玄関のドアノブに手をかけドアを押し開けた勇一は、外にゆっくり踏み出した。
「まじか」
真夏の午後4時、まだ強い日差しを顔の正面にもろに受けて、おもわず目を閉じた。
無地の黒いTシャツ、カーキのショーツ、赤のナイキのランニングシューズを履いた姿は、ぱっと見には大学生に見える。
今日は夏休みの初日だ。この日、勇一の予定は何もない。
ウェブデザイナーになって3年目、初めて勇一は夏休みをとれた。
マンション前の路地を郵便配達員が赤い電動バイクでスーっと静かに通りすぎる。
「あ、もしもし啓子?」
「おはよう」
「今日会える?」
「うーん、あ、いいよ」
年季の入った木製のドアに錆びかけた金色のベルが、これも錆びた銀色の金具にくくりつけられている。
勇一はゆっくりドアを手前に引くとベルが鈍くチャリンと鳴った。
「いらっしゃい」
カウンターにいる店員は薄笑みをうかべて、すこしのん気に、そして幾分だるそうに言った。
「シンちゃん、白氷」
「シンちゃん、あたしはビール」
「あいよ」
カンターレと名づけられたその店に、客は勇一と啓子だけだ。
シンちゃんと呼ばれる黒縁眼鏡をかけた店員は、この場所で二十年以上、マスターとしてひとりで立ち飲みワインバーをやっている。腕まくりをした白いシャツ、黒いエプロンをつけている。
「勇さん、これからメシですか?」
シンちゃんは常連客には気さくに声をかける。
「うーん、とくに決めてない」
何も予定がない勇一は正直に答えた。
「ねーユウ、ジャンダンゴ行こっか?」
「そうすっか」
ジャンダンゴは横浜でもっとも古いジャズ喫茶のひとつだ。勇一は何度もジャンダンゴへは行ったことがあるが、啓子はひと月前に勇一に連れられて初めてこの店に入り雰囲気が気に入った。
「いらっしゃい」
ジャンダンゴのマスターは顔をあげずにグラスを拭いている。
店は常連客に見える男たちが数人、カウンターとテーブル席でじっとしている。常連客に見えるといっても雰囲気、服装は様々だ。サラリーマン風、グレーの作業服姿の男もいる。年齢は30代から50代といったところだ。
大音量といえる音量でターンテーブルで回るビバップが大型スピーカー2台で鳴っている。
「バドワイザー2つ」
勇一は注文が聞こえるように大声でマスターに告げた。
啓子はバドワイザーの缶を細いラッパ型のグラスにそっと注ぎ勇一に渡した。
「啓子、戻らないのか?」
啓子はひと月ちょっと前に名古屋から横浜にやってきた。水商売仲間のアパートに居候していると勇一は聞かされていた。
「うーん、そのうちね」
啓子は話すときに頭を左にかしげる癖がある。肩にかかるかかからないかの長さの少しウェーブのかかった黒髪が、ジャンダンゴの天井の小ぶりのミラーボールのライトを反射させてきらきらしている。全体に軽めのメイクだが、唇は赤く濡れたように光っている。いわゆる垂れ目で大きく丸さを際立たせた魅惑的な濃い茶色の瞳を持ち、そして全体的にゆっくり動く目だ。薄いグレーのノースリーブワンピース、低めの黒のパンプスは清楚なイメージを啓子に与えた。
「ケイコ」
奥のテーブルに座っていたサラリーマン風の男が啓子の存在に気づいたように声をかけた。
「あっ」
啓子はとっさに勇一の陰に隠れるように屈みこんだ。
「だれなんだ?」
とっさに勇一は啓子に聞いた。
サラリーマン風の男はゆっくり勇一と啓子の近くに歩いてくる。
啓子は無言のままだ。
勇一は瞬間的に二人の関係を見抜いた、ような気がした。
男は啓子の姿を確認すると、何も言わず振り向きドアを抜けて外に出て行った。
勇一は、男の少し予想外の行動に自分の瞬間的な判断を疑った。
「啓子、だいじょうぶか?」
勇一は自分の後ろに隠れるようにしゃがんでいる啓子の横に自分もしゃがんだ。
「出よう」
会計を済ませて勇一と啓子はジャンダンゴを出た。
夜になるかならないかの時間の夏の山の手は、風が昼間の熱を含んだまま冷まされたような、中途半端な空気をまとっている。低く浮かんでいる月は右半分だけ明るい。
二人は山下公園に向かって水町通りを肩を並べて歩いている。
「啓子、だいじょうぶか?」
勇一はさっきと同じ質問をくりかえした。
「言いたくなかったらいいよ」
「ううん、アニ、なの」
「兄?」
勇一は啓子の意外な返事に一瞬とまどったがそれを顔に出さないようにこらえた。
しばらく無言のまま歩いていると啓子は決心したように口を開いた。
「うん、腹違いの兄なの」
「兄は父の前の奥さんの子で、その前の奥さん病気で死んじゃって、それで父が兄を引き取って、でも父もすぐ死んじゃった」
啓子は自分の世間的にはあまり幸せとはいえない過去を話しながら、しかしどこか他人事のようなニュアンスで話した。
勇一は「そう」とだけ返した。勇一は自分が瞬間的に、あの男と啓子は男女の関係だったと嫉妬を交えて考えたことを恥じた。同時に、啓子になんとなく同情心が芽生えたことを自覚した。一週間前に初めて自分と啓子が抱き合ったことが、遠い昔のように感じた。
「ユウ、今日は帰るね」
啓子は勇一の顔をのぞきこんだ。
「うん、じゃまた」
勇一はどこか脱力感を感じながら答えた。
二日後、勇一は啓子からの電話に出た。
「ユウ、明日会える?」
「うん、いいよ」
勇一は啓子と待ち合わせの駅前のスターバックスで席をとった。
しばらして啓子が現れた。
「ユウ、私名古屋に帰ることにしたの」
啓子は前置きなく言った。勇一は理由もきかず、ただ軽くうなずくだけだった。
啓子がいなくなって、三つの季節が過ぎた。
梅雨があけて夏のにおいを感じ始めたころ、勇一は仕事帰りに水町通りを歩いていた。
空のハーフムーンが通りを照らしていた。
通りに面したオープンカフェのスピーカーから、静かに以前ジャンダンゴで聴いたビバップがかかっていた。勇一は啓子といった真夏のジャンダンゴでの出来事を思い出していた。
「啓子」
勇一は無意識に吐息とともに啓子の名前を口にした。
勇一はあいかわらず大学生のような恰好でカンターレのカウンターにひとりでいた。
「今日も暑いっすね」
シンちゃんは、いつもと変わらない表情でのん気そうに、そして幾分だるそうにグラスを拭いていた。
勇一はいま会社の取引先に勤める理恵と付き合っている。理恵もカンターレの客だ。理恵はいま出張でシンガポールに出かけている。理恵は自分の仕事を通じて自己表現したいタイプだ。理恵との関係は、付き合いはじめてすぐに、婚約、結婚というプロセスを意識したものだった。
「勇さん、そういえば先週、啓子さんがふらっと寄ってくれましたよ」
勇一はシンちゃんの言葉にドキっとして、おもわず白氷とよばれる氷のはいった白ワインのグラスを落としそうになった。
「そうなんだ」
しかしシンちゃんに対して、反応とは裏腹にまるで興味なさそうに返した。
勇一は啓子が名古屋に帰ってから一度も啓子に会っていない。会っていないどころが、電話もLINEもしていない。
勇一のなかで啓子は過去の女としてフラグがたっているはずだった。忘れたはずだった。
しかし、シンちゃんの一言で、なぜ自分の心が動揺といってもいい状態になっているのかわからなかった。
「勇さん、どうしたんすか、なんか顔色悪いですよ」
勇一はシンちゃんの言葉に無言で頭をふってみせた。
勇一はその理由を心の濁流の中から探しあてた。
そのとき、鈍いベルの音とともにカンターレの入口のドアが開いた。
啓子が夏の夕方の太陽を背にシルエットとなって入ってきた。
勇一はこの店には夏の夕方の太陽がよく似合うなと思った。
「啓子、結婚しよう」
(了)