ベートーヴェンのピアノソナタ(黒山羊先生のレッスン記録)

ベートーヴェンのピアノソナタ(黒山羊先生のレッスン記録)

ある日与野沢という子が、
ピアノ講師の黒山羊先生の家を訪れました。
(この話はフィクションです。)

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am 6 ten Juli Morgends. 
Mein Engel, mein alles, mein Ich. ―― nur einige
Worte heute, und zwar mit (mit deinem) Bleystift.
(不滅の恋人への手紙より)

7月6日の朝に
我が天使よ、私の全て。
私のあなた
今日はほんの少しだけ言葉を。
それも、あなたの鉛筆で。

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先生がご起床なさったのはよく晴れた日の9時過ぎでした。暫くして口内炎
が治っていないことに腹をお立てになり、そして腹を立てたところで何のよ
い事も起こらないことに気づいた先生は、セロトニンを分泌するために嫌々
散歩をしてきました。帰りにスーパー『コモド』でバナナと2ℓ入りのウーロン
茶と特売のうどんを買って帰ってまいります。バナナはセロトニンのため、
ウーロン茶は口内炎のため、うどんは空腹への対処でした。先生はご自宅
へお帰りになると、若干乱暴にベッドの上に買い物袋をお置きになり、図書
館から借りた本をご覧になりました。ベートーヴェンの不滅の恋人への書
簡です。世の中は便利になり、どんな資料でも半径5kmで手に入るので
す。そこへ玄関のチャイムが鳴りました。しかし先生はこれを無視なさいま
した。

先生 ――(電気も水道もガスも払ったし、アマゾンも注文していない。贈り物など
        あり得ない。故にこれに答える理由はない。)

ドアはどんどんと叩かれる。二度、三度、チャイムも鳴らされた。

先生 ――(どうせ下の階のババァがペダルの音がうるさいと文句をつけに来たの
        だろう。ゴールデンウィークですることもないからあのババァ、俺で時間を潰
        そうという魂胆だな。そうはいかんよ。)

訪問者はそれでもなお、諦めない様子だ。執拗にチャイムが鳴らされる。先生は
青筋を立てて玄関の方へ行った。

先生 やかましいこのすっとこどっこい!世間と同じく俺も休みなんだ!いい
    加減に近所にお仲間見つけて旅行でも行きやがれ!

しかし、乱暴に開けたドアの向こうに立っていたのは、階下の老人ではなかった。
その人物は野球帽を目深にかぶり、ジーンズシャツとジーパン、黒縁の伊達眼鏡
といういでたちの、やや小柄な人物だった。

先生  (……たじろがない。訪問者がいること自体が異状なのだ。対応としては
          それほど間違っていない。世間の常識なんて知るものか。)
?    ……
先生  誰だお前。何か用か?
?    あの、黒山羊先生のお宅で間違いないですよね?
先生  そうだよ。
?    あの、弟子入りしたくて…。
先生  ここは道場じゃない。
?    え…武道もやっておられるのですか?
先生  いや。
?    ピアノの先生ですよね?黒山羊先生は。
先生  そうだが?
?    良かった!私を弟子にしてください。
先生  ……
?    ?
先生  何故自宅に来る。ここは俺が食って寝るだけの部屋だが。
?    すみません…
先生  駅前の音楽教室へ行け。所定の申込用紙に書いて出しとけ。備考欄に
          俺に教わりたいとでも書いておけばいいだろう。―もういいか?
?    あの!その…
先生  なんだよ。
?    私はその…お金が無くて…。
先生  ……え?
?    お金が全然無くて、高校に通うのもやっとで…。
先生  レッスン代どうすんだよ。
?    その…どうしましょう。
先生  ……
?    (しょぼん)
先生  いくらなら出せんだよ。教室は月4回のレッスンで、一月8000円だが?
?    ええっと…。(財布を漁る。)
先生  ……
?    (ぼろぼろの5000円札を出す。)これくらいなら…。
先生  ……とりあえずそれしまっとけ。月末に払ってくれればいい。値段もま
          だはっきり決めらんねぇよ。どんくらい弾けるかわかんないから。
     ―まぁ、あがれ。
?    お邪魔します。

先生は訪問者をピアノに座らせました。

先生  で?ピアノの経験はどんくらい?
?    平均律の途中までです。
先生  それじゃわかんねぇよ。最初から何やったか全部教えろ。
?    バイエル、ブルクミュラー、ツェルニー30番、ソナチネ集、ハノン、インヴ
     ェンションとシンフォニア…です。あ、あとドビュッシーの小品をいくつか
     …5~6曲。
先生  バッハとドビュッシー以外全部全音か?
?    ……?
先生  全音出版の楽譜でやったのかと聞いてんだ。
?       ああ!はい。
先生  前にもレッスンを受けてた?
?    はい。12億の借金を背負うまでは先生についてました…。
先生  ……。
?    ……。
先生  へ…へぇ……。

閑話休題。

先生  ――それで?何を弾きたい?
?    ベートーヴェンを勉強したいです。
先生  そう。何を弾きたい?
?    ピアノソナタ全曲……。
先生  ……。
?    (あれ…?)
先生  めんどくせぇな…。
?    (えー…)
先生  楽譜は持ってんのか?
?    はい…。これ。
先生  これじゃダメだ。ヘンレ版買え。
?    …持ってないです。
先生  ヴィーン原典版は?
?    持ってない…。
先生  ……じゃあ今日はこれでいいよ。さらってきたのか?
?    はい!一番から順番に。
先生  あ、そう。じゃあ弾いて。

先生、来訪者が1楽章を通奏するのを聞く。

先生  そこまで。
?    はい。
先生  なんかピリッとしねえな。
?    ハイ…。
先生  そもそもソナタ形式わかってる?
?    はい。提示部、展開部、再現部にわかれていて、提示部に二つの主題
          がある。提示部第二主題は属調で終わり、再現部では主調で現れる。
先生  まあ、それはオーソドックスな形よね。
?    はい。あ、あとコーダがつく。
先生  形式の話にコーダとか割とどうでもいい。
?    あ、ハイ…。
先生  ベートーヴェンにおけるソナタ形式とは、調・和声のエネルギーを最
        大限利用するため のツール
とみていい。第一、第二とあるのは、
        質の違う素材を使って、あるいは性質の似た素材を使って、全体
        を構成する
ためにある。積み木やブロックみたいなもんだ。素材と和声。
          ベートーヴェンのソナタをやるには、そこは絶対外せない。研究するな
          ら曲の頭っから終止線まで、バリバリに楽曲分析をしなきゃいけない。
          ――和声はやってる?
?    いえ。
先生  市販のいろいろな和声の教本があるから、やってみろ。買えなきゃ図書館
          を当たれ。今のところ一朝一夕に分析に応用できるとは思わない。だが半
          年、1年たてば和声の知識が具体的に役に立つはずだ。和声についての
          思索が出来ないやつは、音楽的に文盲だからそう思え。
?    ハイ…。

来訪者は、ばつの悪そうな顔で視線をあちこちに泳がせています。

先生   では…えっと名前なんだっけ?お前。
与野沢 ヨノザワです。
先生   ヨノザワ。この曲の主調は?
与野沢 …えっと、ど、れ、み、ふぁ…C、D、E、F…えふ…えふ…
先生   f-moll(エフ・モル)な。fを主音とする短調(moll)だ。長調ならF-dur(エフ・
      ドゥア)。長調のときは頭が大文字になるのに気をつけろ。イタリア語、フ
           ランス語、英語での読み方あるけど、めんどくせぇからとりあえずドイツ語
           で覚えろ。出来るな?
与野沢 はい。
先生   この楽章はf-mollのソナタ形式の楽章だ。このソナタはバロック・ソナタを
       意識してか、全楽章の主音はFで統一されている。ハイドンにささげられ
            ているこの作品の成立年は1795年。フランス革命の真っ只中だ。ヴィー
            ンにいたベートーヴェンはピアニストとして脚光を浴びてるころだ。
           このころから、作品22までを彼のピアノソナタにおける一つの時代と
     いえる
まだ、体も丈夫で聴覚も害してない。実を言うとこの時期の曲か
      らレッスンするピアノ講師は多くないと思う。若いころの作品は難易度も高
           く、腕力も必要とする。その上形式的にも和声的にも突っ込みどころが多
           い。今お前の弾いた1番も作曲上いくつかの欠点がある。また、このころ
          のいわゆるクラヴィーアやピアノフォルテは、今のピアノとだいぶ音が違う。
      それも初学者に適さない理由だな。だけど、お前はベートーヴェンのソナ
           タが知りたい。全体を理解したいという動機でここに来た。そうだね?
与野沢 はい。
先生   テクニックを磨くことに特化したレッスンじゃなくていいんだな?
与野沢 はい。
先生   よろしい。じゃあ頭っからやってくぞ。あと、勝手に譜読みしても、順番どお
           りにレッスンするとは限らねぇから、そのつもりで。
与野沢 はい。
先生   話が逸れたが、ヨノザワ。主題提示部は何小節から何小節までだ?
与野沢 ええっと
先生   違う。そこは1小節目と数えるな。不完全小節はカウントしない。
与野沢 はい。
先生   五線の各段の左上に小節数書いてあるから。
与野沢 …はぁ…。ええっと……?……?
先生   思ったことは言葉にしろ。
与野沢 はい。8小節目までなのかな?
先生   そうだな。9小節目のバスがソ・ド・ミ・ソ・ド・ミとあがってる。この形は第
      一主題と似てるが、その後続は提示部の一部分の素材を使って、調性
             を変化させてく景色になっている。こういう主題と主題の間の、変容
      する部分を推移部と呼ぶ。
ドイツ語だとÜbergang(ユーバーガング)と
             いう。それと15小節から若干景色が変わってるよな。だから、便宜上こ
             こをÜ1、Ü2という風に分けて考えてもいい。分ける根拠は、15小節目
             からは、上は順次下降、下は半音階の上行。和声的にはAs-durの属
      9→ドッペルドミナント→属和音と繰り返している。あとは四拍目、二拍
            目に強拍が入るシンコペーションな。しつこく3回も繰り返してるのは、
            確かに調性を安定させるという名目もある。だが、新出のリズム素材を
      定着させるためにもここで三回繰り返すことが必要になったからともい
      える。素材の出現の必然性を、確保しきれないという拙さが、まだこの
      曲には点在している。
与野沢 (この人楽聖つかまえて拙いって言ったよ!?)
先生   順次下降している点が若干の提示部との関連性があるといえばあるが、
             あまり説得力がない。シンコペーションのリズム素材は提示部の後半や
      展開部に使われるけどね。それで、第二主題はどこだ?
与野沢 21小節目から…ええっと………。……。
先生   属和音の分散和音が下降しているこの旋律が第二主題だ。主和音に対
            して三度調であるas-mollで出てくる。ここで注目すべきはSichだ。二回
            以上同じ景色を繰り返すとき繰り返した楽節のことを特別にSichとい
          う。
日本語でいうと確保。英語に訳すならばitself。素材群は時とし
            て繰り返される。この場合まったく同じ形で繰り返されている。そして右
            手に刺繍音をともなって上行していき、属和音にたどり着く。楽想的には
            ここがキリがいいから28小節目の第1拍までが第二主題。そっからはま
            たずっと推移部と見ていい。途中、二拍目に強拍が来るリズム素材が入
            ってくる。右手はここで同時に下降のスケール。こっから改めて推移部
            の2とするか。この景色もSichがあるな。41小節目から、左手が裏拍を
      叩く景色になる。この裏拍を和音で鳴らす景色は、第一主題の提示の
            最後に既に現れている素材だ。このように、第一主題の要素が終結部
            に再度現れることは、よくあることだな。和声的には、ドッペルドミナント
            属9第9音下行変格、根省(根音省略)→主和音第二転回形→属和音
            →主和音(ソプラノが第5音)という進行を繰り返してエネルギーを蓄え
            て、最後の解決に至るように出来ている。推移部にもあったが、曲の中
            で、第9音の変格した音が、目立つようにわざわざ配置されているのに
            は気づくだろう。これは第二主題の最初の音が下行変格しているところ
            に存在理由を見出すべきだろう。ま、全体的にせわしねぇ曲だ。次々
            素材を投入して、素材同士の有機的結合もまだ甘い。ある意味若々し
      くはあるけどね。演奏者が作曲者の意図を汲み取って気を利かさない
            とベスト・アンサーに辿り着けない。そういうのはまだ技術が未熟な証
            拠だ。さぁて、作曲者が何をしたかったか分かっただろう?弾き直して。

与野沢が頭から提示部を弾いた。

先生   ダメだ。スタッカーとはタダ跳ねりゃいいってもんじゃない。最初のスタッカ
             ートは第一主題。この曲で『一番いいたい事』なんだから、粒を均一に揃
             えて、機敏に筋肉を収縮させろ。あと左手は管の合奏を意識して。ドミナ
            ントに向かって、ストーリーを持って。3小節目に入るときに左手が連続性
            を失うようじゃダメだ。ファ・ファ・ファ・ミー、ミ・ミ・ミ・ファー。形の上で二回
         目のファーへの解決はされないけど、されるっていう必然性を感じていな
             さい。7小節目の分散は勝手に下を切るな。楽譜どおりに。そして8小節
             目。半終止な。ここはドイツ語の動詞の語尾と非常に親和性のある形な
             のだが、どうせお前にはわかんないだろ?だから、「~~だ~ね」みたい
             に感じておけ。「だ」も「ね」も丁寧に弾けよ?共感を求めるかのように丁
             寧に問いかけろ。ドファラド~シラソファミファソだ~ね。」だ。あん?何だその
            顔は。別にふざけてんじゃねぇんだぞ。言葉の終わりだから、ここにフェル
            マータつきの沈黙がある。細けぇこといえば、7小節目の下降形から半終
             止までリタルダンドしてもいい。だけど、あくまでコンマ秒単位だぞ?明ら
             かにリタルダンドしたらダメだ。もう一度頭から。


与野沢がもう一度最初から弾く。第二主題に入る前まで弾いた。

先生   推移部の冒頭バスは、“何事かが始まってそれに目を見開くように。”漠
            然と弾いていてはダメだ。あとみんなやりがちだが、11小節からテンポを
      勝手に緩めるな。トントントントンと、心の中で必ず拍子を走らせること。
      音楽は時間に形を与える芸術なのだから、心の中にきわめて正確
          な時計を持っていろ。音楽に溺れるな。自分を演奏者と観測者の
          二人に分裂させろ。
15小節目のアクセントは強くなりすぎない。別にそ
            こだけ強くしろってこの記号書いたわけじゃない。本来なら弱拍のとこを
            しっかり打てって言ってるだけだから。それに二拍伸ばす音だからそれ
            だけでも性質は強くなる。バカみたいにそこを打鍵するやつがいるが、
            そういう音楽は小学校で卒業しろ。18小節目からのフレーズはペダル
            使わないわけないだろ?レガートのためのペダル、アクセントのため
          のペダルは使え。
クラヴィーアとピアノは楽器自体が違う。ピアノは均
          一に一定時間響いてはくれない。叩いた瞬間減衰する。
効果を考え
            たら、ここでペダルを利用してレガートを成立させることは不可欠だ。和
            声一緒なのに三つ目だけがノンレガートになったら興醒めるだろ?推移
            部から弾きなおし。


与野沢が推移部から演奏を始める。第二主題が始まる前に「ピアノ!」と
怒号が飛んだ。推移部に入ると「頭を次々切り替えろ。部分ごとに機能を
感じて!」「バスを大事にしろ!」矢継ぎ早に言葉が飛ぶ。終結部に入る
前に止められた。

先生   そこまで。せっかく構造見たのに何でそうやって漠然と弾く!頭無い
      のか?これだから高校生はダメだな!石頭!22小節目のスフォルツ
              ァンドはバスが保続低音だけど、きちんとエネルギー的には和声の
              解決並みの推移をしてくれっていう意味だから。腕を叩きつけるもん
              じゃねぇよ。28小節目からは第二主題じゃないから、気持ちを入れ替
             えろ。音を入れ替えるんじゃない、気持ちを。入れ替えてない音はわ
             かっちまうよ?上行するときには気持ちを高ぶらせて!テンポは速く
             すんなよ?33小節目の頭は右手ちゃんと出して。でもここで大事なの
             は左手。左手を歌え!どみーら、れふぁーし、みらーど、れしそれ。右
             は最後の方はヴァイオリンが和声を充実させるときの音くらいでいい。
             増一度が気持ち悪く感じるのは、コンテクストが響いてないからだ。35、
             36小節の右手はホントはミだけでいいんだ、和声的には。それが理解
             できていればすんなり弾ける。弾けないやつは頭悪いだけ。あと、戻る
             けど29小節目と30小節目のfes(Fフラット)を叩きすぎるのも、和声的な
           理屈を認識してなくて不安だからだ。今そこゆっくり和声だけ弾いてみろ。
            右手に本来あるはずの音を入れろ。そうそう、ソシレファとなるね。納得
            したか?それでは第二主題から。そこの左手はガチャガチャ弾くなよ。
            一番下の音-バス-がきちんと聞こえればいい。

与野沢は、何度も躓きそうになりながらも、部分を意識して弾きなおす。そ
してやっと終止部にたどり着いた。裏拍を意識して先生が指揮を振る。
「二回目わくわくして!」「三回目!もっともっと!」


先生   最後は翳りのある借用和音から解決していくんだから、雲が晴れてい
              くように気持ちをもっていけ。わくわくして。どんどんわくわくして!ほら!
              弾け!33小節目から!

与野沢は再び33小節目から終止線を目指した。終止部になるところで、同じことを先生は言う。「わくわくしろ!どんどんわくわくしていけ!ほら!ほら!」息を切らせながら与野沢は何とか提示部を弾き切る。先生は与野沢を上から見下ろして言った。

先生   しあわせか!?
与野沢 ……。
先生   ……。
与野沢 ……。
先生   ……練習して来い。
与野沢 はい。

こうして一日目の授業が終わりました。