戦前日本の教育と精神 | ひふみ塾 世回りブログ

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戦前日本の教育と精神 

「がんばれ、相手の奴等に負けるな、やっつけろ」 
日本の村の男の子は、声を張り上げて跳び回っていた。 
昭和の初め、村の男の子供の遊びは棒切れを振り回しての「戦争ごっこ」であり、集団で隣村の子供たちと戦うのであった。その子供たちの中で、洗濯をほとんどせず、食べかすや鼻水でガスガスした着物を着、一番上の兄の太った赤ん坊を背負って走り回っている子供は私の祖父であった。 
  
祖父は大正九年に七番目の男の子として生まれた。八人兄弟全て男である。 
私の祖父は非常に頑健である。そういえば私がまだ小学校の頃、妹を背にして馬となり暴れまわった。茶の間のそこら中暴れ回って、疲れたと言って休んだ時、「元気をつける」と言って、いきなり冷蔵庫から生卵を出して小皿に割り、一気に飲み込んで「これで元気になった」と言ってまた馬になり妹を乗せて暴れ回っていた。まるで生卵が栄養ドリンクのようであった。 
  
今でも農業を続け、二十代半ばの私もやっとついていけるくらい、よく働く。しかし、医学的には昔マラリアを患ったせいか肺が悪く、生きていることさえ知り合いの医者は不思議に思っているのである。 
また、この前は心臓の大手術をしたが、退院して一週間後にはもう、三脚という三本足の農業用梯子に乗って働いているのである。当時、祖父は八十二歳であった。 
また手術をした原因は心臓の神経が切れたためであるらしく、手術前は脈拍一分間に三十五で一カ月医者にも行かず、苦しそうに顔をしかめながらも農作業をしているのであった。一カ月経つと、どうにもこうにも苦しく我慢できなくなって自動車を運転して自分で病院に行き、緊急入院となり手術となったのである。実に頑健としか言いようがない。 
  
その祖父は、日本の陸軍兵として支那大陸、ベトナム(仏印支那)、タイ(シャム)に出兵し、捕虜となった時期を含めて戦地に六年居た経験を持つ。「戦地に六年」とは、私が物事に挫けそうになった時よく祖父が私を励ますために使う言葉である。 
食うや食わず生きるか死ぬかの戦地に居た祖父の苦労に比べれば、平和で豊かな現代に生きる私の苦労などは小さなものなのであった。 
  
祖父の子供の時もまた貧しかった。学校へ持っていく弁当は、漬物とご飯で肉や魚は正月か祝日に口に出来る程度であった。ある日、小学校の祖父が弁当を開けると黄色い卵焼きが入っている。「やった」と思って喜んで頬張ると実は奈良漬けであってがっかりしたという話をよく聞いた。 
  
祖父の通う小学校でも同じように祝日には「君が代」を皆で歌い、校長が「教育勅語」を読み上げていた。紀元節(二月十一日)ともなれば兄のお下がりの袴をはいて式に出席した。 
  
私の家の近くの神社に小さな建物がある。その白い建物は常に扉が閉まっている。子供の頃から、私はこの建物が何であるか、不思議に思っていた。神様を祀るならば常に格子から中が見えるはずであるが見えない。しかも神社の境内の不自然な所にある。しかし、厳かに祀られている。 
  
実は、この建物は奉安殿という。戦前の小学校には奉安殿と忠魂碑が置かれていた。奉安殿の中には天皇陛下の御写真が飾られ、教育勅語が大切に収められている。忠魂碑には、その小学校の地区出身の戦死した方の名前が彫られている。戦前の児童はこの二つの前を通る度に、深く頭を下げるのであった。奉安殿に対しては、天皇陛下と、己を正しい道へ導く教育勅語への敬意を込め、忠魂碑に対しては、日本と日本人の為に命を犠牲にした方に敬意を込めて頭を下げるのであった。 
  
この奉安殿は戦後、勝った連合軍の罪を全て日本人のせいにして、日本を骨抜きにする政策に出たアメリカの方針により取り壊されることになったのである。祖父の通った小学校もその例外ではなかった。しかし、取り壊すことに忍びない村人たちにより、現在の神社に移されたのである。この奉安殿に対して、どれほどの児童が心を込めて頭を下げただろうか。改めてこの奉安殿を眺めて、壊されなくてよかったと思うのである。 
  
さて、祖父は高校を卒業すると、田舎から遠い神奈川県横須賀の海軍軍需工場に事務職として採用されることとなり勤め始めた。勤務して一年ほど経つと急な電報が実家から届いた。「帰宅すべし」と電報にある。何であろうと思い、兎に角、荷造りをして帰ることにした。汽車に乗り帰る途中、もうすぐ目的の駅という所で親戚のおじさんが汽車に乗ってきた。そのおじさんに急に帰れと言われた理由を尋ねたところ、「馬鹿、お前は△△の家にもらわれるんだ」と言われ、初めて自分が養子になることを知ったのであった。その祖父が二十歳の時養子として入った家が現在の我が家であった。 
  
私の曾祖父母は子供がなく、祖父はこの家に養子として迎えられ、農業を営むこととなったのである。しかし、養子として迎えられたのも束の間、祖父はその年の暮れ、大日本帝国陸軍兵として戦地へ向かうことになったのであった。 
  
祖父が二十歳の五月、村中の二十歳の男子が徴兵検査を受け、見事「甲種合格」となった。検査結果は上から「甲種」、「乙種」、「丙種」であり、一番良い甲種は四十人中六人くらいしかいない。甲種合格となった者は直ちに兵隊として戦地に赴くこととなる名誉なことであった。そしてその年、昭和十五年の十二月、祖父は出兵することとなった。 
  
村の神社で祖父及び他の二人の出兵の壮行会が盛大に行われた。村長が励ましに言葉を述べ、祖父が三人を代表して答礼の辞を述べ三人は出発する。神社から一番近くの駅まで約一里(四キロ)ある。それは今でも変わらない。三人はその駅まで徒歩で向かう。そして村の元気な者は皆、この三人を囲んで駅まで共に歩いた。 
歩きながら、様々なことを話す。父と幼い時の話、母との思い出、友人との思い出、残された家族のことなど話すことは沢山あった。いくら名誉あることといっても戦場へ向かうのである。生きて帰ることが出来る保証はない。 
  
やがて、駅に着き、汽車が来た。汽車に乗ると、他の地方から乗ってきた出兵の若者で車内は込み合っていた。祖父の戦友となる人たちである。 
 汽車は出発すると祖父たちは窓から乗り出して手を振り、見送りの父母兄弟友人親戚はちぎれんばかりに手を振った。今生の別れかもしれない、そう思う母たちは涙をこらえるのに精一杯であっただろう。そして駅に万歳の声は木霊(こだま)するのである。 
  
戦場へ我が子を送り出す父母の心はいかほどであったであろうか。しかしその悲しみに堪えなければならない時があるのである。国が危機に直面していた当時、国は若者の力を必要としていたのであった。そして、私の祖父たち、当時の日本の若者の背中には、日本の子供たちの笑顔、平和の内に暮らす日本の老人、そして我等戦後日本人の運命が乗っていたのである。 
それを知っていればこそ、若者は勇気を出して命を犠牲にし、守られた日本の児童はその犠牲に感謝し小学校の忠魂碑に深々と頭を下げるのであった。 
  
そして私は、ある感動を抑えられないのである。玉子焼きと奈良漬けを間違え、ガスガスのボロ着物を着、一番上の兄の子を背負いながら遊んだ、貧しい祖父たち日本人が国の為に命をかけて、裕福な欧米人と戦い、当時世界中を覆っていた理不尽なる秩序を打ち破ったのである。 
実に尊いことではないか。欧米人は恥であるから、その事実から目をそらすが、これは事実であり歴史なのである。 
我等日本人はこの事実を正しく理解せねばならない。祖父たちが命をかけて戦った戦争は一体、何であったのか、そして、日本人の精神は正しかったのか。歴史は厳然と事実を語っているのである。

(『祖父母たちの大東亜戦争』より) 
  
集団的自衛権で「戦争する国にするのか」と言う人がいます。
世界中が戦争をする国です。
戦争をしないということは究極的には国家・国民を守らないということにもなるのです。
戦争は嫌だから国を守らない。
家族が襲われて、それを見捨て指をくわえて見ている人がいますか?  
上のお話を読んで僕は日本人として誇りに思う。
もちろん戦争はすべきではありません!
しかし、やむなく貧しいながらも国を守るために命をかけて戦争をしたのです。
そんな先人がいたからこそ、今の日本があることを忘れてはなりません!
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