救われたいって、甘えだと思うので、救われたいなんて、ほざきません。
どんなに、苦痛に苛まれようと、
どんなに、絶望に襲われようと、
どんなに、不条理に踏み躙られようと、
己の意思で、臨みます。
敗北しても、己の勝利に為に何度も何度も立ち上がるのが美しいと考えるからです。
確かに、己の闘いの最中、仲間が手を差し伸べてくれる時があるかもしれません。
その手を弾く必要はない。
また、力を認め、力を認められている仲間に助力を請うのことも悪ではない。
ただ、私が否定したいのは、己が危殆に瀕した時、思考を停止し、行動を停止し、怠惰に他力本願になる様です。
救いを求めることが、怠惰に他力本願になる様と等号で繋がるわけではありません。
しかし、私が見受ける限り、『救われたい』と口にする人間は、ただ、怠惰に他力本願になってるだけの様に見えます。
私はその様な人間を見ると嫌悪に襲われます。
私は、自分自身を嫌悪したくありません。
だから、私は救われたいなんて、口にはしません。