ヒゲソリストーリー, higesoristory, シェービングストーリー, リストア・ドゥ・ラサージ, L'histoire du rasage

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ひげ剃り、シェービングについて、ひたすら higesoristory が綴ります。

higesorystory tells you stories related to shaving.

 higesorystory vous raconte des histoires liées au rasage.

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それを、「出発意識」、と僕は読んでいます。

英語では、The Sense of Departure という風に、なりますでしょうか?

もしかしたら、「締め切り」(!) という言葉からは、発想しやすいのではないかな、と思っています。

いつまでに、これをしないといけない、これを提出して、どう進めて、などです。

あるいは、「何時何分に、間に合うように、いつ出発しないといけない!」 などもそうです。

もし、どこかへ出発する直前に、すこし焦り気味でバタバタしたくをする、というシーンが
あるとします。

その時というのは、結構ふだんより頭が回転していたり、体が緊張気味ではあるけど良く動く、であったり、キビキビしている、と思います。

そういった、「今、ここを出発するのだ」という意識もアリ、だと思いますし、

もっと静かに、ゆったりとした中での緊張感、

例えば、「大事な人と、駅のホームで、旅に出るときの別れの時間を過ごしている。やることは全て済ました。時間はあと10分ー15分、と、ある程度、ゆとりはある。ポツリポツリ、と何気ないけど、なんとなく大事な雰囲気のなかで、静かに会話をして出発待っている。」

そういった風な、「出発意識」もあるとおもいます。 (こっちの方が、僕的にはなんかいいな、、と思います。)

つまり、「その場所から離れて、違う場所へ行く。違うものを提示する。新しい時間を迎え入れる」それを、意識していること、

そいいうことを僕は、まとめて、

「出発意識」と呼んでいるのです。

英語圏の人と話すときは、The sense of departure, と言っています。

こうして総称として捉えたり、そのなかの良いイメージをつかんでいこう! と思うと、

わたしは自分らしく、いわゆる、「マイペース」でいこう、と思えます。

一方で、「締め切りがいつだ!」 「この時間に早く間に合わないと、絶対無理で、頑張ってそれから、」
(具体的なポイントなしなのに) 

などとは、僕の場合はあんまり考えたくない方です。それは、ぎゅっと力を絞り込んだときにできる、「集中力」だと思います。一方で、全体を見渡せている、落ち着いた集中力、という方が、僕は好きです。 

(ぼくはそれらを、「集中型の集中力」と「分散型の集中力」という風に分けてかんがえています。アイデアをもっと膨らましたい、きっかけをつくりたい、何かを自然にできる方向にして、習慣を身につけたい、そういう場合は、「分散型の集中力」、反対に、このアイデアを一気に形に仕上げたい、今までとは違う突破口を見つけたのでそこを突き詰めたい、もうできているイメージを体現化したい、そういうときは、「集中型の集中力」としています。)

そういう「集中型の集中」、緊急事態などは、くるときにはくるし、いざそのときは、存分に力を発揮したらよいとおもいます。

でも一日に何回も、一週間に何回も、ということをずーっと慢性的に、しかも、そういう違った意識の種類があることすら知らないで続けるのは、僕にはきついと思います。

少なくとも、もし選べるのなら、先ほどの、やや余裕がある、駅のホームでのゆったりした時間の流れの中での、「出発意識」を持てるようにしたいです。。。

その中で、静かな集中の時間を持ちたいと思います。


ー終わりをどう受け入れるかー


「出発意識」「分散型、集中型の集中」

いろいろ振り返ってみると、そこには共通点があります。

それは、「終わりがある」ということです。

出発、というと、始まり、という風に印象づけられるかもしれません。 そして、それは正しいと思います。 ただ、それは一つの区切りで、出発点は、終点、でもあり得ると思います。

こないだ、

始めれば、50%は、終わったも同じ

ということをお話ししましたが、

その所以でもあります。

つまりこの点においても、「物事を始めることは、なにかを終わって区切りをつけることでもある。そのくらいだいじなことだから、始めたことの50%は達成したも同然じゃないかね。」

ということです。

なぜ、ここでちょっと、「じゃないかね」なんておどけ気味で書いているか、といますと、

じつはあまり、正確ではないからなのです。


もうちょっと突き進めると、じつは違った捉え方ができます。

「既にやっていた何かを終えている」

「さらに新しいこと、これからのことを始めている」

「そしてそれが、時間とともに連続して経過している」

「その状態を語っている、という状態も一緒に進んでいる」

ということと、捉えられます。一部の最近の哲学では、「動的平衡」という観点でもあると思います。

こうして考えてみますとですね、

ひょっとこやろうとしていることの、50%どころじゃなくて、

ものすごく、奇跡的なことが起きている、ということ、

お分かりいただけますか?


そこまですごい現象が起きているのですが、

「ポン」と背中を押す、くらいのヒントとして、

「始めることができれば、50%は終わったのも同然さ」

として、なんか粋な感じで、
ちょっとワクワク感を秘めさしているんです。

ある意味では、ですね、

あなたに、

可能性を託しているのです。

といいますか、奇跡的な可能性が、

ちゃんと託されていますよ、

と、ほのめかしてくれているんです。


ではもう少し、違う角度から、ぼくは

何度でも書きますね。

奥山清行、というデザイナーの言葉なのですが、

「コミュニケーションにおいては、自分が思っていることは、そもそも25%も伝わっていない。だから積極的に表現しないといけない。それでやっと伝わるか伝わらないかだ。」 という趣旨のものがあります。

それ以上は、体験談などを通じて語られていたのですが、

すこし噛み砕いて、ぼくはゆっくりゆっくり考えました。

ぼくはこういう難しいことがなにぶん苦手なので、

ボケーっとしながらでも、言葉を暗唱して、ヨダレが垂れるくらいその世界に入って、

悲劇的なほどゆっくりゆっくりと、考えます。

すると、自分は、

「本当に小さい存在なんだな」とおもう。

悲しい、というか、虚しい。いることも虚しい。

それを受け入れること自身が悲しい。

「それでも伝えられるじゃないか」と思う。

「でもちっぽけな自分が、なにを」と思う。

そうして自問自答していると、自分と自分をゆっくりゆっくり行ったり来たりする問答の、

波に気づくのです。

では、そうやって、「問いと答え」をだれかとする、と考えます。

波が発信されて、相手に届く、届いた波が引き返し、戻ってくる、それからそれを逆に戻して、

それからそれをまた受け取る。

ポイントは、発信された時点で、(ホントにその時点で)届いたかどうかは、発信者には

わかっていない、ということなんです。

その波が引き返して初めて、

「あ、届いていたのか」とわかる。

しかしその時点で、波を返した相手は、

「返した波は、とどいているのかな」

と、わからないでいる。

そこで最初の地点から、もう一度戻して、ようやく始めて

「返した波は届いていたんだね」

と分かる。

この一連のことで、やっとこさ、一つのコミュニケーションなのです。

つまり、1つのコミュニケーションにおいて、

計、4回のやりとりが必要なのです。 (すごい厳密に分かろうとしたばあい。この話しでは波の例えで。)

だから、100% ÷ 4回 = 25% 

になるな、ということなんです。

それで、「コミュニケーションにおいては、自分が思っていることは、そもそも25%も伝わっていない。だから積極的に表現しないといけないんだよ。」 という趣旨なのか、と思うにいたります。

そのなかには、

「自分は25%をもつ終わりの地点、終着点である」

という覚悟が宿っているように思います。 


「終わりをどう受け止めるか」


という視点です。


ー ちくま文庫、赤本 「今をどう受け止めるか ー

そうして波の押し引きとして、時間とコミュニケーションをみたときに、

過去を受けて、どう現代を生きるか、という観点が生まれてきます。

ちくま文庫の、「赤い本」というのがあり、それは、高校のとき、
選択授業で、現代文の時間に使われていました。

その本のはじめの方には、ヒューマニズム系のエッセイや、表現についてのエッセイなどがあり、

詩も紹介されていました。

ですが、中盤から、後半に欠けては、戦時中の日記や、戦後に書かれた随筆文などが載せられていて、授業では、かわりばんこで音読をし、そのあとで先生の話をきいて、ノートをとる、ということでした。

「今日の授業、やばかったよな。。。」
「眠気も吹っ飛んじゃったよ。」

と授業の後では友達と話していました。

戦争が始まる時は、こういう風に、何と無く変な感じになるものなのか。

ゆっくり、確実に、冷静に、でもどことなくおかしな雰囲気でジワジワ始まっていくものなのか。

いろいろと自分なりに学んでいました。

それを受けて、どう生きて行く、などと考えて行動するほど僕は成熟していませんでしたし、あまりに昔のこと、のように思ってしまう癖がある。

押し寄せた波は、重くくすぶっていつようだったと思います。


ー 弓 ー

(これからの、音の波として)

これでですね、やっと終わりに近ずくのですが、

ぼくはバイオリンを弾くんですね。

押したり引いたりして、やるわけなんですが、

やはり音の始めの、発音、というのはポイントでですね、

「パー」 という風にパリっとでるのか、

「ファー」 とフワっとでるのか、

いろいろ吟味するところなんです。

やはりリズム、音程、音色、その発音、それからニュアンス(どういう意味か、味わいか)、音の湿気(しばしばビブラートの具合などを言います)、それから音階全体としての、明暗としての音色、表情(キャラクター、前後の物語によりますね。コンテクスト、といいます)、音量(ダイナミック、大きい音か小さいか)、

ちょっと思いつくものだけでも、

こんなにわんさかあるんですね。ポイントが。

これを、一個一個、達成に基づく練習ブロックを積んで、やって行くんですね。

そうしているとですね、どんどんと、

音の捉え方が、普通では無くなってくるんです。

体を動かして、音を出す。彫刻のようではあるのですが、形は見えないしその時点では消える。それでも連続して音楽は形も描いているんですね。

そこで、もうひとつ、とっても大事な要素が見えてくるんです。

絵画のばあい、なにに気をつけるでしょうか?

文章のばあい、なにに気をつけるでしょうか?

彫刻のばあい、どうですか?

、、、

余白、行間、空間、なんですね。

すると、音楽では、よく、

「間」(ま)

といいますね。

この概念は、進んでいる場、指導者なら、英語などでも、"ma" として通用するくらい、大事なんです。

弓で、音の終わりに向かって弾く。

どう終わるのか?

跳ねるようにして終わるのか、

しっとりとのびて、伸ばしすぎくらいで終わりたいか、

ドライに短めでおわるか、

終わったのか続いてるのかわからないくらいに、小さく弱く終わるのか、

それぞれが、

その音の事後、

沈黙を彫刻しているんです。

だから、音楽では、奏でて無い時の方が、影響が大きいんです。

みな練習が大事、というのですが、
どう沈黙、静けさをデザインできるか、

という問いでもあるんです。
ものすごい巨匠のレッスンで、彼/彼女の前で弾く時、インスピレーションを受けて、緊張するどころか新しい世界観をうけながら、弾くことができた。
これは一般的にあることなのですが、

それは、その巨匠の深い沈黙や深い静けさの一部分、人生の一部分に触れさせてもらえている、ということでもあると感じます。


ー それから ー


さて、ここまで読んでついてきてくだって、本当にありがとうございました。なにか、一つでもあなたに新しい発見や気づきがあったとすれば、ぼくはとてもうれしいです。

「それから」というのは、単純に僕の口癖で、何かに取り組んでいるときに出る、「よっしゃ」についでよく使う言葉です。(笑


あなたは、どんな言葉を口ぐせにしていますか?

そして、一日のはじまり、

その時に、「出発意識」をお持ちですか? どんな「出発意識」でしょうか?!

一日のおわり、

その時にも「出発意識」をお持ちですか?

次回は、

「到着意識」

「中途半端、、、」

などについてお話しします。

それでは!





ぼくは立教新座高校、出身なのですが、

東日本大震災のときには、もう卒業していた訳ですが、

その後の、卒業式は、キャンセルされて、

「あえて、先生からのメッセージを受け止めて、考える時間を持つこと」

という方針で、とてもユニークだなと思いました。


自分が通っていたときの方針(いまでもそう)批判的な思考を身につける、というものがありました。たぶん、英語から無理矢理訳した言葉なのかな (Critical Thinking) と言う気もしますが、

その精神を堂々と身につけろ、という学校には通えてよかったなと思います。

卒業論文は、Wieniawski のバイオリンコンチェルトと、ポーランドの民謡についてに書きました。
論文というものを書いたのはそれが初めてで、クラスメイトと一緒に、完成した全書類を事務所に提出するときはドキドキしたものです。

「なんか、かっこ良い、ビシッとスーツに決まったビジネスマンが書類を運ぶときって、こんなんかな!?」

などといって背筋を伸ばして廊下を歩いていたのを思い出します。


建設的に批判的な思考をできるようにする、ということでは、

9.11 翌日の、社会科の先生からの第一声で僕が覚えているのは、

「テレビなどのニュースをすべて鵜呑みにせずに、違うリソースからも情報をみるという前提で今後の動向をみていこう。」

「こういう歴史的な事件は、あとから違う解釈もでてくる、ということを覚えておくように」


いまから考えれば、そういった新鮮な切り口で、自由に物事を捉えて考えるのだ、という態度にふれられて、自分に合っていたな、と思いました。

ある先生などは、

「このことは、政治的な微妙な解釈もあるし、歴史上敏感なことなので、私の立場上、ノートには書かないどいて。」

などと付け加えるときもありました。

いま思えば、興味をそそるようにするために、わざと付け加えただけなの知れませんが、

当時は興奮して授業に聞き入ったものです。。。


ぼくも、もうちょっとガリ勉だったら、大学院レベルの教育を高校で受けられたのに、と思います。  大学院へ通ったいま、初めてわかった、違う有り難さ、があります。そのときにつかった、ある一冊の教科書は、いまも読んでいます。(筑摩文庫の赤本というものです)


卒業式のキャンセル、からいろいろなことを思い出せセてもらいました。

先生のメッセージは、やや、感情的であったり、ポエティックすぎるような度合いもありましたが、

それがまた、彼のおっしゃる、学生の自由な雰囲気、校風、がにじみ出ていて、好きだな、とぼくは感じました。

(ただ、大学は時間が自由、拘束されない、ということがちょっと強調され過ぎ感もありますし、
すぐ就職したり、ビジネスを始めているもしくは家業を継ぐような生徒もいるとおもうので、ちょっと大学生活は強調されすぎかな、とおもいましたが ―それも含めて青春の感じが伝わりました。)



卒業式の、キャンセル



あなたは、どう感じられましたでしょうか?!












この数日間は、

始めること、時間のこと、質のこと、量のこと、

を考えました。

僕は地道に何かを続けるのが苦手で、

それを得意にしたい、と思いました。



何かをはじめるにあたって、

あるいは、再び取りかかる、にあたって、

「それをはじめれば、スタートはもう切れた、初動は達成」

そう考えると、達成感というか、期待感、ワクワク感が出てきます。



それを、早くすすめたい場合は、

分割して、

ゆっくり

確実に、

冷静に、(静かな情熱を秘めて)

とりくみます。



そう思いました。 ひげもそりました。 そうやってそりました。