狛犬ウォークVol。23 下松市

御屋敷山古墳のあたり

御屋敷山は古墳であり大内氏、その前は末武氏が支配していた下松の中心地

徳山藩も当初は下松藩と称していました。

 

西念寺 石塔

五輪塔 一石五輪塔

 

火輪を重ねたような塔

 

右端は孝女お加屋顕彰碑 気になったのでチョットぐぐる

 

お加家は天明の人で貧困の中、嫁ぎも出来ず日傭稼ぎをして両親を養い、働きぬき、

ついには家屋敷を取り戻しました。

文政二年(1819)に徳山藩主から御褒美を賜りました。

 

三孝女(徳山浦石のお米・笠戸島深浦のお政・久保河内のお加屋)の一人として敬仰されている。
 お加屋は天明五年(一七八五)河内村中戸原に生まれ、父は伊左衛門といい二男三女があり、お加屋はその次女でありました。伊左衛門は農業を営み貧困な生活をしていましたが、お加屋七才、伊左衛門五十四才の時、父は眼病に罹り盲目となり稼ぐこともできず、日に増し生計が困難になってわずかな家屋敷も質入れして金を借り、その日その日を送っていましたが、間もなくそれも使い果たし妻子扶養の道もなくなり、翌年夫婦相談の上、妻は三人の女の子を連れて里方に帰り、伊左衛門は長男源六を引受けて夫婦別居して露命をつなぐことになりました。
 お加屋は孝養の心が厚く日々父の家を訪れて慰めました。成長するにしたがって年相当の日傭稼ぎをして食事を調えてはこれを持って行き、懇ろに取扱い、また奉公してもらった給物は両親に与え、仕事の合間には暇を乞うて父の安否を尋ね慰めましたが、姉喜和は嫁し兄源六は貧苦に迫り、父を捨てて家を出て行き、父はいよいよ手足が不自由になって益ます生活が困難になりました。
 お加屋は両親の扶養を考えて縁付もせず、日傭稼ぎをして食事を得ては父の許に持ち運んで介抱しましたが、父の家は中戸原、母の家は大河内宮ケ浴で諸事思うに任せぬので、二十一才の時母親に相談して父を母の所へ引取って日夜孝養に励みました。
 朝は早く起きて食事を調えて日傭稼ぎに行き、昼は帰ってまた食事を調え、夕方には湯浴をすすめ一日も怠りませんでした。妹吉(きち)も他家へ縁付きましたので、自分一身に引受けて終日終夜余念なく稼いで、遂に質入れの家屋敷を取り戻しました。このことが藩庁に知れ、徳山藩主から文政二年(一八一九)四月二十四日御褒美を賜りました。

吽形のみ

幕末の下関石工の作だと思われます。

丸みを帯びた良い姿