※今日のはつぶやきなので興味がない人はスルーしてください
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はい、野生のキジです
最初こそびっくりしてテンション上がってましたが
こうも頻繁にキジちゃんを見るとそれが当たり前になってくるのが怖いといいますか
大してびっくりもしなくなってきました。
よくどこかの本に慣れというのが怖いなんていうのが書いてあったような気がしますが
これが慣れというものなんでしょうね
キジの何が怖いって話ではないですけど
そんなことを考えていたらふと思ったんですが
日常的と非日常的なものの違いってその人によって違ってきますよね
夕方のニュースなんかで非日常な状況なんて言葉を聞いたりしますが
それはやっぱり個人的なことであって一般的なことかと言われれば決してそうじゃない
それに関係して常識がないだのよく耳にしますがこれも同じことが言えて
常識もやっぱり個人的なものなんじゃないかなと。
そりゃ自分たちが生きている社会の中で常識と呼ばれてるものは概念的にはあるんでしょうが
たとえば地方によって赤飯が甘いのと甘くないのとがあるように
案外常識なんて自分が生きている上で必要最低限の範囲の中でしか成り立たないものであって
常識がなっていないと怒る人間のその発言自体が間違っているんじゃないか?
それはその人自身の常識であってその人が怒った人の常識ではないわけであって
でも、人間が生きていく上でこの社会の中で必要最低限の常識、いわゆるマナーなるものは身につけなきゃいけないみたいな
それはいったい何を基準にしてるんだい?と問いたくような事態になってるわけで
怒られた人からすれば怒った人に対して、知らないよ、それなら怒るだけじゃなくてちゃんと教えてくれないかな、プンプン!という風になるのは当然であって
まあ要するに人が言うところの常識なんていうのはトンカチで叩けばすぐに壊れてしまうようなもの
よく子供が親に対して、なんでこれしちゃいけないの?と質問して親が返事に困るなんていう状況があるようですが
人っていうのは何にも知らないに等しいくらいに無知なんだなと。
でも、それが逆に良い方向に向かっているような気がします
多分全部のことを知っている人間がここにいたとして自分と一緒に生活していたら
多分一日でけんかするでしょう、たとえそれが自分じゃなくて他の人でも。
だってその人には常識と呼ばれるものの定義は当然知っていて
おそらくその人はその常識の定義に従って生活しているはず
それに加えて自分はおそらく・・・てか絶対その常識の定義を多いに反して生活している
それは誰だってそうだし、つまりそのなんでも知ってる人が実際に実在していたなら
その人はこの社会でまともに生きていけないんじゃないかなと思います。
昔、ポケモンの映画でミュウツーが、わたしは誰だ、どうして生まれたのだとつぶやいていましたが
そんなの知らない方が絶対に良いに決まってる。
知識欲っていうのは誰にでもあるもので、知るっていうのは人間にとってすっごい幸せなことです
それを最近すごく感じています
何千万分の一とか何億分の一とかそんくらいの知識でも人にとってすごい貴重なものであるわけだし
そういった知識の積み重ねで今の自分がいるわけであって
多分これからもそうやっていろんなことを知ることによって生きていけるんじゃないかな
そう考えると知るってことは生きることと直結すると思うんです
知ることをやめてしまったら生きていけないんじゃないかな。
そういった結論が成り立つと仮定するとさっきの何でも知ってる人はもう知ることができないわけだから
もう生きることはできないですよね
なんか話に生きるだの死ぬだの出てきておりますが
ここで何をつぶやきたかったのかといいますと、今この現時点、毎日、毎時間、毎分、毎秒知るということができる
この人生というのは間違いなく幸せなんじゃないかと。
そう思います、はい。
そりゃレポートだの試験だの人間関係だの嫌なことはありますが
それを含めた今生きている人生というのはなかなかどうして捨てがたいものであることには変わりないことだし
TIME AS GOES BY
それで良いと思います。我が人生の教訓です(笑)
以上まったく脈絡と文章力がない文章で失礼しました
ではつぶやき衝動も収まったことですので失礼します。