私が忙しい年末を送っていたため、早期に母の肺炎に気づかなかったのが悪かったのだと、いまだに後悔している、


一昨年暮れに肺炎と転倒からの硬膜外出血で入院。

病院はコロナ禍故に面会禁止❗️

しかし、順調に回復していたようで、入院して2週間後、リハビリを開始すると連絡があった。

ところがその数日後、病院内でコロナに感染し、10日間の隔離すると連絡が入る。

その後、思いもよらぬことに、経鼻経管栄養の状態となり、そのまま療養型病院へ転院。昨年2月のこと。

{元に戻らなかったのはコロナにかかったことが悪かったのでは⁉️)


療養型病院でも、その頃面会は2週間に1回20分。

2週間ごとにしか会えなかったけれど、行くたびにに回復しているようで、また家へ帰れるものと思っていたのですが…


流動食になり、歩行訓練をするまでに回復。

10月からは毎日20分の面会となったので、毎日毎日見舞いに行き、しっかり母と向き合う。


しかし、10月の後半以降、肺炎、尿路感染を繰り返し体力が次第に衰える。検査結果もよくないこともある。医師からは「お年ですから」と言われ、覚悟が必要だと実感する。


11月からは、栄養接種が点滴となる。手の甲から行っていた点滴も、血管か細くなり、太ももの血管から点滴を入れるようになる。


12月頃には、腕に内出血が多く見られ、言葉も出なくなる。面会に行っても目を覚さない日も増えてくる。

尿の色が濃くなったり、量が減ったりと症状がどんどん悪化。

しかし年を越し、正月にしか帰省しない2年ぶりに見る孫息子の顔を目を見開いて見入っていた。


1月15日に「今までで1番検査結果が悪い。」と医師から告げられる。

翌日、ずっと音信不通になっていた私の弟、母の長男に連絡。その日のうちに見舞いに来た。その日母は目を見開き、10年近く会っていなかった息子の顔をまじまじと見入っていた。最後の力を振り絞って目を開けたように思う。


その次の日の1月17日 いつもなら私が帰り際に「明日また来るね」と言うと、目は瞑ったままでも首を縦に少し動かしていたのに、その日母の首は動かなかった。夕方には薬を飲んでいたそうですが…

弟が会いに来た2日後の1月18日に日付がかわってすぐ、母は1人で旅立った。


孫息子、そして長男に一目会うまではと頑張っていたのだと思う。


今は、お仏壇と共に母の位牌は弟(長男)の家に移った。

先日弟宅で、早めの初盆のお参りを執り行いました。おりん、線香立てが綺麗に磨かれており、大事にしてもらって母も喜んでいると思う。



生前は10年以上私(長女)と共に暮らし、幸せだと言っていた。

そして亡くなってからは弟(長男)に大事に祀られている。

姑や夫に辛い思いをさせられてきましたが、人生の終盤、そして仏になってからも幸せな思いをしていると思う。


どうか空の上で、仲良しだったお姉さんたちと楽しくしていますように❗️


これから、毎日母を見舞って思ったこと、感じたことを綴ります。


〈幸せに 終焉迎えた 母 空で 優しき人と 過ごすを願う〉