当時、食料を始め国民の生活物資は相当に
欠乏していました。
主食のお米は配給手帳で
各家庭の人員構成で配給されていました。
そのような時代に見た大きな”おはぎ”
実家でひもじい思いをしている弟や妹に
食べさせてあげたいと思いました。
勿論 そんなことが出来る訳はあり
ません。
光海軍工廠35000人の胃袋を養う烹炊場の風景
当時、食料を始め国民の生活物資は相当に
欠乏していました。
主食のお米は配給手帳で
各家庭の人員構成で配給されていました。
そのような時代に見た大きな”おはぎ”
実家でひもじい思いをしている弟や妹に
食べさせてあげたいと思いました。
勿論 そんなことが出来る訳はあり
ません。
光海軍工廠35000人の胃袋を養う烹炊場の風景
巷では”おはぎ”などが口に入るような時代では
ありませんでした。
大きな まん丸なおはぎ
小豆 きなこ お砂糖タップリのおはぎ
今でも 昔の仲間が集まると
「あの、おはぎは美味かったな」と話題に
なります。
体調が良くないため長らくブログを
お休みしましたが少しづつ始めたいと
思います。
手元にある、光海軍工廠の胃袋とも言える
烹炊所の写真を見ながら往時を偲んで
居ます。
動員学徒として光海軍工廠に入ったのは、
昭和19年8月の初めでした。既に国内は
深刻な食料不足ででした。
そんな8月下旬、工廠の食堂(昼食)で
食べた”おはぎ”の美味しかったこと
・・・・・・・(明日に続く)
兵器の生産能力を維持するためには3万人を
はるかに超える人員が必要とされました。
しかし、工場の働き手の多くが戦場にあり、
新しく補充は容易ではありませんでした。
全国の軍需工場の生産要因を確保するために
国を挙げて行われたのが学徒動員でした。
昭和57年11月、光市において、光海軍工廠
関係者の全国組織・「光廠会」の集会がありま
した。
このとき全国から600余名が集まりました。
その後、高齢化により組織は衰退し有名無実
のものとなりました。
現在では、光市近隣の者で組織する
「海光会」、「光養会」が主体となって5月27日
に会合をしますが、こちらも高齢化により年々
参加者が減り、昨年は30名位の参加でした。
私も、今年は体調が良くないので始めて欠席と
させて頂きます。 残念です。