●女性の修行者の問題について
 
 次に、女性の修行者の問題について述べたいと思います。
 
 女性の特性として「依存性」があると思いますが、教団では、女性はグルにのみ愛著することが許され、グル以外の異性に心奪われることは修行の大きな障害だといわれていましたので、グルへの愛著と依存が深まっていきました。
 
 具体的には、完全な存在であるグルに愛著し、グルと合一することができれば、グルの汚れなき広大な空にとけこみ、自身の汚れは浄化されると説かれました。
 
 ですから、女性の弟子は、常にグルを観想(イメージ)し続けることが大切でした。具体的には、24時間観想し続けられれば成就するといわれていましたので、信徒といえども、皆、麻原を強く観想していました。
 
 そして、これと共に、私見をいれずに、グルの意思に従うのは修行の大きなポイントでした。
 
 しかし、この無思考にグルに従うというのが、自分で考えられない体質を作っていったと思います。
 
 自分を含めたサマナ(出家者)の傾向を見ますと、自分で考えないで上に聞いたり、最終的な責任を取りたがらなかったり、自分で考えて行動するのが下手(苦手)な傾向があると感じます。
 
 もともとそうだったというよりは、長年の修習によって(考えないで指示を待つのは)楽な面もあり、次第にそういう傾向が根付いてしまったのだと思います。
 
 グルの意思として、私見を入れないのは、帰依の名のもとに自分のプライドは満たしながら、他への依存を強め、思考の訓練ができない傾向を作ってしまいます。
 
 この傾向については、新団体となったひかりの輪の中でも、特に注意していこうと思います。
 
 
 
●狂気の集中修行への参加:特別な体験をして、ラージャヨーガの成就と認められたこと
 
 92年のインド巡礼ツアーの後、年末年始にかけて、狂気の集中修行が行われることが決まりました。
 
 当時の私は、教団が説く解脱・悟りを強く求めていましたので、この機会に参加したいと思いましたが、肉体的に非常に厳しいもので、躊躇していると、女性の正悟師(三段階目の成就ステージへの尊称)に進められたり、麻原からの異例の個人指導で、支部には通わず、自宅でツァンダリーの修行を毎日3時間やるようにといわれました。
 
 当時の私にとっては、このような特別な扱いが、自己のプライド・優位性を刺激していたように思います。
 
 参加に際しては、年末年始の最も店が忙しい時に10日間という長期間留守にするため、夫からは激しく批判され、何度も迷ったのですが、師の説得もあり、後ろ髪を引かれる思いで参加することになりました。
 
 修行は支部でのコースとは違い、格段に厳しく、蓮華座は経行(野外を修行しながら歩く修行)以外は外さないという指導でした。蓮華座の激痛に苦しみ、何度も外すのですが、そのたび竹刀で床を叩かれたり、叱咤の声が飛んできます。
 
 今思えば、この修行は、深く潜在意識に突っ込むため、人によっては幻覚を見たり、強い煩悩に振り回されてしまう場合もあって、危険な側面があります。
 
 私は、かなり苦しみましたが、瞑想中に、教団が説く「三グナ」と呼ばれるものを霊視したと思った体験や、「究竟」と呼ばれる、意識をぼーっと広げていく瞑想の時間には、ヨーガで「クンダリニーの本覚醒」と思われる体験して、座っていても体が後ろに飛ばされるほどの霊的なエネルギーの上昇を体験するなどしました。
 
 こうして、10日が終わり、体験を書いて提出すると、一部の人が麻原に呼ばれて状態を確認されました。私も呼ばれましたが、若干体験が足りないということで、他2名と共に、サマナの修行場である第二サティアンで、師と一緒に修行をすることになりました。
 
 そこでの修行はそれまでの10日間とは比べ物にならないほど厳しいものでした。それは、教団でいう成就ができるかどうかというものだからでしたが、蓮華座は一瞬も外すことができないほどの徹底した指導でした。そして、無理な蓮華座のために、立つこともやっとで、杖や手すりにつかまらないと歩けないようになってしまいました。
 
 延ばしの3日間の最終日、蓮華座の苦しみに泣いていた私は、グルに(自分の身体を)供養しよう(供養するつもりになろう)と思い、自分の意識・気持ちをチェンジさせたのですが、その瞬間に、蓮華座の痛みが消えるという、変化を体験しました。
 
 この時の体験が衝撃的だったので、当時の私は、この体験について、グルと意識を導通させることによって、別の世界に意識がいざなわれて、同時にカルマが落ちて痛みがなくなったものだと解釈しました。
 
 しかし、今思えば、客観的には、これが、麻原の力という証明はなく、供養と思うことで、自分の肉体に対する執着を放棄したことによって、状態が変化したという解釈ができますから、当時の私は、冷静さを失っていたとうことができると思います。
 
 そして、まさにその時、その修行は終わりになり、すぐに麻原に呼ばれて自分の体験を聞かれました。それに答えると、麻原に、「ラージャヨーガの成就である」と告げられました。
 
 この時の修行は、ラージャヨーガの成就者が8名も出た異例のことで、次の夏のセミナーではもっと多くの成就者が出ると期待されていました。しかし、狂気の集中修行は二度と行われることはありませんでした。それは92年から本格化したヴァジラヤーナ活動に集中するためだったようです。
 
 
●家族の反対の中で出家へ 
 
 成就後、念願だった出家の許可がでましたが、夫との仲はますます悪化しました。そこでは麻原から、これも異例な、今のままの生活スタイルのままでサマナとして認める、とまでいわれましたが、夫はそれを拒否し実現しませんでした。
 
 離婚して出家するか、在家のままでいるかの選択を迫られ、私は親族や知人の非難をあびつつ、出家の道を選びました。その際は、支部の師の介入もありましたが、当時の私は、私の出家が、麻原の意思であるなら、なんとしてでも出家しなければならないと考えてしまう意識状態でした。現に、私の両親とは口論になるなど、非常に険悪な状態になりました。
 
 家族の反対が激しかったため、私は出家までしなくても在家でいればよいかもしれない、と悩みました。しかし、教団では、出家を阻止すると悪しきカルマになり、出家して成就すれば、自分の親を含めて七代前までの先祖にその功徳が返ると説かれていましたので、成就をめざし出家を決めました。
 
 教団の出家にまつわる話はいくつも聞きましたが、麻原に出家といわれ、一日で家財道具を全部運び出して(教団への布施)出家したり、出家と告げずに姿を消してしまったり、周りをだまして未成年を出家させるということもあったと聞いています。
 
 それらは美談として語られていましたが、家族と納得するまで話し合わなかったり、強引なやり方や騙して出家させるのは、周りの理解を得られないだけでなく、社会問題として取り上げられるまでになりました。
 
 オウム真理教の被害者の会との激しい確執や子供を取り返そうとする親とのいさかいは良くあったようですし、教団は、現世捨断として親族等との連絡は一定の成就までは原則として一切禁止でしたから、周りの目を盗んで親に連絡を取るサマナもいました。
 
 
 私の双方の家族は、95年事件以降、嫌がらせをされたり、数々の中傷と苦痛を受けたと聞きました。このような方法では、皆に傷を残し、社会からは危険な団体として、ますます理解されない要因を作ります。自分たちも社会の一員であることを忘れることなく、周りとの融和、調和をとりつつ開かれた団体を作らなければならないと思います。
 
 
●出家後、理想が崩れつつあったこと
 
 93年4月末日に出家した私は、3日間の修行を経て、出身の横浜支部への配属が決まりました。
 
 そのうち、信徒として接していたときには見えなかった、師を含めたサマナの人たちの人間的な言動も、それなりに見聞きするようになりました。
 
 しかし、当時に私にとって、クンダリニーヨーガの成就者とされる「師」とよばれる人たちは、神の領域に足を踏み入れた人でありました。そして、自分の理想であって欲しい、という強い願望から、そのように良く解釈して、思いこんでいたところがありました。
 
 実際には、極厳修行を出れば、極厳修行の中で達成した状態がそのまま続くことがないことは前にも書きましたが、私は、それでも、良いように捉えようと努めて、信徒やサマナの煩悩を受けて、そうなっているのだと思い込むようにしていました。
 
 しかし、実際には、多くの出家者の中には、精神的な疾患を患う人もいました。その意味で、出家教団内部には、なかなか大変な面もあったと思います。
 
 
●麻原の神通を体験したと思ったこと
 
 さて、この頃に、私が再び麻原を信じ込むようになった体験がありました。
 
 麻原が私が病院にいるヴィジョンを見たことを伝えてきたことがあったのですが、その時、祖母がガンで入院していたので、私は、麻原がそれを神通で察知したのだと思いこみました(もしかすると、その事実を知っていた他のサマナから何かを聞いていたのかもしれませんが)。
 
 麻原は、自分が見たヴィジョンから、外道(他の宗教)を信仰していた祖母に何をさせたらよいか、という具体的な指示を与えました。その時の私には、具体的な根拠ある訳ではありませんが、麻原のヴィジョンは良くあたっているように感じられ、そのため、それを初めて体験する麻原の「神秘力だ」と思い込みました。
 
 今思えば、この私の体験は、それほどたいしたものではなかったと思いますし、世の中にこういった霊的な体験や不思議な一致というものは、少なからずあるものです。
 
 しかし、当時の私は、自分が、こういったことで麻原と直接の接点がもてたという喜びや、また数々の成就者による麻原の神通の体験談を見聞きしていたため、自分が直接体験したこと以上に、それを素晴らしく受け止めてしまいました。そしてこういった傾向は、これは教団や信徒の共通した傾向だと思います。
 
 また、半年ほど後に、私は麻原から突然修行に入るようにいわれましたが、その時も、その前日に、心が利他の思いでいっぱいになる、という体験があったので、麻原が、私の心の変化を察知した結果として修行入りになったのだと勝手に解釈していました。
 
 今思えば、こういった現象は、すべてがつながっていると説く仏教的なカルマの法則や、心理学上のシンクロ現象(意味のある偶然の一致)の存在を考えるならば、麻原による神通でなくても、いろいろなところで起こりうる現象でした。
 
 しかし当時は、教団の中で、グルと弟子の間には物質的な距離は一切関係なく、グルは、弟子の数だけ心眼があり、いつもその人を見ているので、変化があるとすぐにわかるのだといわれており、それをそのままに信じていた私は、自分が実際にそのような体験をしたと考えたくて、そのように考えたのだと思います。
 
 こうして、私は麻原が世界最高の聖者である、という思いこみを強めていったのでした。
 
 
●京都の教団運営のスーパー「M24」でのワーク
 
 
 そして一ヶ月後、心に変化が生じた数分後に麻原がやってきて、京都のM24という教団が経営するマハーポーシャ系スーパーの店長としてのワークを命じられました。
 
 これまでの書いたように、当時の私は、何度か麻原の不思議な力だと感じる(思いこむ)体験をしたり、高弟達の体験を聞いていましたので、麻原に心服し、畏敬の念を強めていきました。
 
 一方、麻原に近くなればなるほど厳しくされると聞いていましたが、私は一度も怒られたことや厳しい対応をされたことはありませんでした。しかし、常日頃、怒られつづけていたら、良い感情や良くとろうとはしなかったと思います。人が対象をどのように認識するかは、それを決定づける条件が大きく関係してきますので、その結果として、自分の麻原に対する思考が形成されていったのです。
 
 M24には、マハーポーシャ本部から送られてきた信徒さんもおり、サマナ、信徒一緒の体制でした。私が異動すると程なくして、師や多くのサマナが移動してしまい、実質的に私が仕切らなくてはならなくなりました。
 
 その中で、サマナの理想的ではない部分(悪い部分)を見た信徒さんの不満が高じたり、ワークのきつさから精神状態を崩す人も出て、私の店長業務は、サマナや信徒さんの精神的フォローや顧客からのクレーム処理、種々の外部対応に多くの時間を割かれました。また、(人手不足から)肉や野菜のパック詰め、ラーメン屋の皿洗い、レジ、仕入れ、業者対応など何でも手伝いました。
 
 
●お店のワークにおけるグルへの疑念、褒められたことによる愛著
 
 私が着任してから、20人以上いた従業員もかなり異動してしまいましたが、あるとき麻原から、あの広い店内をラーメン屋も含めて5人でまわせ、といわれたときは、正直耳を疑いました。
 
 「できるはずがない」という思いがわいて、とても返事ができる状態ではありませんでしたが、私の上長はすかさず「はい!」という返事を返していました。私は、「そうか、帰依とはこういうものか」と思いつつも、あまりに理不尽だという思いは抜けず、麻原への疑念がわきました。
 
 その後、24時間営業を18時間に減らしはしたものの、午前2時に閉店してからも、私は何台もあるレジ金の回収や売り上げの計算などで寝る時間もなかなか取れない状態でした。寮にも殆ど帰らず、在庫の陰に埋もれるようにして仮眠をとる生活でした。
 
 クンダリニーヨーガの成就者である師がいなくなったことも理解できませんでした。
 
 師ではないということで、皆の反応も違いましたし、何より、ワークのきつさからストレスが高じて精神的に荒れる人がいたり、サマナと信徒の間に亀裂があったりして、私の力ではとても収められない問題が次々と起こりました。いろいろな要因で自信をなくしつつあった私ですが、仕入れの統制と宣伝による効果も少しずづ現われ、94年には経営はほんの少し黒字になってきました。
 
 一方、失敗も多々あり、怒られるだろうな、と思っていると、麻原は失敗には触れず、黒字に転換しつつあることを巧みに誉め、私がやる気になるような言葉をかけました。
 
 こうして(失敗には触れられなかったことで)逆に強い慙愧の念がわいて、やる気がおきたりもしましたので、こういった点において、麻原は巧みだったのかもしれません(ないしは、私が勝手にそのように麻原に肯定的な考え方をしたのかもしれません)。
 
 
●好感を持った人への過剰の評価をする背景にあるエゴ
 
 人は、自分に好意的な人に好感を持ち、批判する人を敬遠しがちですが、好感を持った対象のことを良いように受け取ろうとしたり、その欠点を見ないようにする傾向があります。
 
 自分を分析してみても、自己の理想の宗教家、自分にとって都合の良い聖者であってほしいという強い願望から、情報を選択透過して都合が良い部分だけを見てしまうことがありました。
 
 そのようになる場合は、自分をわかってくれている、認めてくれている、という条件があってのことで、その人に、怒られ続けている場合にはそうは思えないものです。
 
 自己の称賛欲求や認めてもらいたいという欲求に合致した場合、心をつかまれたように心服してしまいますが、その根っこには、エゴを肯定する部分があると思います。
 
 
●マハー・ムドラーという技法への疑問と問題点
 
 さて、教義の中ではエゴなどの煩悩を否定していますが、グルは相手の煩悩を利用し、汚れを引き出すことにより、対象にその汚れを認識させ(本人は潜在意識では煩悩を欲していて断ち切れないため)そのデメリットを理解させて抜き取るマハームドラーという技法が用いられていました。
 
 それは煩悩を利用するため危険を伴い、導く側(グル)の力量と相手のグルに対する帰依の双方がなければ決して成功しないといわれていました。それができるのは相手の煩悩を完璧に見切る漏尽通や相手のカルマを知る死生智などの六神通が不可欠で、それらを兼ね備えたグルのみとされていました。
 
 麻原の六神通のエピソードは豊富で、人が決して知りえない異次元の世界での導きや死者の意識を高い世界に引き上げるポアの技法まであるとされていました。
 
 そして、マハームドラーは本人が最も引っかかっている煩悩を引き出すため、大変苦しく精神錯乱のような状態になる場合もあり、教団の中でマハームドラーをかけられるのはグルである麻原のみであるとされ、対象には、百ゼロの帰依が求められました。ゼロというのはエゴ、百は絶対的なグルへの帰依であり、自己の意志を入れず、完全にグルに委ねた時、グルが対象の煩悩を抜き取るとされていました。
 
 しかし、この「グルが抜き取る」という部分が、私には理解できず、何人かの成就者に質問してみましたが、明確な答えは得られませんでした。さらに、これは、グルへの愛著をもとにした他力の修行であり、今思えば、絶対的な帰依は、自己の思考を入れず従う行為につながって、多くの弟子たちが、一連の事件に関与していった背景になったと思います。
 
 
●女性の弟子の修行の特徴と問題
 
 また、教団では、男性の弟子と女性の弟子は到達点は同じだと説かれつつも、両性の特質が違うために、修行法も異なると説かれていました。
 
 一般医、女性は、グルに愛著し、石井氏のようにグルから言われたことを私見をはさまず行うタイプが圧倒的でした。よって、女性は徹底してグルに愛著しつつ、それでいて、他の同性の女性への嫉妬なき状態まで集中しきるべきである、という実践が説かれました。
 
 しかし、後になって、麻原の高弟の中でも、麻原の子供を生んだ複数の女性間において、嫉妬などによって、相当の確執があったという話を聞きました。
 
 また、前にも書きましたが、愛著を肯定する女性特有の修行には、グルに愛著している内に、自分で思考せずに、依存心が強くなってしまいます。
 
 そして、依存、愛著の対象がいなくなった場合に、多くは別の男性の対象に意識が移って、より煩悩的になる可能性があるという問題があると思います。
 
 
●マハー・ムドラーの成就者に対する幻想
 
 そして、男女を問わず、サマナにとって、グルは絶対的な存在であり、ある高弟は「グルが間違えたら一緒に間違うと気持ちがいい」と言っていた、と聞いたことがあります。
 
 また、このマハームドラーの修行に関連して、マハー・ムドラーの成就者が一人出るのは大変なことであり、教団がつぶれるくらいの激しいカルマ落としがあってしかるべきである、といわれていたこともありました。
 
 事実、95年の事件直後には、何人もの正悟師が誕生したため、事件という究極のカルマ落としがあっても当然かもしれないと噂されていました。その当時は、殆どのサマナが事件を知らず、フリーメーソンの陰謀や国家が教団を潰すためのでっち上げと信じられていたからです。
 
 しかし、私が後になって知ったことは、正悟師と認定された人の中には、成就の体験があったというのではなく、事件に関与した功績で正悟師になったといわれた人や、煩悩を止滅するというマハームドラー成就の状態ではなく、逮捕されたために内心は揺れていた人もいた、ということを聞きました。
 
 これを聞いたのは、2000年以降ですが、正悟師を理想化していた私としては大変ショックなことでした。
 
 また、一番弟子の石井久子氏については、彼女の逮捕後に、麻原が、(正大師よりも上のステージである)正報師に認定したことがあったにも関わらず、拘留中に心が揺れ麻原を批判するようになったため、その認定を取り下げたということがあったと聞きました。
 
 これも、2000年以降になって知りましたが、非常に高いステージの認定に関係するものですから、非常にショックであり、教団の成就の認定というものに対して、否定的な思いが生じました。
 
 事件が発覚した95年以降の成就というのは、純粋に宗教的な瞑想体験とか煩悩の破壊ということではなく、団体存続や組織固めのための恣意的なものになっていった面があるのではないかと感じました。
 
 
●94年・・・イニシエーションによる成就
 
 94年中ごろには突然上九に呼ばれ、イニシエーションを受けました。これはLSDを使用したものだったそうですが、私はその体験でクンダリニーヨーガの成就者として認定されました。
 
 液体を飲んだ後、個室でしばらく瞑想しましたが、周りの個室では暴れたり叫んだりして取り押さ縛られる人、大声を出す人などがおり、尋常ならざる状態でした。自分の体験も薬物による幻覚だったといわれてもしかたないのかもしれませんが、薬物を使用していたというのはずっと後になって知りました。
 
 師として認定されたものの、自分の状態がラージャヨーガのときのようにはっきりとした変化は感じられませんでした。この点について、正悟師に質問すると、過去世において、既にクンダリニーヨーガの成就をしているので、同じレベルの体験はあまりインパクトがないのだといわれました。そして、それは自分の瞑想体験とも合致していたため、受け入れていました。94年の成就者は大量成就といわれましたが、事件の発覚をなどを見越した、(高弟達が抜けた後の)組織作りの一端だったのかもしれません。
 
 この夏には富士上九の井戸に毒が投入されて飲み水が得られなくなったとの連絡を受け、大量の水、飲み物、食品を富士に送りました。この毒物投入の疑いで殺された法友がいたとは、その時は知るよしもありませんでした。
 
 
●95年のサリン事件の発生
 
 さて、M24に異動してからというもの、毎日、朝礼で売り上げ目標を確認し他店との競合と利益を上げることしか頭になかったため(与えられたワークを全力でこなすのがグルの意思にかなうため)、95年3月の地下鉄サリン事件が起こった時には、まさに晴天の霹靂でした。
 
 不殺生の戒律を守ってきた私たちの仲間がそのような事件を起こすなど、とても信じられませんでした。
 
 また、麻原自身も事件関与を否定し、国家の策略と訴え、「亡国日本の悲しみ」という本まで出して、聖者や真理を迫害した者の末路が悲惨を極めるとしていましたので、一般の信者にとってはとても受け入れがたい事実でした。
 
 それまでにも、警察等の宗教弾圧に耐えてきた(内部ではそれが通説でした)といわれていましたので、教団がやったこととは微塵も思いませんでした。
 
 また、弾圧を受けることは「ノストラダムスの大予言」に克明に記されていることであり、大弾圧される団体は予言された団体で、麻原は予言された救世主であると信じられていました。
 
 そんな中、5月15日、ついに麻原が逮捕されました。それは信者全体に大きなダメージを与えましたが、私は冤罪はほどなくして晴れ、帰って来ることを信じていました。
 
 教団内でも機関紙やビデオ、師の説法などで繰り返し陰謀説や、予言の救世主への試練であるとの理論が繰り広げられていましたし、海外から調査団を呼び、教団施設ではサリンを製造できないことを証明し、チラシにして配布したりもしていました。
 
 そして、上祐氏がロシアから緊急に帰国すると、広報担当として、事件関与を否定する活動を始めました。
 
 6月になると教団の資産が差し押さえられるかもしれないことを見越して、サマナで作る「神聖出家者の会」を立ち上げ、個人資産が差し押さえられないよう、また、今後の出家生活の保障のために活動していきました。
 
 しかし、「神聖出家者の会」の代表につくはずの師が急に逮捕されたため、私が繰り上がりで代表に就きました。社会、マスコミなどからは、資産隠しの詐欺ではないかと厳しく追求され(5回の記者会見を行った)、私自身も詐欺で逮捕されるのではないかとの噂もたちました。
 
 それから、少しの間、神聖出家者の会とM24の掛け持ちのワークになりましたが、M24は5回の強制捜査の結果、売り上げが激減し、8月には閉店を余儀なくされました。私は、後ろ髪引かれながらも、店じまいの作業は他の人に任せ、神聖出家者の会のワークや今後の対策のために、東京青山にあった本部に異動したのでした。
 
 
●95年~96年:事件の罪を認めてこなかった教団や私の過ち
 
 
 青山総本部に異動してからは、神聖出家者の会のワークと同時に、事件の影響で財政難となった教団を支えるために財施部(アルバイト等に出て給料を布施する)を立ち上げることになり、数人の師と一緒に阿佐ヶ谷道場を拠点に活動することになりました。
 
 しかし、その中の1人も拳銃製造の容疑で逮捕され、事件の混乱によるサマナの精神的不安定、疑念が増大し、私自身も先ゆきの不安が大いにかき立てられました。
 
 また、10月には上祐氏が偽証罪で逮捕され、大きな柱を失ったように、サマナ達は落胆しました。当時、広報副部長であった荒木氏は、はた目にもわかるほど動揺して「私はこれからどうしたらよいのですか」と、最後に上祐氏に問いかけていた姿が印象的でした。
 
 上祐氏の逮捕によって、正悟師の村岡達子氏が青山に移動し、代表代行の地位に就き、正悟師らが中心になって教団運営を行う体制になりました。しかし、それは表向きで、実際は獄中の麻原から弁護士を通して伝えられるメッセージに沿った教団運営がなされるようになりました。
 
 財施部のサマナは、社会に出ていろいろな情報に触れるため、テレビや雑誌、噂話で聞いた、教団の事件に関する報道の真意を確かめようと質問してきたり、宗教的な疑念がわいたりして、私たち師は日々、対応に追われました。当時、私は、事件は冤罪と決めつけていましたので、それら外部情報のほとんどはねじ曲げられたものなので信じず、できるだけ情報捨断して惑わされないようにと指導していました。
 
 実際、外に出ているサマナの方が働いていない私たち師よりずっといろいろな情報を仕入れてきます。にもかかわらず、私はそれらを見ない、聞かないようにして、真実を精査する努力もしませんでした。教団の指導としても、情報捨断のスタンスをとっていたため、それに疑問すらわきませんでした。
 
 事件後、あれだけの供述や事実確認があったにも関わらず、一切を切り捨てていたのはなんと愚かなことかと思います。事実を直視せず、自分の宗教性に傷がつくのが怖かったため、自分が選び、信じてきたグルや教団の悪い部分は見ないでおきたかったのです。
 
 しかし、それこそが、グル、真理、自分達の「絶対性」を貫き、狂気の大量ポア計画や教団武装化、数々の殺人に発展していった原因だと思います。集団的洗脳に陥っていたのですが、私を含めた(事件に関与しなかった)信者達に責任がないとは決していえません。このような団体、麻原を作りあげたのは、そのような団体、教祖を望んでいた信者ひとりひとり、ひいては私自身だったのです。
 
 教団の方針は、フリーメイソンの陰謀、警察や国家権力の教団潰し(宗教弾圧)というもので、ネット上にまで、堂々とそのような理論を展開していました。また、内部に配布される機関誌などでも取り上げられ、チラシを配って、広く冤罪を主張していました。
 
 逮捕前の上祐氏をはじめ、事実と知りつつも、麻原の指示で、罪を認めない活動に従事していた人や、事実を知らず、頭から冤罪と信じていた人とさまざまでしたが、事件に関わった人を含めて事実を知っていた人たちの多くが事実を隠して社会を欺き、何も知らなかった信者達をも騙してきたことは大きな罪だと感じます。
 
 もっと早く事件を認めていれば、教団として謝罪、賠償などの償いができたと思いますし、今後二度と同じ過ちを犯さないための努力や、世界のテロに影響を与えたといわれる教団の事件が、9・11のような悲惨なテロに影響を与えることもなかったと思います。
 
 
●事件の真相を知り変化した思考:しかし信仰の本質は変わらなかった
 
 最初は事件を冤罪と決めつけていた私は、96年以降もたくさんの供述が出てくるに及んで、教団がまったくの無実であるとはいえない、事件は教団がやったのだと考えざるをえない状況になりました。
 
 しかし、例えば坂本弁護士一家殺害事件については、あらゆる視点から教団関与を否定し、大々的にチラシで反論したり、教団が犯人ではない、というテレビ放映まであったため、事件関与を事実として捕らえたとき、いったい、教団の主張は何だったのかという大きな疑念にぶちあたりました。
 
 尊敬していた師、正悟師が殺人を行ったという事実、教団の欺瞞性、教義との整合性、布教の際に冤罪といって人を欺いた罪など、考えても到底答えはでないのでした。
 
 その頃、教団内で多くの人が信じ、私自身もそう考えるようになったのは、
 
①麻原には我々が知り得ない深い考えがあった。ステージの下の者が上の者を安易に判断してはいけない。我々(一般の人々も)にはヴァジラヤーナのことは理解できない。
 
②この世で悪業を積み続けるよりも、麻原によって、高い世界にポア(意識を高い世界に引き上げること)してもらった方が良い。亡くなられた方々は麻原がポアしている。
 
③ 「縁なき衆生は度しがたし」といわれるように、逆縁(互いに傷付けあう関係)でも縁ができた方が良い。被害にあわれた方々は麻原を憎むかもしれないが、それにより、今生深い縁ができ、来世ではその縁により救済される。来世、麻原の弟子になる人もいる。逆縁を順縁(互いに助け合うなどの良い関係)に変えられるのはヴァジラヤーナのグル(麻原)のみである。
 
④亡くなった方々、被害にあわれた方々には過去世での業(結果を引き起こす原因)があった。例えば、殺された場合、過去世で人を殺すなどしている。なしたことが返ってくる、因果応報。
 
⑤麻原が(捕まって)独房にいるのは、過去に一度経験した、完全最終解脱の状態に戻るためで、どの聖者もその過程では、必ず一人にならなければならない。
 ※麻原のメッセージの中には氏が自身の状態(例えば空中浮揚が少しづつ始まっているなど)に言与しているものがあった。
 
⑥預言の成就。麻原が救世主であり、教団が真理の団体だという証明である。
 
 といったものでした。
 
 これらは、麻原や教団を全面肯定する思考で、被害にあわれた方々にとっても、社会的にも到底受け入れられるものではありません。
 
 人が幸せになるには、対象が受け入れられるように、臨機応変に対応を変えて導くことこそ、慈悲の実践であり、人の気持ちを逆なでするような理論は用いるべきではないと思います。この点はひかりの輪でも厳しく諫めています。
 
  ①については、こう考えることは、教団の中ではグルに対して謙虚になるためとされていましたが、その内実は、こう考えることで、自分でこの重大な問題を精査、検証する必要がなくなり、自分が維持したい信仰を簡単に維持できるため、ある意味で非常に「楽」な行為であって、同時に、自分の信じたグルを絶対化することで、密かに自分を絶対化し、目的のためには手段を選ばないことを肯定する危険な思想です。
 
  ②のポアについては、ポアを行う資格がある者は、チベット密教などでは、ポア(殺す)しても、神通力で、生き返らせることができる場合のみであるといった教えがあります。これは、すなわち、実質上、ポワをすることを禁止しているとも解釈できる教えですが、麻原には、生き返らせる力などまったくなかったにもかかわらず、そうしてしまったのであり、これは、一般の殺人者と何ら違いはないものです。
 
 しかも、高い世界にポアされた(=生まれ変わらせた)という事実は証明することはできません。チベット密教では、ポアする条件として、神通力によって、高い世界に転生したことを証明できることという教えがあり、これも、事実上、そういった行為を禁止しているとも解釈できます。
 
  ③は、このオウムの考え方は、仏教において、「偉大な菩薩を傷つけても、菩薩はその人を憎むことなく、その逆縁を順縁に変えていくことができる。故に、法縁のない者は、菩薩に石を投げろ」といったような教えがあることに基づいた考え方から来ていると思いますが、正当な仏教では、菩薩の方が、一般の人々を傷つけることを想定したものではないと思います。
 
 そして、この考え方は自分達のグル(と自分達の教団)が、偉大な救世主であるという傲慢に基づいており、そうでなければ、こういった考えは生じないと思います。
 
 また、こういった輪廻転生と逆縁や順縁といった観念は、当然、当然科学的に証明できるものではないことに加えて、私が思うには、サリン事件のようなあまりにも激しい逆縁(この場合事件で相手を殺したり、深く傷つけた)の形成は、今生で、人と人の間に、強い憎悪、敵対を生み、決して肯定されるものではないと思います。
 
 ④に関しては、仏教の因果応報の考え方ですが、自分が他人に傷つけられた場合に用いるならば、恨み憎しみを乗り越える良い教えだと思いますが、そうではなく、逆に、自分が人に苦痛を与えた場合に用いることは過ちだと思います。
 
 なぜならば、苦痛を与えられた側は納得するはずはなく、逆に反発して、仏教の布教どころか、仏教の教えに疑念を持ち、その結果、法則の実践に入ることすらできなくなるという意味で、間違っていると思います。
 
 それまでにも、人に何か悪いことが起きた時に、「それはあなたのカルマでしょ」という言い方をすることがあり、一般の方々や一部のサマナから強い反発を買っていました。しかし、教団の中では、特にサマナがそういう反応をした時には、「法則が根付いていない」と言われていました。
 
 ⑤⑥は、独自の妄想的な別の世界の思考にはまりこんでいる状態です。独房に収容されていることを修行が進む環境ととらえています。被害にあわれた方々、遺族の方々の苦しみ、悲しみを思えば、到底受け入れられるものではありません。
 
 教団の教えの中核である四無量心という実践は、本来、自と他の区別をなくすための一元的実践であるのですが、実際にはたいへん選民的で善悪二元的なものでした。
 
 これは代表派になってから気づかされたことですが、これ以外にも教団独自の法の解釈が多々あり、それらは、現在、ひかりの輪で教本にまとめて、勉強しなおしています。
 
 
 私は上記のような、自分達を真理、善とし、社会や一般の方々を悪業多き魂、悪と考えたり、それをなすことによってどれだけ人が苦しむのかを理解できない思考にはまっていました。
 
 そして、麻原が事件に関与した可能性が大きいと考えるようになった後も、肝心の麻原が自身の事件関与を否定して、「弟子がやった」というスタンスをとっていたため、外部の人に意見を求められると、「まだ裁判は審議中ですから、まだ、完全に有罪とは限らないと思います」と答えたりしました。ですから、本質的には事件を反省せず、信仰のスタイルには変わりがなかったのです。
 
 このような考え方になったのは、自己の反省であると同時に、集団がなす罪、悪業がどれほど大きいかを痛感しています。
 
 
●破防法手続きの進行や麻原の子息の神格化など
 
 96年になると、破防法手続きが進み、破防法が適用された場合、事実上の教団解散となり、集団居住や上層部の指導体制や維持できなくなります。破防法適用の際は、6人1グループとなり、役割分担しながら生計を立てよ、との麻原からの指示もあり、国の生活補助などは一切受けず、たとえ乞食になっても信仰を貫くのだ、という教えも説かれました。
 
 また、3月には教団の破産が決定し、教団資産は破産管財人の管理下におかれ、施設等は次々と処分されることになりました。私がいた阿佐ヶ谷道場も退去が決まり、新たな居住地を捜さなければならなくなりました。
 
 移転地を埼玉県大宮市に定めたのですが、当然、一カ所に大きな施設を借りることはできず、いくつかのマンションに分散居住するしかありませんでした。また、オウム真理教の信者であることがわかると借りられないため、結婚すると偽って大きなマンションを借りたり、契約に反して複数の人が住んだりしたため、すぐに解約しなければならなくなったり、と居住環境は不安定でした。
 
 また、破防法弁明手続きにおいて、麻原が教祖を降りることを表明したため、麻原の長男、次男を新たな教祖としていくメッセージがありました。そのメッセージには麻原の子息を観想することで、麻原との霊的つながりが維持されるというものでしたので、まだ年端のいかぬ長男、次男を「リンポチェ猊下」と呼んで神格化していきました。
 
 長男は中国の唐の時代の仙道系の修行を極めた者の転生であり、次男は阿弥陀如来の化身とされたパンチェン・ラマであるということでした。
 
 しかし、パンチェン・ラマの転生者はすでにチベットで認定されており、実際は、教団の問い合わせに対して、ダライ・ラマ法王サイドからは、次男が転生者であることを否定する回答があったそうです(しかし、多くの信者がこのことを知らされませんでした)。
 
 また、子息を教祖としてはいましたが、実際には、三女と正悟師が作る長老部が教団運営をしていくことになりました。
 
 
●常軌を逸した観念崩壊セミナー:誰もが事件を起こす可能性があった 
 
 96年夏頃には三女が企画した「観念崩壊セミナー」が行われました。これは、破産手続きや破防法、施設の明け渡し、事件関与があらわになったり、外部で働くサマナの意識が低下したため、たまった業を落とし、帰依を深める目的でした。内容は、人の欠点を皆で指摘したり、最も苦手なことをさせたり、蓮華座という厳しい座法を縛って長時間組ませたり、断食の後で大量の食物を吐くまで食べさせる、吐いたらそれを食べさせる、野外に放置する、水を掛けつづける、警察の前まで行進して歌を歌う、危険な行法を長時間やらせる、などの大変苦痛を伴うものでした。
 
 中には入院するほどの大けがを負った人や、障害者としての認定を受けるほどの重篤な状態になった人、死にかけた人もおり、ショックで、セミナー中に還俗してしまう人もいたほどでした。また、私の友達だったサマナは、複数人から自己の欠点を指摘され続けたため、強い恨みを抱きつつ還俗し、いまでもずっと恨み続けています。
 
 三女の、恐怖を与える強硬なやり方や入院や障害者になるほどの過激な修行を無理矢理やらせたこと、また、それに反対する者も表だっていなかったこと、幸い死者はでなかったものの、一歩間違うと死人が出たり、リンチともとらえられるようなやり方を誰も阻止しなかったことなどは、事件の背景になった思想そのものだと思います。
 
 三女は麻原から、幼い頃から自身の後継者と名指しされ、前生から高いステージにあり、わずか5才にして大乗のヨーガという誰も到達していないステージに到達したとされたため、信者からは特別視されていました。麻原の次の救世主と予言されたため、(一般のサマナの中には)誰も彼女に逆らう人はいなかったように思います。
 
 しかし、責任は三女にだけあるとはいえず、このような過激な修行を三女と共に他に強要したり、人を傷つけたり、危ない修行を止めなかった者達は、誰もが事件を起こす可能性があったということになります。
 
 また、97年に入って、破防法が棄却になったのは、観念崩壊セミナーで、サマナの悪いカルマ(業)が落ちたからだといわれましたが、数々の事故、還俗者が出たセミナーを反省せず、肯定しているところは、事件を起こした教団の本質には、なんら変わりなかったということだと思います。
 
 その後、三女や指導の手伝いをした師は皆、調子を崩し(悪しきカルマを受けた)、当の三女は自殺未遂を繰り返すようになったと聞きました。