きっかけは些細なことだった。僕も高校生だし天才なんておこがましいものでは決してない。苦手なことなんてそれこそはいて捨てるほどある。そのうちの一つ・・・まあ数学なんだけどさ。僕はテストのためと先生の所に苦手なところを聞きに行った。純粋に勉強しようと思ったからだ。ほかの考えなんて特になかった。
コンコン・・
「失礼します。徳松先生、少しよろしいですか?」
「ん?」
こいつは徳松重蔵。57歳の数学教師。バレーボール部の顧問をしていて、この県内じゃけっこう有名な監督らしい。正直、部活のために学校に来てるんじゃないかってくらい授業は適当だ。だから不真面目な生徒たちから人気がある。もちろん、ぼくは苦手だ。別に言って、仲のいい教員なんていないから仕方ないのだけれど。
「テストにむけてわからないところを確認したくて、お時間よろしいですか?」
完璧と言っていいほどの丁寧な物腰。ここが準備用の教室でなければ、ほかの教員からも感心されるだろう(笑)
「ああ」
なんてやる気のない返事だ。本当に社会人か?なんてことは口が裂けても言えず、ぼくは教科書とノートを開いた。
「すいません、よくわかりました。ありがとうございました。」
僕はそう言って立ち上がると、そそくさと準備教室を出た。いつもならこのまま家路につくのだが今日はそこまでスムーズにいかなかった。廊下に出た段階で少しふらついた。休憩もろくにせず勉強していたからだろう。その拍子に手に持っていたノートを落としてしまった。やれやれといった思い出しゃがみ込みノートを拾おうと吸うるとさっきまで僕のいた教室内から声が聞こえてきた。
「ったく、あいつなんであんなのもわからなねぇんだ・・・」
明らかに落胆しているような口調であった。普通の人間ならこんなのが聞こえたところでどうということはないだろう。実際この時の僕もそうだった。自分の不都合を悪とし、自らを正当化するごく一般的な心情から出た言葉なのだろうと。だから僕はすぐにその場を後にした。また一人の人間に対して強い落胆をおぼえながらだったからだろうか、足取りはいつもより重たかった。
二週間がたった。テスト返却にクラスの連中は一喜一憂している。見ていて面白い。自分の無様を他人に見せ、それを見た友人は勝利に浮かれる。しかし、そいつもさらなる優秀を見せられる。そして、なぜか全員の失敗であるかのように見せかけるような言い分けを吐く。もちろん、ぼくもその輪に入る。孤立を防ぐ防衛手段だ。そんなとき一人が僕の答案を見ていった。
「今回は勝ったぜ。こんなのもできないとはお前も馬鹿だよな(笑)」
適当に合わせておく。べつに頭にもこなかったし。しかし、見ていて悲しくなった。自分より下を探して回るそいつの姿があまりにも滑稽でさしずめ自らをトラに見せようとするためにキツネを探しているようだ。くだらない。そう思っていたが次の瞬間事態は大きく傾いた。
「あいつ、俺より点数低いんだぜ。(笑)」
そいつはクラスの連中に向けて言い放った。周囲の見る目が次々に憐みの目へと変わっていくように感じた。なぜだ。なぜそんな目で僕を見るんだ。なんなんだよ、やめてくれよ。久々に人の目がもつ恐ろしさを感じせ筋が凍るようだった。
一応、その場は笑ってごまかしたが僕の心は静まらなかった。大きく揺れ動いた心はしばらく動き続けた。
やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。やめろ。
見るな。見るな。見るな。見るな。見るな。見るな。見るな。見るな。見るな。見ルナ。見ルナ。見ルナ。見ルナ。見ルナ。見ルナ。見ルナ見ルナ。見ルナ見ルナ。見ルナ。見ルナ。見ルナ。見ルナ。見ルナ。見ルナ。見ルナ。見ルナ。見ルナ。見ルナ。見ルナ。見ルナ。見ルナ。見ルナ。見ルナ。見ルナ。見ルナ。見ルナ。
過去の記憶と共にこんな言葉が僕の奥底でうごめいていた。それでも顔は普段の顔を作り上げていた。不思議な気分だった。まるで仮面をつけているかのような感じだ。だが、そんなことはどうでもよかった。何も聞こえなかったし感じなかった。正直それでよいとさえ思っていた。
うちに帰ると母親が優しそうな顔で出迎えた。
「テスト、どうだった?」
毎回のことなので気にしていないが評価の出るものの結果をかなり気にする親だと思う。僕の姉が優秀なので、ぼくにも期待しているのだろうか。姉よりは劣っているが僕も僕なりに努力はしているつもりだった。この人はいつもそんな僕を評価してくれた。勉強してたから次は大丈夫。そんな言葉を無意識に期待していたのだろう。その言葉を聞けば、この心のざわめきを少しは収まると思ったからだ。僕は少し苦い顔をしながらテストの結果を手渡した。
「あら・・・。今回は残念だったんだね。大丈夫次は何とかなるわよ。」
母親は僕の期待している言葉を投げかけてくれた。しかし・・・
その顔はひどく落胆していた。気が付いてしまった。そして理解してこの人はいつもこんな表情で僕を励ましていたんだと。僕はこの人の偽善に喜びを覚えていたのだという事実に。その表情からはあの時の教員の言葉を連想させた。
「あんなこともわかんないのかよ・・:」
あんなこと・・・あんなこと・・・驚いた。誰でもできることもできないのか。自分は天才ではないことはわかっていた。不特定多数の凡才たちの一人なのだと思っていた。この世界には3つの人間がいる。多くから敬われる人間と多くから憐みを与えられる人間とそれらをただ与えるだけで他からは何の影響も与えられない人間だ。割合的には0.5:1:8.5くらいの配分になっている。だから僕は自分を8.5のうちの一人だと思い込んでいたのだ。だが今僕は理解した。中学の時にいじめられていたのも今回周りから憐みの視線を浴びせられたのも、ずっと母親が必要以上に愛情を注いでくれていたのも全部僕が何も持たないものだったからなのだと。
自分と違うものに嫌悪を覚える。人間とはそういう生き物だ。その違いが自らより力のあるものであったならそれは畏怖となり、その違いが劣ったものであればそれは同情や嫌悪となるのだ。
この時僕はこの真実を知った。そして今までの自分がいかにみじめで情けなく、浅はかな人間以下の畜生であったのかを思い知った。そう、この世界は僕を同等になど見ていなかったのだ。
それから僕は優等生になることをやめた。