昨日に続いて「経験」の重要さに関しての話です。
経験にも色々ありますが、その中でもインプットよりアウトプットが大切という話をよく耳にします。
これは実際その通りで、自分の中に何かを吸収する経験よりも、自身の外側に何らかの形で表現するほうが労力がかかりますし、経験値としてより多く獲得できるのも頷けます。
しかし、本当に重要なのは「能動性」ではないかと思います。

同じインプットでも、能動的なものか受動的なものかで、経験としての価値に大きく違いが出ると思います。
例えば、動画を見る際、一度再生してしまえば終了するまで勝手に流れていくので、こちらは何もしなくていいに等しい状態で、受動的な経験の最たる例かと思います。
同じインプットでも読書の場合は自らページを捲らないと進みませんので、かなり能動的なインプットといえると思います。
動画視聴の場合も、気付いたことをノートにまとめながら見るなど、意識次第では能動性を持たせることもできますが。

受動的な経験が悪いわけではないのですが、そればかりだと蓄積されるものばかりが増えて、消化不良を起こしてしまいます。
よく言われる情報疲れも同じような理屈だと思います。
また、近年どんどんと手軽に楽しい経験ができるようになっていますが、多くがあらかじめ用意された「楽しい」を受動的に受け取れる仕組みになっていると思います。
先程の例の動画もそうですし(YouTubeとかTikTok)、フェスなどのプログラム性のイベントやテーマパークなども該当すると思います。
それも勿論貴重な経験ですが、偏り過ぎると幸せな人生を送るために必要な力が備わらないおそれがあります。

私の人生論の中でも、かなり根底にある部分なのですが、とにかく能動的な生き方をどこまでできるか、それをしてきた人とできていない人とで、人生の見え方が変わってしまうように思います。
能動的な経験が少ないと、結局上記のような受動的に、簡単に手に入る快楽の誘惑に負けて、ズルズルと経験値を得る機会を逃していきます。
与えられることに慣れてしまった人に、自分自身で自分の人生を切り拓く力が備わるでしょうか?
それができない人生が本当に幸せでしょうか?
能動的な経験も多く積むことで、自らの足で幸せの道を歩いていけるようになることが重要なのではないかと思います。

自然を相手にする時、私達は常に能動的になります。
自然が何らか意図的に我々に訴えかけることはなく、我々自身が読み取ろうとするのです。
アウトドア活動は、たしかに危険で、面倒で、思い通りにならないことが多いですが、その分アウトプットに溢れています。
大きな学びを得られる機会、本当に「楽しい」気持ちを味わえる機会であることを多くの人に理解してもらいたいですね。