タイトルの通り私は憂鬱のなかで生きている。

 最近あったこと面白い事といえば、日本でやってる人、他にいないんじゃないか、というくらいマイナーなスマホゲーム『Boxing Star』。
※名前の通りボクシングゲームである。

 そんななか注目してほしいのが画面右上。


※インドネシアの方の家族写真。

 とても和んだ。





 何はさておきとにかく日々が退屈すぎる。

 口内炎や傷口が痛く好きなものも食べられなければ、コロナで外出することもできない。
 まさに四面楚歌である。


 時々、自分が何のために生きているのかとふと思う。「生まれてきた意味」などと口にする人は多いが、私が思うに生まれてくることに意味などないのだ。考えるだけ不要である。

 例えば排便する度にクソの出てきた意味について考える人はいるだろうか。クソの色、形。毎度違うものであれど、それは生理減少の産物であって個性はあれど意義なんていうものは存在しないのである。人もそれと同じで、自然の摂理に従って生まれ堕ちたというだけの偶然の産物だ。そこに意味など求めるのは見当違いだと私は考える。

 今いるあなたは、たまたま命を授かり、たまたま何兆億の精子のなかで1番になっただけ。繰り返し言うが、たまたまタマタマ内の競争で1位になっただけなのである。

 そう考えると自分は存在しているだけでも凄いんじゃないのかと思えてくる。だが、それは生前の話であって、今の私たちにはなんの関連もない。

 道ゆく人に突然、「私の前世は高額納税者だ!ひれ伏せ!」と言っているようなものである。
 用は今の自分にどんな力があって、何ができるかということが重要なのだ。むしろそれ以外のスピリチュアルな観念は不要といえよう。


 そして今、私には何もない。今が楽しいわけでもないし、この先に幸福が待っていると約束されているわけでもない。しかし、周りの人間が幸せそうにしていているのを指をくわえてジッとしているだけでは何一つ変わりはしないのだ。

 我々は必ずしも生きなければならないというわけではない。しかし、人生というものに答えを見出せないまま終えてしまうのはあまりにも勿体ないと思ってしまうのだ。死ぬにしても私はこの人生を、この何も無い人生をめいいっぱいに謳歌し、私ならではの「人生の意味」というものを見つけてから死にたい。

 以上が私が『扁桃腺摘出手術』を受けることによって見つけた意義である。