■違法行為を一旦停止、マハーヤーナ路線へ

 

 1991年になると、国土法違反による2度の強制捜査と複数の幹部信者の逮捕のために、教団は大きな打撃を受け、それまで続いていた武器製造等の違法行為がいったん中断されます。

 

 その後の武器製造の再開は、翌1992年の半ばとなりますが、それまでは、教団の勢力を回復させるために、しばらくはヴァジラヤーナの活動は控え、「マハーヤーナ(大乗、合法)路線」を教団は歩むことになります。

 

 もっとも、大部分の信者にしてみれば、教団の裏での武装化活動――いわゆるヴァジラヤーナ路線については、もともと知るところではなかったので、表面上、教団の様子には特段の変化を感じることはありませんでした。

 

 一方、この年の初頭、麻原は「師」のステージにある幹部信者を集めて、

 

「国家権力の迫害に負けなければマハームドラーを成就できる」

 

と叱咤しました。

 

 そして、男性信者は警察と戦うことに意義があるとされました。つまり、社会秩序の象徴ともいえる警察と対峙することは、世俗を捨てて麻原を選び取ることを意味し、世俗の煩悩を超越した境地であるマハームドラーに至る道であるとされたのです。

 

 このように、裏のヴァジラヤーナ活動はいったん中断したものの、その過激な思想は引き続き、幹部信者らに伝授され続けたのでした。

 


■社会的評価を得るために諸活動を展開

 

 麻原は1991年を「救済元年」と位置づけました。前年の1990年には社会的に叩かれたので、この年は社会的な評価を得るための諸活動を展開し、教団を立て直そうと考えたようです。主に以下の活動を展開しました。

 

(1)「死と転生」「創世記」公演

 

 まず、3月から4月にかけて、教団の舞踏団によるダンスオペレッタ『死と転生』公演を、大阪、福岡、横浜、名古屋、東京の一般会場で実施しました。これは、人間が死んで生まれ変わるまでの霊的世界の様子を音楽や舞踏によって表現した教団オリジナルの作品で、信者のみならず多くの一般人を観客として招きました。

 また、8月から9月にかけては、同様にして、宇宙の創生プロセスを表現したダンスオペレッタ『創世記』を、東京、大阪、神奈川、京都、福岡、愛知の一般会場で開催しました。

 

(2)海外への訪問

 

 そして、盛んに海外の仏教国を訪問していきました。具体的には、以下の通りです。

 

◎5月26日~6月9日 弟子らとインドの仏蹟巡礼。
◎7月3~13日 弟子らとインドの仏蹟巡礼。
◎8月19~26日 チベット訪問。
◎8月26~31日 ラオス訪問。国賓として迎えられる。
◎9月30日~10月3日 スリランカ訪問。総理大臣らと面会、仏舎利の贈呈を受ける。
◎10月5~12日 インド巡礼ツアー。(総勢389名)

 

 これは、

 

「(国内での社会的な評価は落ち込んだが)外国には自分を評価する者がいるはずである」


という麻原の方針に基づくものでした。後述するとおり、1992年にも、この方針で海外訪問が続きます。

 

 これらの訪問では、外国から国賓待遇を受けたり、国家元首と記念写真を撮ったりしましたが、その背景には、多額の寄付金などの提供がありました。

 

 麻原は、

 

「必要なのは、(国家元首と並んで撮る)写真一枚だ」

 

などと述べたことがありました。

 

 国賓待遇を受けたラオスや、仏舎利を贈呈され総理大臣と面会できたスリランカでも、教団の多額の寄付が背景にありました。なお、ラオスの前にタイから国賓待遇してもらおうと思って打診したものの、日本外務省の意見で話がつぶれたという経緯がありました。

 

 多くの一般信者は、こうした外国政府による麻原への厚遇は、麻原の徳によるものと思い、麻原を絶対視していくことにつながりました。しかし、裏ではこのような金銭の動きがあったというのが現実でした。

 

 現に、こうした厚遇をしてくれた国は、いずれも発展途上国か、経済が混乱している国であって、日本円がモノをいうところばかりでした。

 

(3)テレビ、雑誌等のメディアに登場

 

 以下の通り、テレビや雑誌のメディアに頻繁に登場して、露出度を高めるとともに、識者との対談をしたりして、その権威を高めることもしていきました。

 

◎6月 雑誌『流行通信』の取材に応じる。
◎6月 雑誌『ゼロサン』で博物学者の荒俣宏氏と対談。
◎8月 雑誌『十人十色』の取材に応じる。
◎8月 雑誌『サンサーラ』の取材で、田原総一朗氏のインタビューに応える。
◎9月 雑誌『スタジオボイス』の取材で、作家の中島渉氏のインタビューに応じる。
◎9月 雑誌『エム・ジャパン』の取材に応じる。
◎9月 雑誌『iD Japan』の取材に応じる。
◎9月 雑誌『BOX』の取材に応じる。
◎9月 テレビ朝日の『朝まで生テレビ』に出演。
◎10月 文化放送の『梶原しげるの本気でDONDON』に出演。
◎10月 日本テレビの『とんねるずの生でダラダラいかせて』に出演。
◎10月 雑誌『週刊朝日』で宗教学者の島田裕巳氏が麻原を評価。
◎12月 雑誌『サンサーラ』で栗本真一郎氏と対談。
◎12月 雑誌『月刊現代』の取材に応じる。
◎12月 雑誌『360』の取材に応じる。
◎12月 雑誌『BRUTUS』で宗教学者の中沢新一氏と対談。
◎12月 フジテレビの『おはよう!ナイスディ』に出演。
◎12月 雑誌『別冊太陽』で宗教学者の山折哲雄氏と対談。
◎12月 テレビ朝日の『テレビタックル』に出演し、ビートたけし氏と対談。

 

 このように多数のメディアに出演し、識者・有名人と対談して一定の評価を得たことにより、多くの信者は麻原に対してさらに尊崇の度を高めていくことになりました。

 

 特に、『朝まで生テレビ』出演は、教団の内外に好評で、これをきっかけに社会的な評価が高まったのも事実でした。同時出演した他の教団に大した魅力を感じさせるものがなかったことが、麻原やオウムの魅力を相対的にアップさせたという指摘もあります。

 

 なお、麻原が取材に応じた雑誌は、上記の通りその大部分が中小雑誌の類であり、麻原の記事掲載号を教団が大量に購入することを約束して取材してもらったという事情もありました。つまり、ここでも多額の金銭が動いていたという事実があったのでした。

 

(4)大学等で講演会を行う

 

 学園祭の季節になると、全国の有力大学等で、以下の通り「麻原彰晃講演会」を実施しました。以下は全て1991年11月の講演です。

 

◎信州大学(800人集まる)
◎東北大学
◎気象大学
◎東京大学
◎京都大学(1300人集まる)
◎世田谷区民会館(一般人向け)

 

 大学での講演会は、翌1992年にも連続的に行われます。

 

 いずれの大学でも多数の学生が講演会に参加しました。

 

 このような一流大学で極めて多数の大学生が集まったということ自体が、当時の世相を反映していたといえます。つまり、当時は、新宗教ブーム、予言ブームで、麻原の主張が大学生の関心を集めやすかったという事情があったのです。

 

 また、前記のようなテレビ出演が事前にあったので、注目を得ていたということもあります。

 

 そういう意味では、オウム真理教が大きくなる素地は、社会的に存在していたといえるのかもしれません。現に、この講演会によってオウム真理教に入信した信者も少なからずいたのでした。

 

 また、裁判の判決では、

 

「自ら大学での講演会等で,ハルマゲドン後に生き残るためには教団に入信して被告人(麻原)の下で修行し成就するしかない旨を示唆するなどし,理科系の優秀な人材や高度の専門知識等を有する人材を多数入信,出家させることに努め,その結果,筑波大学大学院で有機化合物の合成等について研究をしていた土谷正実や,東京大学大学院で物理学を専攻していた豊田亨らが出家するに至った。」

 

と認定されています。

 

 このことから、教団武装化のための有能な人材を集めたかったという事情もあったことがうかがわれます。

 

(5)大量の出版物を刊行

 

 1991年夏以降は、麻原は、自らの説法集など、大量の書籍を毎週のように新たに刊行していきました。当時の教団出版部では「出版攻勢」と呼んでいましたが、大量の書籍を市場に流通させることによって、社会的認知度を高めるとともに、新しい入信者を増やす狙いがありました。

 

 また、麻原は、入信勧誘のための書籍だけではなく、坂本弁護士事件は教団の仕業ではないと訴えるパンフレットの作成も命じていました。上記のような社会的な評価の向上に努めるとともに、マイナス要素はできるだけ打ち消そうとしていたのです。

 

 こうした教団の主張を信じ込んで、坂本弁護士事件にオウム真理教は関与していないと信じる信者が大部分だったのでした。

 


■自らをキリストと宣言

 

 10月頃、麻原は、自らのことを聖書に再臨を予言されたキリストであると宣言し、その旨を記した書籍『キリスト宣言』を刊行しました。この『キリスト宣言』は、その後、第4巻まで刊行されていきます。

 

 以下は、『キリスト宣言』の冒頭の麻原の言葉です。

 

 わたしはここにキリストであることを宣言する。それは、この本書を読み進めていただいたら、ご理解していただけるはずである。
 わたしは今まで『新約聖書』というものに対して、「ヨハネの黙示録」以外全く目を通したことがない。そして、この『新約聖書』を一九九一年の十月二十三日に初めて目にし、そしてこれはまさにわたしが救世主であることを予言した書であることを確信した。その内容については、第一章で詳しく述べることとする。
 ところで、なぜわたしがこの『聖書』について書かなければならないと考えたのかというと、それは多くの偽予言者、偽預言者、偽キリストがこの世に登場しているからである。しかし、彼らはすべて偽物なのである。では、なぜ偽物だろうか。それは、『聖書』に書かれているキリストの条件を備えていないからである。


 麻原は、こうして、自分こそがキリストの条件を備えている人物であると、この書の中で述べていきます。たとえば、キリストは「三日三晩、地の中にいるであろう」と聖書に書かれていることを指して、これは空気を遮断した地中でサマディ(深い瞑想)に入ることを意味しており、まさに麻原やオウムがやっていることであると主張するなどしました。

 

 そして、キリストやキリストに従う人々は、多くの人に憎まれ、迫害されると聖書に記されていることから、社会的に迫害されてきた麻原やオウム信者こそ、キリストとその弟子なのであると述べたのでした。

 

 前記の通り、麻原は、1989年9月末に「キリストになれ」との示唆を受けたと述べていましたから、もともと自己キリスト化の傾向はあったといえますが、文献まで引用して本格的な主張を始めたのは、これが初めてでした。
 
 もはやここに至って、オウム真理教は、当初の仏教・ヨーガ団体から、キリスト教的な信仰を持つ団体へと名実ともに変貌していくことになりました。もともとグルイズムという形で麻原に対する個人崇拝は進行していましたが、こうしてキリスト教で予言されたキリストであるという位置づけを自らに与えたことにより、その個人崇拝は絶頂に達したといえます。

 

 そして、本来なら、このような変貌に対しては、仏教的な観点からは当然異論が唱えられるべきものなのですが、多くの信者は、このような麻原のキリスト宣言を自然と、あるいは喜んで受け入れたのでした。

 

 それは、麻原がキリストとなれば、自分たちはキリストの弟子となれるのであり、世界において極めて高い宗教的地位を得ることができるからです。虚栄心のなせる業としかいいようがありませんが、麻原も信者も、こうして互いの虚栄心を増幅し合い、相互に支え合って、巨大なキリスト妄想を構築していったのでした。

 

 また、キリストやその弟子こそ、社会から迫害されるべく予言されているのだという主張も、自分たちにとっては好都合なものでした。社会から批判されてきたのは、本来は「身から出た錆」だったはずですが、このような予言解釈は、そうした現状を自ら直視したり反省したりすることなく、逆に自己肯定し、プライドを増幅させる作用をしたのです。

 

 社会から攻撃されればされるほど自分たちはキリストの弟子といえるのだという妄想が、こうして広がっていき、それは、今のアレフに至るまで続いているともいえるのです。

 

 こうした精神的傾向は、事件を起こした信者のみならず、多くの一般信者も同様でしたから、事件を引き起こした教団を底辺から作り上げた責任は、一般の信者にもあったということができるのです。

 

            >次の記事「【8】1992年(平成4年)」へ