもこのような金縛り経験はこの一度だけでした。

ですから、意外と金縛りという経験は私自身思う程ないのです。

窓に手形がびたっとついているとか誰かが歩いている音とか、ドアを開け閉めする音などは日常茶飯事にありましたし、武士の霊や戦死者の霊を見ることも日常的にありました。

もちろん亡くなった身内の霊もあります。

しかし、霊だろうとあの当時の私自身は生きている人間と変わらない姿で見えていたので、区別がわからない部分はあったのです。


このように10代になっても、霊現象というものは変わらぬままでした。

しかし、私が二十歳になったのを境に状況は一変にして変わっていってしまったのです。





私自身には学生の頃から両親公認の仲で交際していた男性がいました。

とても優しく穏やかな人で、共に将来も真剣に考えていました。

しかし、私自身が二十歳を迎えた年に、彼は不運にも突然の事故によってこの世を旅立つことになってしまいました。

くしくも彼が旅立ったのは桜の季節であり春。
私の誕生日目前だったのです。




春生まれの私は桜がとても好きですが、当時は春の季節が訪れる度に、桜を見るのも春の陽気を感じるのも悲しいものでした。

何故自分がこのような目に遭うのか、ただただ絶望感と無力感だけが襲っていたものです。

人間というのは不思議なもので、亡くなった直後というのは涙ひとつすら出ません。

突然ということもあり、事態を理解出来ないからです。

しかし、遺体と対面した時に初めて「死」が事実であるということがわかり、現実を突きつけられ涙が出てくるのです。

それからが深い絶望感と無力感に苛まれていきます。

わかってはいても、そう簡単に現実を受け入れられないものなのです。

どんなに神仏を信仰していたってこんな不幸なことがあるではないか、そう思ったこともあります。
(今思えば、信仰の意味すら理解しておらず大変失礼なことを思ってしまったと思います。)

それからというもの塞ぎ込む日が続いていくのですが、ある時を境に亡くなった彼が頻繁に傍にいるのが感じられるようになったのです。

彼の歩いている音が廊下から聞こえたり、彼の匂いがしたり、、、

しまいには何気なく家族を撮った写真に写っていたりと、母も霊感が強い為、同じ現象を感じていました。

すると、母の姉である伯母が心配してくださって私に連絡してきたのです。

「突然のことだったから、まだいくべき所に行けてないのでは。あなたへの未練の思いもあるだろうし、可哀想だけど故人の為に成仏を願っていくべき所に行かせてあげないと。」と、、、

成仏?それって一体どういうことなのか?

情けないことに、それまでの私は身近に信仰というものがあっても、真に神仏を信仰していたとは呼べないので(神様はいると思っていましたが、生まれながらそういう家柄だったので、ただ同じように手を袷ていた感覚に過ぎなかった為。)、そんな言葉すらわからない部分があったのです。

霊現象に遭っても、そんな知識もありませんでしたし、深く考えたこともありません。

むしろ心霊という世界になると、いかにも怪しい霊能者が、、というイメージしかありませんでしたから、そういう世界は…と気乗りしなかったのです。

しかし、伯母に言われるがまま縁戚者のお宅に向かうこととなりました。

この縁戚者宅にも代々ご神仏が祀られており、そこには拝殿があり、遠方からもお詣りに来られる方が沢山いたのです。

当時80歳のおばあさまがご神仏に仕えていたのですが、あらゆる人に悩みを相談されてはご神仏にお伺い立てをし、お答えしていたりしていました。

もちろん霊障が原因である場合は浄霊供養も行なったりと、とにかく連日の相談者に多忙を極めていたのです。

元々そのようなことを行なっているのは知っていましたが、我が自宅にもご神仏を代々お祀りさせていただいていましたので、そんなに伺うことはありませんでした。

拝殿に入るなり、背筋がピンとなる思いがする程にご神気を感じたのですが、正直この時点でも半信半疑の部分がありました。

しかし、伯母から彼の幸せの為に浄霊供養をさせていただきなさいと言われ、訳もわからぬまま供養を始めさせてもらったのです。

だいたい30分くらいでしょうか、ご神仏が祀られているお社に向き合う形で、拝殿にて般若心経をあげさせていただきました。

今でも覚えているのは、お経をあげている最中に何とも言い難い程に体の上半身がポカポカしてきて、清々しくもなるのです。

そして、その後は彼なのか無性に涙がボロボロと出てくるのです。

もちろん私の感情ではありませんし、私が泣きたくて泣いてる訳でもありません。

これが俗にいう「憑依状態」の時です。

この時初めて表面化したことにより、こんなことが本当に現実的にあるのだと知ったのです。

当時は、自分自身が霊媒体質であるとは思ってもいませんでしたし、けれども今振り返れば自分自身が気づいていないだけで昔からもあったのだと思っています。

そして、しばらくの間私は彼の浄化を願って、供養を続けさせていただきました。

しかし、その際におばあさまに言われたことがあります。
それは「すべて他力本願でいてはならない。一番は自分自身の心を改めていくこと。その改心なくしてご神仏にも届くはずがない。」と厳しく諭されたのです。

確かにあの当時は、彼を亡くしてしまった喪失感と絶望感で、自分はなんて不幸なのだろうと暗い心でいっぱいでした。

そんな私であるから、逆に彼の浄化の妨げになっていたということをおばあさまは見抜いていたのでしょう。

また若さゆえに未熟な部分も沢山あったのだと思います。

始めは半信半疑でしたが、自分自身が体感することによって信じられるようにもなり、いつしか自分自身の未熟な部分も見つめられるようになっていきました。

そして、ある程度の日数が経つとおばあさまがご神仏にお伺いしてくださり、彼は無事成仏しましたよと仰ってくださったのです。

本当にその日を境に、もう彼が頻繁に現れることはなくなっていきました。





                                         次回に続きます。