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haiko-riderのブログ

2010年春から現在まで、趣味で廃校休校巡りをしてます。
これまでに訪れた校舎や思い出を記事にしてます。
無分別な廃墟探索とは全く異なりますので、誤解無きように。

糸魚川市(いといがわし)は、新潟県最西端、日本海に面し

上越地方に位置する市です。

2005年(平成17年)3月19日 旧・糸魚川市、西頸城郡能生町及び

青海町が合併して、新・糸魚川市が発足しました。
糸魚川静岡構造線(フォッサマグナ西端)が通り、日本の東西の

境界線上に位置しています。
世界有数かつ世界最古のヒスイの産地で、景勝地の親不知でも

知られています。

 

さて、今回は糸魚川市の廃校休校巡りですが、具体的には上図の通りです。

過去に訪れた小学校や初めて訪れた秘境駅も一部含まれていますが、

ご了解ください。

糸魚川市は、かれこれ10年振りの訪問となりましたが、過去の記事は、

新潟県上越市、糸魚川市の廃校休校巡り(2014/08/12-13)

 

関西から北陸自動車道を北上、能生IC下車後国道8号を日本海沿いに

北上します。

糸魚川市最北の徳合(とくあい)集落を目指し、県道431号(仙納徳合線)に

折れて進もうとしたところ、入口で通行止めの看板です。。

地元の方にバイクでも通行可能かお聞きしましたが、土砂災害で道路が

埋まっていて無理とのこと、看板の指示のとおり、筒石駅方面へ大きく

迂回することとなりました。

 

地元の方によれば、筒石駅は秘境駅で有名とのこと、せっかくなので

立ち寄ってみました。

 

駅舎は、波板屋根にプレハブ小屋のような簡素な造りです。

 

筒石駅は、新潟県糸魚川市大字仙納(せんのう)字大谷にある、

えちごトキめき鉄道日本海ひすいラインの駅です。

 

駅舎ではなく、電車に乗るまでの道程とホームの位置が

秘境駅たる所以です。

ホームは40m下のトンネルの中にあるのです。

 

改札からホームまでは、暗いトンネルが続いており、約300段の

階段を下りて行きます。

日常で利用している乗客はおられるのでしょうか。。

 

駅舎までは猛暑の中、汗だくになって辿り着きましたが、

トンネルに入ってからの気温は20度弱と涼しく、快適でした。

(冬場は寒さが厳しいと思います。)

 

途中で上りと下りそれぞれのホームへと分岐しています。

改札から下りホームまでは290段(176m)、
同じく上りホームまでは280段(212m)あります。

エスカレーターやエレベーターは設置されていません。

 

ホームへ入る際は、頑丈な扉を開けなければなりません。

扉は、列車の風圧にも耐えられるようになっています。

当日は、鉄道マニアらしき人たちを数人見かけましたが、

日常生活で利用する方は見受けませんでした。

 

さて、筒石駅のトンネルで涼を取ったところで、徳合集落を

目指し進みます。

徳合のイラストマップが途中にありますが、今回は迂回して

いますので、国道8号からの最短ルートとは異なっています。

目的地は徳合公民館です。

 

徳合公民館は、民家のような建物です。壁や窓など改修した跡があり、

外観からは半世紀以上前に閉校となった校舎とは思えません。

 

2階建ての一般民家のような外観

 

玄関に立派な表札が掛かっています。

 

反対側から撮った校舎

 

校庭側正面から撮った校舎

校舎は2008年(平成20年)頃に改修されたようです。

 

こちらの玄関にも、縦書きの表札があります。

 

前庭の池は枯れて雑草が生えていました。

 

校庭の様子

 

沿道の石段を登ったところに、コンクリートの正門が2基立っています。

往時はこちらから通学していたのでしょうか。。

 

コンクリート製の国旗掲揚台とポール

他に学校跡の面影を残すものは、これくらいでした。。

徳合小学校(1969年閉校)

沿革をみると、

1874年(明治7年)公立第十六番小学能生校徳合第三分校として開校
1888年(明治21年)簡易科筒石小学校徳合分場と改称
1915年(大正4年)校舎新築移転
1947年(昭和22年)磯部村立徳合小学校と改称
1954年(昭和29年)町村合併により能生町立徳合小学校と改称
1969年(昭和44年)磯部小学校への統合に伴い閉校
磯部地区6校が統合(筒石、徳合、仙納、藤崎、大洞、百川)

統合先の磯部小学校は、全校児童26名(2023年度)と決して多くありません。

徳合小学校の閉校後は公民館として使用されています。

 

再び国道8号に戻り、能生地区まで南下、能生川沿いに県道246号を

進み、南能生小学校の手前を川詰川沿いに県道485号を東谷内方面へ

進みます。

途中の空地に民家のような建物が見えてきます。

かつての川上小学校跡です。

 

雪囲いの玄関を覗いてみると。

 

川詰公民館という大きな表札が掛かっています。

 

反対側から撮った風景

狭い校庭の隅に立つ大木が目立ちますね。。

 

反対側から撮った校舎

黒い外壁スレートで改修してありました。

 

校舎の裏側

 

校庭の様子

 

木の枝に覆われている滑り台

塗装はしてありますが、長らく使用されていないようです。

 

錆びたブランコ

支柱だけ残っています。

 

これはシーソーの支柱ですね。。

 

軒下にシーソーの板が放置してありました。

2連式です。

 

国旗掲揚台のコンクリート柱が残っています。

 

川内小学校(1962年閉校)

沿革をみると、

1883年(明治16年)開校
1908年(明治41年)能生谷村立川内尋常小学校と改称
1947年(昭和22年)能生谷村立川内小学校と改称
1954年(昭和29年)町村合併により能生町立川内小学校と改称
1962年(昭和37年)南能生小学校への統合に伴い閉校

分校のような建物ですが、後で調べたところ、現存しているのは、

校舎ではなく体育館だったようです。

校名は、校区である川詰と東谷内から一文字ずつ採って命名したようです。

学校跡の石碑等は見当たりませんでした。

現在は地区の公民館として活用されています。

統合先の南能生小学校は、全校児童15名(2023年度)、過疎少子化が

進行しています。

 

再び国道8号に戻り、糸魚川市街から県道221号を南下します。

川沿いに集落が点在していますが、川と川を横断するルートが無いため、

このように一旦、日本海側の下流まで戻り、別の川沿いに上流へと

進むことになります。

市野々小学校へ向かう途中の道平(どうたいら)集落の沿道に校舎を

発見し立ち寄ります。

 

コンクリートの校門に、南西海(みなみにしうみ)小学校の銘板です。

 

片方には、昭和58年3月竣工とあります。

校舎は1983年(昭和58年)、40年ほど前に建てられたのですね。。

 

鉄筋3階建てのしっかりとした造りです。

 

玄関の近景

 

木板の表札は、「ワークセンター にしうみ」

閉校後は、社会福祉法人が運営する施設となっています。

 

裏側に廻ってみると、校舎の隣に青い屋根の体育館も見えました。

 

体育館の全景

 

閉校記念の校歌碑

一、

川が呼んでるよ

ほうい ほうい 呼んでるよ

きらきら 光って流れる水は

ひろい ひろい世界をめざして走る

いっしょに走れ 海まで走れ

南小 南小 自由の子 われら

※校舎は日本海へ流れる川の中流域に位置し、

校歌の内容とピッタリ、夢と希望に溢れる想いが

伝わって来ますね。。

 

南西海小学校(2005年閉校)

沿革をみると、

1878年(明治11年)開校
1879年(明治12年)水沢校附属釜沢校と改称
1881年(明治14年)独立し、第一一小学区第八番小学釜沢校と改称
1897年(明治30年)釜沢校と田中校が合併し、南西海尋常小学校が開校
1947年(昭和22年)西海村立南西海小学校と改称

西海村立西海中学校本校を併設
1948年(昭和23年)新潟県立糸魚川高等学校定時制西海分校を併設

1954年(昭和29年)町村合併により糸魚川市立西海小学校と改称
1981年(昭和56年)糸魚川市立来海沢小学校を統合
1983年(昭和58年)新校舎竣工

1987年(昭和62年)全校児童47名
2005年(平成17年)北西海小学校とともに西海小学校への統合に伴い閉校

統合先の西海小学校の全校児童は55名(2023年度)です。

校舎は、2010年(平成22年)7月1日から、社会福祉法人奴奈川福祉会の

障碍者通所施設「ワークセンターにしうみ」として活用されています。
施設では、給食サービス、クリーニング、製パン、稲作・農耕、養鶏

などの事業を行っています。

体育館は、同年4月1日から、市の体育施設として再利用されています。

南西海小学校を後にして、目的地の市野々小学校跡に辿り着きました。

集落の北側の山奥にあります。

 

校門の白い表札は、劣化して判読が難しいですが、文字の凹みを

なぞってみると、「糸魚川市立市野々小学校」と確認できました。

 

木造の体育館が残っています。

 

正面にシャッターがあるのは、閉校後に農機具の倉庫として

使用されていたからです。

 

左側面は、外壁の2/3は肌色のトタンで補修されており、

こちらには大きなシャッターが取り付けられています。

校舎が接続されていたと思われます。

 

右側面には小さなシャッターがあり、通用口となっていたのでしょうか。

板張りの壁は往時の面影を残しています。

 

書物を耽読する二宮尊徳像

右足は鉄筋で固定されていました。

骨折されたのでしょうか。。

 

穏やかで優しい表情です。

 

創立百周年記念碑

 

銘板には糸魚川市長の揮毫で、「学びの庭」とあります。

 

市野々小学校(1981年閉校)

沿革をみると、

1881年(明治41年)創立
1882年(明治42年)水保校から独立し、第十一中学区

第八小学区公立市野々校と改称
1893年(明治26年)西頸城郡村立市野々尋常小学校と改称
1909年(明治42年)西海村立市野々尋常小学校と改称
1947年(昭和22年)西海村立市野々小学校と改称

西海村立西海中学校第二分校を併置
1949年(昭和24年)西海村立西海中学校の新校舎竣工により

第二分校が移転、統合
1954年(昭和29年)町村合併により糸魚川市立市野々小学校と改称
1981年(昭和56年)閉校

木造体育館のみ現存していますが、山奥にじっと佇む姿は畏敬の念を

覚えました。

 

引き続き県道221号を南下、県道225号に突き当たりますが、

そのまま県道526を直進、蒲池(がまいけ)地区に入ります。

実は10年前にも訪れたのですが、気になって立ち寄りました。

細く曲がりくねった道、集落から外れ、民家も無く心細い道を

進んだ先、草むらの奥に赤い屋根の廃校が姿を現しました。

10年前の感動が甦ります。

 

近付いてみます。

草地の奥に以前と変わらない2階建木造校舎です。

側面の外壁は補修跡があり、手前に校舎が伸びていたと思われます。

 

校舎の全景

外壁の板に穴が空いたり、囲いの塩ビ波板が破損したり、

サッシの窓枠が歪んだりしていますが、原形を留めています。

いつかは、山林に呑み込まれていく運命にあるのでしょうね。

 

玄関も羽目板で封じられており、人の出入りも無さそうです。

 

外壁の羽目板もズレています。

 

草むらに校門2基が見えます。

 

左側の校門の銘板をみると、開校70周年に閉校となったようです。

 

蒲池(がまいけ)小学校(1973年閉校)

沿革をみると、

1874年(明治7年)創立
1889年(明治22年)村立中根知尋常小学校と改称
1902年(明治35年)中根知尋常小学校を廃し、根知村立

上根知尋常小学校蒲池分教場を設置
1910年(明治43年)本校から独立し、根知村立蒲池尋常小学校と改称
1947年(昭和22年)根知村立蒲池小学校と改称
1954年(昭和29年)町村合併により糸魚川市立蒲池小学校と改称
1955年(昭和30年)新校舎竣工
1973年(昭和48年)根知小学校への統合に伴い閉校
統合先の根知小学校の全校児童は20名(2023年度)です。

集落からかなり外れた山奥にあるため、途中で不安になりましたが、

校舎が10年前と変わらず存在していることが確認できました。

再訪した甲斐があり、良かったです。

 

蒲池から先は行き止まりの為、県道225号まで戻り、根知駅付近から

国道148号を南下、小滝地区から今回の主な目的地、今井小学校

菅沼分校を目指します。

糸魚川市街からの南下するルートが一般的ですが、蒲池からは大きく

迂回となるため、小滝から北上するルートを選択しました。
林道は標高を上げていくにつれ、険しい谷が現れます。

 

舗装されていますが、ほとんど交通量が無く、初めて通るので

不安になります。

 

しばらく進むと、分岐路で「菅沼 地すべり防止区域」の看板が

目に留まりました。

 

看板をみると、菅沼分校跡の近くに来ていることが分かりました。

地図は林道から枝道へ入るよう示しています。

 

上図で赤線矢印の方向です。

 

枝道の入口には、上杉謙信公、武田信玄公像の案内があります。

 

案内の通り、30m北上すると、石像が2体並んでいますが、

苔生してかなり年季の入った様子です。

この地は、上杉謙信公、武田信玄公にゆかりのある場所なのでしょうが、

無学の小生には分かるはずもなく通過します。

ところが、この枝道は狭小で両側から茂った草木が行く手を阻み、

進むことが出来ませんでした。。

バイクを下りて、草むらを押し退けながら力づくで歩いてみましたが、

分校跡は見えず断念しました。。

 

仕方なく、林道に戻り糸魚川市街方面に帰るべく北上しましたが、

途中の不動滝キャンプ場付近の沿道で、さきほどと同じ看板を

見付けました。(薄汚れて折れ曲がっていましたが)

 

位置を確認したところ、この分岐路から南下して行く方法が

あることが分かりました。

それが、ピンクのルートです。よく見ると林道の途中、

三差路から入る、ブルーのルートもあったようですが、

入口に気づかずに通過したようです。。(上図参照)

 

先ほど草むらに覆われて通行できなかったルート(×印)と

今回のルート(〇印)は上図の通りです。

 

北上してきたところを鋭角に曲がり南下します。

アスファルトからダート道に入ります。
 

「塩の道」「菅沼」の道標が目印です。

これで何とか辿り着けるのでは、と希望が湧いてきました。

 

ダート道をゆっくり進み、陽が傾き始めた頃、森の中に

菅沼分校を発見しました!

 

苔生した石段をゆっくりと登ります。

 

2階建ての木造校舎です。

側面は肌色のトタンが被せてありましたが、往時は手前にも

校舎が伸びていたのかもしれません。。

 

紫陽花が鈴なりになって迎えてくれました。

自生しているのか、ここまで手入れに来られている人が

おられるのか分かりません。

 

周囲の平地はかつて校庭があった場所でしょうか。。

 

斜め後方から撮った校舎

廃村にじっと佇む、味わい深い木造校舎です。

1階の壁は囲い板やトタンで封じられており、ガラス窓は2階に

見えます。

1階は講堂、2階が教室だったのでしょう。

 

1階は資材やソファ、農具などが置いてあり雑然としていました。

 

外付けの階段から2階に上がると、教室がありました。

小さい机は、往時の児童が使用していたものでしょう。

 

行事予定表の黒板

使用されていたのは、昭和30年頃でしょうか、郷愁を誘います。

なぜか、古い足踏みミシンが置いてありました。

 

大きな机は先生用でしょう。

 

往時の面影を残す教室の様子

児童は一桁しかいなかったと思われます。

 

周囲の様子

建物は見えますが、すべて廃屋です。

 

周囲を見て周りましたが、往時のタイル張りの浴槽跡等が残り、

廃村になる前、村人たちが生活していた様子を垣間見ることが

できます。

 

このような立派な家屋もありますが、住人の気配はありませんでした。

 

ただ、マルチシートや支柱で育てられている野菜をみると、

無住集落となった後でも、通いで手入れをしに来られている人が

おられるようです。

 

今井小学校菅沼分校(1974年閉校)

沿革をみると、

1906年(明治39年)今井村立今井小学校菅沼分教場として開校
1941年(昭和16年)今井村立今井国民学校菅沼分教場と改称
1947年(昭和22年)今井村立今井小学校菅沼分校と改称
1954年(昭和29年)市町村合併により糸魚川市立今井小学校菅沼分校と改称
1955年(昭和30年)新校舎竣工
1959年(昭和34年)全校児童7名
1974年(昭和49年)閉校

初めて訪れましたが、林道から分校までの分かれ道が気づきにくいのと、

草木に覆われて通行不可能であったりして悪戦苦闘しました。

その苦労の果てに辿り着いた分校跡は、しっかりと往時の面影を

留めており、感無量でした。

菅沼集落はアクセスも悪く生活も不便な僻地のため、1989年(昭和64年)には、

すべての村人が離村、無住となったようです。

しかしながら、廃村となった今でも、山奥まで農作業に来られている村人が

いることに驚きました。。

 

夕方になり陽が傾き始めたので、糸魚川市街へ急いで向かいます。

8月とはいえ、18時になれば暗くなり、知らない道程は不安に

なります。

虫川という小川に沿って北上していくと、少し開けた集落跡に

遭遇します。

虫川(地名も虫川)には、今井小学校虫川冬季分校がありましたが、

1968年(昭和43年)に閉校、校舎は解体され残っていません。

菅沼と同じころに廃村集落となっています。

 

「西回り塩の道」の解説板です。

 

かつて、虫川集落には関所があり、上杉謙信が武田信玄に

塩を送った1567年頃に設置されたとあります。

これで、先ほどの迷い道で見たお二人の石像の所以が分かりました。
 

いよいよ糸魚川市街が近づいてきましたが、途中の西中(にしなか)

地区で廃校を見つけて立ち寄りました。

(実は10年前にも訪れていましたが、すっかり忘れていました。)

菅沼分校の本校でもある今井小学校です。
コンクリートの校門に往時の表札が残っています。

 

重厚な3階建て鉄筋校舎です。

自販機があるのは、閉校後も管理・使用されている証です。

 

右隣の建物は体育館です。

 

玄関の近景

 

閉校後は、職業訓練校として活用されています。

 

校章

校舎の裏側1(校庭側から撮影)

 

校舎の裏側2(校庭側から撮影)

屋上の照明塔が目立ちますね。。

 

校庭の様子

こちらにも照明塔が立っており、夜間でもスポーツ、行事等で

使用されているようです。

 

変わった形状のジャングルジムですね。。

 

支柱だけのブランコ

 

朝礼台

 

二宮尊徳像

 

読書に集中しておられます。

 

閉校記念の校歌碑

 

今井小学校(2013年閉校)

沿革をみると、

1875年(明治8年)創立
1892年(明治25年)今井村立今井小学校と改称。
1954年(昭和29年)町村合併により糸魚川市立今井小学校と改称。
1987年(昭和62年)全校児童49名
2013年(平成25年)糸魚川小学校への統合に伴い閉校
閉校時の全校児童11名でした。

10年前に訪れた際は、閉校になって間もない頃で、2階の窓に貼り紙が

「ありがとう これからも 仲よく楽しく本気でがんばろう 今井小」

とありましたが、現在は取り外され、職業訓練校として第二の人生を

送っていることがわかりました。