介護保険料の負担増



年金保険料の負担増



消費税の負担増



煙草の値上げ




国のお財布が寂しいから
税金が上がるのは
自然な原理なんでしょうが・・・









介護保険の改正がある度に
そんな行き当たりばったりな改正して
点数を上げたり変な加算をつけたり
骨格ってもんは、どこにもないんかい?

な~んて、思って吠えてたりしたもんですが







今回の年金保険料の上げで
ふと、思った。










実は、
毎年年末調整で受けている



生命保険料控除




個人年金保険料控除






これ、24年1月1日付で改正になるんです。









今までは
自分で払っている生命保険の

年間保険料10万以上=5万円の控除

個人年金保険料10万以上=5万円の控除






だったのが、





1月1日以降の契約については

生命保険料8万以上=4万円の控除

個人年金保険料8万以上=4万円の控除




と、


其々1万円ずつ下げられてしまうのです。







その代わり、

介護医療保険料控除


というのが新設されて


介護医療保険料8万円以上=4万円の控除






まぁ・・・

合計すれば、12万円の控除なので
控除額が増えたっちゃー増えた形になるんですが






介護医療保険料ってのは



日本人の90%は加入している生命保険の


死亡保障の部分は、生命保険料として


入院したら日額いくらとかの部分は、医療介護保険料として


分けて税制改正となるんですが




今、既に加入している保険に関しては

死亡保障と医療保障がセットでついているものは

生命保険料10万以上で5万円の控除という

現行のままの税制が適用されるんです。



1月1日以降の税制で、

死亡保障の部分について、8万円以上の年間保険料を払っていれば

4万円の控除が受けられ

入院日額等の部分について、8万円以上の年間保険料を払っていれば

4万円の控除が受けられる




しかし、既に加入している人は、現行のまま

更に、年間保険料で、

死亡保障で8万以上、

医療保障で8万以上

合計16万の年間保険料を払ってる人は

どんくらいいるんだろう?






みなさん、
年間保険料、今、いくらですか?









ちなみに、私が39歳で加入した生命保険
(実際は、今までの5万の控除だけど、例として)



<所得税分>

年間の支払保険料等控除額

LUCKY DUCKLING

死亡保障部分


月額6705円=年間80460円=40000円の控除



医療保障部分


月額5171円=年間62052円=35513円の控除







新制度の税制では

私は75513円の控除が受けられるんですが

50000円の控除のままなんですよ。

25513円分の控除が受けられないままなので




微々たるものですが

これが日本国民となると

実質上は大幅増税なんでね?






日本国

なんて姑息な事をするんだ(笑)










更に言えば
個人年金について言えば
単なる増税のみでしょ。





年収300万の人だったら
今までは個人年金保険料として、
6000円くらいが年末調整で戻ってきてたのが
来年以降の契約だと
4000円くらいになっちゃうのだ。







つまり、何もしないでいても
2千円多く税金を払う事になるのだ。



平成24年の税制が適用されるのは
生命保険(個人年金)の契約日が

24年1月1日以降の日付となるものなんですが

12月中に契約したものは
1月1日付の日付になっちゃうんです。





なので、個人年金をお得に入ろうと思ったら
11月中に契約をするか
12月中に保険料を口座引き落としじゃなく
銀行振り込みにする必要があるのですだ。










つまり・・・

自分で生命保険を用意しておいて
国の社会保障をできるだけ使うなよって事のように思えてならんのです。






年金も、来年から保険料引き上げるから
今年の内に自分で準備しておけよって
国が書いた筋書き通りに動いてるような気がしてならんのです。




やっぱ、国は、算盤づくで、税金を取り立てる方法を考えてるんですね、きっと。





全ては





自己責任







という言葉の拡大解釈と
欧米志向の反乱の皺寄せが・・・








なんだかなぁ・・・







ちなみに、平成24年以降に、新たな生命保険契約を結ぶと
現在既に加入している生命保険についても
新税制が適用される事になっています。






また、所得税については書いた通りなんですが
住民税についても同様に改正になるので
H25年の住民税から適用されます。









ということで
今月中に個人年金に入ってね♪
勿論、ミスラ保険事務所で(爆)















自分を知り、自分を信じる事だよ





私は、自分の事をどれだけ知っているんだろう?


身長、体重、3サイズ、好みの食べ物、学歴、職業

性格傾向、得意分野、趣味


履歴書に書くような事は分かってるが

それだけが、私?


ううん・・・違う。

それじゃ、私って、どんな人?





友人は、私の事をそれだけ知っているんだろう?


夫は?

妻は?

子供は?

母親は?

父親は?

上司は?

部下は?



子供は私の事を優しいと言う

上司は私の事をしっかりした社員だと言う。

母親は私の事を冷たいと言う。

父親は私の事をだらしが無いと言う。



みんな、言う事が違うじゃん・・・。




ってな経験、ありませんか?








ジョハリの窓という言葉を聞いた事があるだろうか




LUCKY DUCKLING



本来の使い方とは違う使い方をして説明するのだけど

自己には、「② 盲点の窓」と「④ 未知の窓」が

存在している事になる。



どんだけ訓練しても

②と④の領域を無くす事は不可能だと思いませんか?




つまり、どんなに頑張っても

自分の知らない自己というのは存在するということ。



他人から見た私と

私が思っている私とでは

必ずギャップがある。


それは、価値観や評価の基準が

人其々で違うから。



自論の極論を言えば

自分が知らない自分があっても

生きていける。

ただ、社会生活に於いて

人知れず苦悩する場面が増えるくらいかと。


ま・・・悩める本人にとっては

そこが知りたいところなんだけどね・・・。





では、どうやって自分を知るのか?


自分を知る心理学系のツールは

恐ろしく多く存在している。



それでは、それらのツールを使えば

自己が分かるというのだろうか?



答えは、勿論、NO なのだ。



ソクラテスさんも

ユングさんも

自分とは???

という永遠の課題に取り組み続けたけど

未だに誰もこの答えを持ってはいないのだ。




う~ん・・・

理屈をこねるのは

この辺にしておいて・・・(笑)






よく言われる

「自分の事は棚に上げて」という言葉


分かっていて棚に上げているのと

全く分かってなくて棚に上げているつもりもないのでは

行って来る程の違いがある。




分かっていて棚に上げている場合は

そこを指摘されても

「そうなんだよね」と答えられる事が多いけど

分かっていなくて棚に上げている場合は

そこを突っ込まれると

怒るか、否定するかの反応を示す事が多い。



ただ、大事な事は

指摘された事が、全て正解ではないと言う事。


他人が見ている私は

あくまでもその固有の相手から見た私であって

他の第三者から見た私は全く別の私である場合があるのだから。




だから、自分以外の他者から

「あなたって、こういう人よね」と言われても

それを受け取るも受け取らないも

選択する事ができるということなのです。



大切なのは、

悪意のある批判を

そのまま、自分ってそういう人間なんだと受け入れてはいけない

という事なのです。




自分を知る事についての

師の教えは


「あくまでも、反応でしか判断する事しかできないんだよ。

こういう場面では、多くの場合、自分はこういう反応を示す。

何故、そういう反応を示す事が多いのか

日常の中で自分で考えてみる。

そうすることによって、見えてくるものもある。

自分を知ると言う事は

生きている限り永遠に続くもので

それが生きているという事なんじゃないでしょうかね」




というところにいつも落ち着くのだけどね(笑)











人を信じるのではない。
其の人の言った言葉を吟味するんだよ。

信じるって事は、その人の可能性を信じるって事なんだよ。









人を信じるって、どういう事?
信じてる人って、誰?




当時の私は、誰も信じる事が出来てなかった。


信じても安全だと思えた人は
この恩師だった。




当時の私には
救いの神にさえ思えた。







さて
信じるの対義語は疑う


これは、国語でも習う常識。





言葉のイメージって大事で


信じるって言葉は肯定的でポジティブ



疑うって言葉は否定的でネガティブ




そんな風に感じる事はないだろうか。





それじゃ~
信じるってどういう事?



「本当だと思う事」



疑うってどういう事?



「本当かどうか怪しみ、不安に思う」







では、
あなたは、UFOを信じるか?





私は、UFOの存在を信じていない。


UFOの存在を疑うとは表現せずに
「信じない」「信じていない」と表現する。






それは、疑う余地も無く
私の中では、
その存在があるかどうかは
「問題ではない」のだ。







私の日常生活にも
未来の私の生活にも
UFOの存在は、何も影響を及ぼさないと思っているから
問題にはならないのだ。



とことん追求して、本当にいるかどうかを証明しようとも思わない。





そう・・・

つまり、
信じる⇔信じない
信じる⇔疑う
信じる⇔問題にしない
信じる⇔深く捉えない

という表現が可能になる。








これが、隕石だったら問題なのだ。

私の家を隕石が直撃する確率が1/10だと学者に言われたら
その言葉を鵜呑みにして、どうしようかと考え何らかの行動をとる事になる。

その学者に「でも、9/10は、外れるから、安心していい」と、言われたら
その言葉を鵜呑みにする事ができるだろうか。
その学者に「神を信じれば、直撃しない」と、言われたら、
その言葉を鵜呑みにするだろうか。
その学者に「アメリカが迎撃ミサイルを発射して、的中する確率は99.9%だ」と、言われたら
その言葉を鵜呑みにするだろうか。


多分、どれも、信じないだろう。




自分の身に危険が及ぶかもしれないと一度思った事に対しては
そう易々と信じないのである。


その反対に、自分で思った事(どれも信じられない)に対して
大いに信じているという事になる。


すると、私は自分の信じた考えに基づいて
自分の信じた事について、回答をしてくれる相手を探し
その人の言う事を信じるようになる可能性が高くなる。






この時、私は、その学者がどんな人物であるかは知りもしないし
どんな性格でどんな人であるかは問題ではないのだ。



この学者の全部を信じたわけでは無く
最初の「隕石が直撃するかもしれない」という言葉は信じて
それから先の言葉は信じていないのだ。


同じ学者の言葉なのに、ある部分は信じて、ある部分は信じない
という現象が起こっているのだ。

つまり、私は、ただ、学者の言った其々の「言葉」を「信じる」か「信じない」かだけなのだ。





どの情報が正しくて
どの情報がガセなのか見分けるだけなのだ。



と、理屈的には、こんな感じですが
実際の人間関係となると、どうか?ですが

人が信じられないという状況に陥った場合

多くの場合
「その人を信じたい」という気持ちが根底にある事がある。

「その人と円滑な人間関係を結んでいたい」
「自分の価値を下げられるような関係にはなりたくない」
「私は正しい。間違っているのは、あなた」

という感情に支配される事も多い。




私は、今までのお仕事で
常に思っていた深層心理

「援助職ともあろうものが、そんな事でどうすんの?」





まぁ・・・
こんな事を思うのは、私くらいかもしれませんが
自分の思った通りに周囲の人々が動いてくれないから
ストレスを感じてたんですね。



でも、思い通りになるはずなんてない。

相手を信じても、そういう関係に於いては

「信じた私がバカだった」という結論に陥るだけだ。




あの頃、
事業所のほぼ全員から
糾弾された私は
自分の味方になってくれる人を欲していた。

常に助けを求めていた。



でも、今から思えば
私の事を信じて!と、叫んでいたのかもしれない。




そう・・・
ここがそもそもの間違い

「私を信じて」と、相手にすがる必要なんてないのだ。




私という人間を信じてなんて
そもそも私を知らない(私が相手を知らないように)人々に
私そのものを信じてもらおうってのが危ない考えだったのだ。





信頼関係を結ぶという言葉が
常に付きまとった業界。

相手から信頼されなきゃ話もしてくれないから
必至なんだけど
信頼関係ってのは
そもそも相互関係だから
自分が利用者さんを信じてなけりゃなんない。




でも、利用者さんを信じるって、
その人の人間性に着眼してないんだよね、当然。



その人が、支援経過の中で
よりよく生きていけるって事を信じて支援してるわけで
その人個人を信じる信じないの世界ではないのだ。



だから、相手から、信じてもらうって事は
自分も、相手の行動と言動を信じるという前提が必要になる。


じゃぁ、私は、事業所のスタッフたちを信じていたのか?



NOなのだ。




信じてないから、受け入れられなかったのだ。


私の中で、信じるに値するような仕事ができる人がいなかったからなんだけど
今から思えば、何て傲慢な考えだったんだろうと・・・。



相手がいつかは理解してできるようになる可能性を持っていると
信じる事しかできないんだって
今になって思う。



更に言えば、
最終的に、相手が、見事にその可能性から外れてしまったとしても
それって、私の人生にとって、どんだけ大きな出来事なんだろう?


殆ど、関係の無い事なんだよね。







まぁ・・・いつものように長くなっちゃったけど
これを先生の教えと今までの経験から
私の言葉で表現すると


人なんて信じるも何も、その人の事、あんた、知らないでしょ?
その人の何を知ってるってーの?
人を信じるってのは、そんな薄っぺらいものじゃないんだよ。
だから、その人の言った言葉を信じるか信じないかしかできないんだよ。
その人の言葉と行動から、その人の可能性を信じるしかできないんだよ。



そして、一度、その可能性を信じたら、疑わない事だ。

その結果、うまくいかなかったとしても、自分の可能性までを否定してはいけないんだよ。





信じてもいい人なんて、実は、いないんだよ。
だって、あなたは、その人じゃないから
その人の気持ちの変化をリアルタイムで知る事はできないでしょ?


その言葉の奥にあるものを見極めようとする事しかできないんだよ。



ただし、見極めようとするだけで
決して、批判、非難、批評をしない事だよ。
そこで批判の心が動くから、苦しくなるんだよ。



そして、何を信じて、何を信じないかは
人其々違っていい。


だって、人間って生き物は
それぞれ自分の都合のいいようにしか
物事を信じないという習性なんですもの。








私には、人生の転機を与えてくれた
運命の出会いがあります。




その人がいなかったら
今の自分の考えは存在しなかったと言っても過言ではありません。





その人は、
ブログにも何度か登場している
私の恩師





今年でいくつになったのかなぁ・・・
もう80近いんじゃないかしら。
今も元気でやってるみたいだけど
今年は、まだ、電話もしてないなぁ・・・。






さて、彼との出会い。

人生の様々な場面で悩める私は当時27歳
家庭問題、舅姑問題、夫婦問題、DV、子育て
生い立ち、結婚、離婚、病気、障害、手術
借金、感情、対人関係、拒食、希死念慮
職場改善、援助方法・・・全てに迷い、悩んで、病んでいた頃
カウンセリングを通して出会い、
翌年には、カウンセリングが上達しない
先生のようにできないと
思い悩み言葉を失って行った私。





何度も何度も指導され
何度もカウンセリングを受け
何度も同じ事を教えられ、叱られ・・・






「どうすれば、先生みたいになれるの?」
と、自棄になって言った私に






「そうですねぇ・・・あと、20年もすればできるんじゃないですか(笑)」


「え~~~~~~~
あと20年も先ぃ?
やっだーーーーーー
47だよ、47、オバサンになっちゃうじゃん。
もっと早くに、このトンネルから抜け出したいよぉ」






「47でカウンセリングが分かれば早いほうでしょう。
私なんて、40を過ぎてカウンセリングを学んだんですから。
それに比べたら、あなたは早いうちにカウンセリングに出会ってるんですよ」









先生
その20年が経ち
やっと、先生の言葉の意味が分かってきたような気がします。




20年と言う長い歳月の間に
何度も何度もくじけて
色んな経験を積んで
先生の言葉を深く深く噛み締める人間になってきたようです。






・・・悔しいけれど
本当に20年を要したらしいが
厳密に言えば、17年じゃ。
やった~先生に勝った~♪(爆)











彼が私に言った事





「この世に“たらればもしも”は、存在しないんだよ」



「関係性の中に於いて
常に、相手の立場で“もしも”を考えていくんだよ」


この矛盾しているかのような言葉の中に
対人援助の基本があるなんて
当時は気付きもしませんでしたが・・・。








「もしも、私が○○のような働きかけをしたならば
クライアントは●●のようになるだろうか」






「これを日常生活の中で使えばいいんです。
カウンセリングは何も面接ルームだけで使う必要はないんですから」







まぁ・・・
気付いても分かっても
なかなか未だに日常の場面で
この考え方を実行できないんですけどね(爆)









゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆







言の葉遊び ~哲学しよう♪目次~ 





其の壱
「人を信じるのではない。
その人の言った言葉を吟味するんだよ」

其の弐
「自分を知り、自分を信じる事だよ」

其の参
「あなたが、そう思っているだけでしょう」

其の四
「人間はね、関係性の中に於いて、生かされているんだよ」

其の五
「言葉は額面通りに受け取る。
そして、言葉のどの部分を捉えるかなんだよ」

其の六
「一期一会なんですよ」

其の七
「私の信念はね、“信望愛”なんだよ」

其の八
「何事も中庸が大事なんですよ」

其の九
「経験が大事なんですよ」

其の拾
「物事を善悪で判断しない事です」

其の拾壱
「過去と他人は変えられない」

其の拾弐
「自分の意見や価値観は常に変わっていい」

其の壱参
「あなたは変わらない」

其の壱四
「I'm OK,Your OK」

其の壱五
「受け入れて、許す」


゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆



まだまだ沢山の教えがありますが
とりあえず、15回のシリーズでお送りしたいと思います☆                                    





ACの特徴的な生き方のチェックリスト
再発防止にもなるもので
自分の今の生き方を見つめるのに役立つ
今、自分が抱えている課題は何かを考えるのに役立つ




ただし、回復の為に何よりも大事な事


「完璧な回復」など、有り得ない
「完璧な人間」など、存在しない


これにいくつ当てはまっていても
それは、いけないことではない

すぐに直さねばと考える必要もない





コントロール
・不安を避けるため、人を操ったり、その場を操作したり、ものごとをコントロールする
・感情を出すのが不安で、おさえつけたり、無視したりする
・困っている人をみると何かせずにはいられない気持ちになる



人の境界に踏み込む
・他人を尊重しない
・他人の境界を越えて、ずかずか入り込む



他人を何とかしようとする
・自分に焦点を当てるのを避けるため、他人にばかり目を向ける
・自分の力を見せたい為に、他人の事に首を突っ込む



かたくなで融通が利かない
・他人のアドバイスに従えない
・いつも「正しく」なければならないと思う
・オール・オア・ナッシングの考え方(白黒思考)をする



助けを求められない
・あらゆることは自分の責任に掛かっていると感じる
・他人を信じて任せる事が出来ない
・助けを求めるのは弱さのしるしだと思う
・恐れから、助けを求める事が出来ない



信頼出来ない
・自分だけを頼りにする
・なんでも自分だけで抱え込む
・人と親しくなる事ができない



刺激を求める
・危険にどっぷりつかって生きている
・平穏な暮らしは、空虚で退屈だと思う



自分のニーズが分からない
・他人のニーズや要求に応えるのに忙しくて、自分に焦点を当てられない
・自己評価が低いため、自分のニーズを尊重して満たす事が出来ない



危機状況になるまで問題に気付かない
・ものごとが破局を迎えるまで、問題の兆候やサインに気付かない
・現実を否認したり、過小評価する



自分を良く見せようとする
・内面の弱さを隠すため、気丈にふるまう
・弱さを見せたくないため、人から距離を置く



完全主義
・自己否定感を隠すための仮面として、完璧であろうとする
・完璧にふるまうことで、自分を良く見せようとする
・完璧でないと、自分がコントロールを失ってしまう不安を感じる



自己否定感
・自分は駄目な人間で、欠陥があり、価値が無いと信じ込む
・自分には能力が無く、生まれつきどうしようもない人間だと思いこむ



自分の感情が分からない
・どう感じているかキャッチできず、自分が何を求めているかを示すサインを見逃す
・ありのままを感じるとコントロールを失うのではないかと恐れる
・自分の自己否定感をさらけ出すのが怖い



理不尽な状況にも耐えてしまう
・理不尽な状況を我慢して、自分を犠牲に仕立てあげる
・他人が自分の境界を侵して侵入してくるのを許す
・自分を大切にしない



自分だけの力で回復しようとする
・周囲の力を信頼出来ない
・大丈夫なふりをする
・自分をコントロールしてうまくやろうとする
















アルコール依存症の家庭で育った人だけでなく
機能不全家族で育った人にも当てはまるものが多く
現在の自分が抱えている問題を見つけ出すリストにも使える。



A 私たちは孤立して、人々や権威を恐れるようになった。



B 私たちは人の承認を求めるようになり、
  そのために自分のアイデンティティを失ってしまった。



C 私たちは怒っている人や、あらゆる個人的批判におどおどしてしまう。



D 私たちはアルコール依存症者になるか、依存症者と結婚するか (あるいはそのどちらでもあるか)、または見捨てられた自分のニーズを満たすために 仕事中毒などの脅迫的な傾向に陥りやすい。



E 私たちは被害者の立場で人生を生き、友人関係、恋愛関係においても 同じような弱さを持った人に引き付けられる。



F 私たちは責任過剰で、自分のことより他人のことをかまっている方が楽だと感じる。そうすることで、実は自分の問題をじっくり見つめなくてすむようにしている。



G 私たちは人意向に従わずに自分の意見を通すと後ろめたさを感じる。



H 私たちは刺激に依存するようになった。



I 私たちは愛と同情を混同して、「哀れ」んで「教える」人を「愛す」傾向がある。



J 私たちは傷つきたくないために、困難だった子ども時代の感情をずっと抑圧してきており、感情を感じたり、表現したりする能力を失っている。(否認)



K 私たちは自分に厳しい審判を下し、自己信頼が極めて低い。



L 私たちは見捨てられる事を極端に恐れる依存傾向を持ち、捨てられないように人間関係にしがみつく。それは、情緒的にかまってもらえなかった見捨てられ感を再び味わいたくないからである。



M アルコール依存症は家族病であり、私たちは酒を飲む飲まないにかかわらずこの病気の特徴を身につけ、疑似アルコホリックとなっている。



N 疑似アルコホリックは物事に反応する。自発的に行動するのではなく。







これらのリストは
いくつ当てはまるからどうとか
そういう事を決めるものではなく
何となく抱えていた「生きづらさ」は
機能不全家族のもとで育ったからなんだと
過去を受け入れ、その時の感情を感じ
怒りや恐れ等の感情を受け入れるための
最初のステップにしか過ぎない。


勿論、程度の差はあれ
多くの人が、この中のいくつかに当てはまる。

しかし、程度の問題なのである。
ACは、「極端に」なのである。



我々は、本当の自分を否認し続けるかもしれない。
だから、このリストに当てはまるような部分は
自分にはないと自分に嘘をつく事もできる。



ACだからといって、
別に何かが変わるわけでもないし
それが分かっただけでは
回復できるわけでもない。




AC概念は、なんでもかんでも
親のせいにして責めて終わるのではない。
その先が肝心なのである。







自己啓発等で
肯定的な思考だけを表現する。

自分の否定的な事や過去をほじくり返しても
意味が無いという考えをする事もある。


それは、健康な人に限っての話しなのである。
心身ともに全くの健康な人など
ほんの一握りなのではなかろうか。


大なり小なり、人は傷を持っていて
誰にも言えない過去なんて
誰にでもある。


問題は、程度なのである。
日常生活が生きづらい
いつも同じようなパターンに陥る
そんな事を繰り返している。



子どもや家族、仕事の問題が表面化していて
それに追われるばかりに
自分の問題に向き合わないようにしているなんて事は
ザラにあるはなし。


大切なのは、「自分はどうなのか」と
自分に焦点を当て続ける事なんじゃないかと思う。









この業界で仕事をしていると


年寄りが好きなのが当然・・・みたいな考えを持つ人に出会う。



自分だけ勝手に好きでいてくれれば害は無いのだが

私にまで、それを強要しないで欲しい。


私は、年寄りフェチでは無いので。



保母さんとかになる人は

子供が好きだから、この仕事を選びました的な発言をされる事があるが

それは、相手が子供だから許される発言なのである。


日本人の概念として


子供=可愛い


が、成立しているからである。


しかし・・・最近は、この概念も崩れつつあるが・・・。



高齢者≠可愛い



高齢者で可愛い人ってのは、実際に存在するが

あまり多くは存在しない。


この業界で、高齢者が好きだから、この仕事をしているという人は


要介護状態の高齢者=可愛い


なだけだろうと私は思ってしまう。


健常な、もしくは、病気や障害があっても自立した生活を送っている高齢者を

対象にしての答えでは無いように感じるのである。


もしくは、子供の頃、自分の身内のおじぃちゃん、おばぁちゃんが好きだった


という感覚からくる「好き」なんだろうと思うのだ。




福祉分野は、

乳幼児、学童、障害児、障害者(身体、知的、精神と細かく分かれている)

難病、貧困・・・等々細かく分かれているうちの

高齢者福祉を選ぶ人が多い理由は

単純です。




働く施設等が、一番多いから。


障害を持つ人相手に真剣に向き合って仕事をしたら

自分の身が持たないかもしれない。

難しそうだし。




でも、高齢者なら、いつか、自分もなるし

身近にいる存在だから、手っ取り早い。


ヘルパーの資格も簡単に取れる。

全行程の授業に出席さえすればいいだけだし。






こういう意識で高齢者福祉に携わる人が増えている。





面接で、

「高齢者が好きですか?」と、訳の分らん質問をされると

とりあえず、考えたことも無いから

「はい」なんて、返事をしてしまう。






まぁ・・・

そんなもんですよ・・・。





そこを見抜けずに、

「年寄りが好きだから、この仕事をしてるんだろう」

なんて言われた時は



「年寄りが好きな訳じゃありません。

何も高齢者に限定する必要も無く

人間が好きなだけです」

と、答えるようにしているんだが

厳密に言えば、それも違う。



どんなに努力しても

この世の中には、大っ嫌いな相手がいる訳で

勿論、担当している利用者さんとか家族でも

苦手なタイプがいるのですよ。



聖人君子でもなけりゃ

天使でも神様仏様でも無い

ただのオバサンですからね、私はあはは




「子供が好き」は、

女性が発言すると、優しい人に思われやすく

男性が発言すると、子煩悩で家庭的と思われる。


「年寄りが好き」も、同じ感覚なんだと思う。


「女が好き」と、

男性が言ったら、当たり前の自然な事であるにもかかわらず

変な目で見られ兼ねない。

女性が言ったら、もっと変な目で見られる可能性がある。


「中年が好き」と、

男性が言ったら、オバサンキラーかと思われるかもしれない(笑)


「青年が好き」と、

女性が言ったら、色情だと思われるかもしれない(爆)




まぁ・・・何が言いたいのかと言うと


年代や性別に関係なく

自分と同じ人間として

年老いた人に対しても、

大事に思っているから

この仕事をしている。


ということ。



嫌いな年寄りも中にはいるが

好き嫌いでは無く

一人の人間として、

一つの命として

残された人生の時間の中に

一緒に居させてもらう


ただ、それだけのこと。










小規模多機能型居宅介護におけるケアマネジメントの視点


                         

ケアマネジメントの視点


居宅のケアマネジメントと流れ的にはほぼ同じ。

契約⇒アセス⇒原案作成⇒担当者会議⇒本案作成⇒説明・同意・交付

⇒サービス実施⇒モニタリング⇒ミーティング又はカンファレンス⇒必要な変更⇒請求業務



在宅において支援する居宅介護支援と

小規模多機能の居宅支援との大きな違いは???



全国小規模多機能型居宅介護事業者連絡会が作成した

ライフワークサポートのガイドを読むと、こう書かれている。



「可能な限り自宅や住み慣れた地域の中で暮らし続けるための支援を行う」ことが小規模多機能型居宅介護の役割です。
「どこで、どのように暮らしたいかを支える」ことが目的です。また利用者、家族のその時々の変化(身体的・精神的等)する状況に対応できなければ居宅での暮らしは成り立ちません。

とりわけ、認知症の人の様態は変化しやすく、その変化に対応するためには柔軟さが必要となります。
⇒24 時間の個別的な地域生活を支援するためには、状態や状況の変化に柔軟かつ即対応が支援のポイントになる。
このような柔軟で即時的対応を可能とする小規模多機能型居宅介護でのケアマネジメントを、これまでのケアマネジメントと混同しないために「ライフサポートワーク」と言います。






1)ケアマネジメントの視点
これまで、自分で朝ごはんを作り、着たい服を着て、行きたいところに行く。

そんな思いのままの暮らしをしてきた方が、介護が必要な状態になると突然、これまでと全く異なった暮らしを余儀なくされる。

しかしどうでしょう。

自分の力を可能な限り発揮し、人生の最後まで自分らしく暮らすことはできないのでしょうか。

あれもできない、これもできない、そういう想いになっては生きる気力も出てきません。

人は多少、課題があったとしても、その人らしい目標を達成することはできるはずです。

課題のための課題を抽出し、課題克服のための策を練るのではなく、克服できないことがあったとしても、ちがう手段や方法を考え、自己実現のために必要なことは何かを探す(支援する)ことが重要ではないでしょうか。

そのためには、自己実現という目標を掲げ、どのようにしたら実現できるのか、場合によっては目標自体をブレイクダウンしていくという発想も必要です。

また、自己実現するためには、数多くの選択肢が存在し、支援の仕方も多様にあります。

本人の暮らしは、日々変化し、今日やりたかったことが、明日には変わるとこともしばしばです。

本人が今、どうしたいか、何をしたいかを聞き、実現したいことに向けての支援方策を一緒に考えることが重要です。

達成した喜びを得ることができる目標を、確実にどうすれば実現できるのか、ご本人も含んだチームで考え実践することから始まります。

もうちょっと手を伸ばせば実現できるという、目の前の目標への取り組みの積み重ねこそが重要です。
目の前の目標を達成することで、生きる喜びを得、認知症による喪失感や焦燥感、孤独感をやわらげ、本人も家族・介護者も自信をもって暮らすことができる支援が大切です。




ケアマネジメントの視点は、居宅と何ら変わりはありません。

居宅ケアマネも、その人がその人らしく在宅で生活できるように支援していきます。

ICFの考えを元に、目標の設定やサービスの位置づけを行っていきます。

居宅ケアマネに出来ないところは↓↓↓↓↓の部分


「本人の暮らしは、日々変化し、今日やりたかったことが、明日には変わるとこともしばしばです。

本人が今、どうしたいか、何をしたいかを聞き、実現したいことに向けての支援方策を一緒に考えることが重要です。」



「今、どうしたいか」

「今、何をしたいか」

この、「今」というものに対応する事は、居宅サービスでは非常に難しいのです。



何故ならば、「ケアプランありき」「計画書ありき」「基準に沿った運営」

これが居宅サービスの軸になっているからです。



そして、何度も出てくる言葉として、「柔軟な対応」というものがあります。

つまり、「計画書ありき」の居宅サービスでは限界がある部分も

小規模多機能であれば、「柔軟に対応できる」ということになります。






全国小規模多機能型居宅介護事業者連絡会HPより一部引用












バンテージダイエット【特別付録 バンテージバンド付】~夜3分間のバンドエクササイズで即効美腰・美脚!~
¥1,575
Amazon.co.jp


5×10 All the BEST! CLIPS 1999-2009 [DVD]
¥3,552
Amazon.co.jp








小規模多機能型居宅介護におけるケアマネジメントの視点





                        

居宅介護支援と小規模多機能型居宅介護では

インテークからアセスメントまでの流れはどのように違うのでしょう。





2)出会い
「出会い」では、事業者は、高齢者にとって本当にサービスが必要なのかどうかを判断する必要があります。

また、高齢者自身からみて、この事業者に自分の支援を依頼するのかどうかを判断してもらう重要な機会でもあるということを忘れてはいけません。
そのためには、まず共感的理解が求められます。共感的理解とは、本人や家族が、どのような状況であっても、その思いを受け入れ、理解することによって関係を形成しようとすることです。
よって、事業者が、自分の価値観を押し付けて、「こうすべきだ」という常識や一般論で考えていると、双方向の関係が作れないままで共感は生まれません。



3)アセスメント(「あきらめない」かかわり)
~最期まで変化するその人を理解し続けていくための継続的なかかわり~
アセスメントとは、課題をあぶり出すことではありません。

本人の持っているエンパワメント能力、セルフケア能力をはかる機会です。

アセスメントとは、いうなれば分析的理解です。

ですから、訪問した日の一断面を切り取って見るものではなく、プロセスを重視します。

今の状態で課題を解決しようとするのではなく、社会との関係性も含めてこれまでの暮らしはどうであったのか、今はどのような状態なのか、これからどのようにしたいのかを暮らしの連続性の中でとらえ、分析することが求められます。

利用者や家族から得た情報がなぜ必要なのか、その情報が何を意味するのかを十分に考える必要あります。

その情報が今の暮らしやこれからの暮らしの中でどのように役立つのかを検討します。

聞き出すだけ聞きだして、根拠なく「通い」や「訪問」のサービスを当て込んでしまうのは間違いです。
アセスメントで重要なのは、自分(事業所・わたし)自身を知ることです。

自分の強さを知り、また弱さを知ることで、自らできること、できないことがわかり、できないことに対しては、これまで以上に関わりを深くもつことの必要性を理解し、チームの一員である仲間の力を借りたりする工夫が生まれます。

アセスメントとはチームで行うものです。
ここで言うチームとは、専門職だけでなく、本人、家族、地域も含めたチームです。

自己実現(目的)をチームで共有し、多面的にとらえることで、自分だけの主観的な捉え方から、チームとして客観的に捉えることにつながるものです。

アセスメントでは、継続的な関わりをするための「関係づくり」の成否によって、得られる情報も変わっていきます。

関係づくりが重要なのは、高齢者からすれば、人生の最後をこのケアマネジャーや事業者に託すことができるのか、全幅の信頼を寄せることができる存在になるのか、そのことが高齢者の人生を大きく左右するからです。

ケアマネジャーや事業者の関わり方によっては、本人自らの生きる力を引き出すことができるようになる場合と、本人の力を奪ってしまう場合があります。

高齢者が人生を託すという決定をするのであれば、ケアマネジャーや事業者は託される責任を実感し、自分自身が担うことができるのかどうかを自己分析する必要があります。
ここでアセスメントする際のポイントを挙げてみます。

関わるということを大切にする事によって互いの関係は深まり、自分の理解者・共感者を実感することによって、生きる力が強化されます。

結果を求めすぎない、急がないことも必要です。
サービスをあてがうのではなく、関わりのプロセスの中で、解決策を見出していくのであり、単に短絡的な課題を解決することに重点をおくのではなく、継続するプロセスの中で本人の自己解決能力を引き出していくことが大切です。




確かに・・・

おっしゃることは、よく分かります。

しかし、居宅介護支援のアセスも、本来、あるべき姿は同じです。

課題分析=アセスメントなので、分析的理解は言うまでもありませんし

あるがままの受容、共感は、何も小規模多機能型居宅介護だけに当てはまるものでもありません。


問題は、この「当然」の事が、実は、とても難しいという事です。



居宅介護支援の現状との違いは、

「プロセス重視」「地域との関わりに重点を置く」ということでしょうか。

サービスありきになってしまいがちな居宅介護支援ですが

これは制度云々というよりも、ケアマネ本人の資質と事業所の姿勢で

本来のケアマネジメントが功を成さないのだと考えられます。




  全国小規模多機能型居宅介護事業者連絡会HPより一部引用