北条次郎宗秀
天文14年(1545年)~慶長11年(1606年)
父:横江宗定、母:松平氏娘  
配偶者:北条秀子(継室)
子(養子(天正元年(1573年)小谷城の戦い戦後から))
:五郎宗長(幼名・浅井万福丸。幼名は慶長5年(1600年)関ケ原の戦い戦後に表明)
 
執権北条家:北条高時・時行からの子孫・三河北条氏傍流:横江宗定の子として出生。幼名:蛇丸。
同年生まれに三河北条氏:横江定時(宗定の兄)の娘・北条秀子がいる。

当初は、流行病により2歳で早世したと言われていた。

時を経て天正元年(1573年)。
小谷城の戦い戦後、突如、三河北条氏傍流:北条次郎宗秀と五郎宗長を名乗る親子が北条四郎秀時に同行し信長に拝謁する。
宗秀「幼名は蛇丸。諸国を流浪して三河に帰ってきました。」と口上。

小谷城の戦いの際中、信長は「この一件は親父・浅井久政が切腹するだけでいい」と言っていた。
信長も推察できたことで、長政が切腹しようとしていたところに秀時が止めにかかり、
長政、万福丸ともどもを救い出したもの。
「浅井長政は小谷城にて見事な最期を遂げた。」
ここに居るのは、
浅井長政ではなく三河北条氏傍流:幼名・蛇丸の北条次郎宗秀。
浅井万福丸ではなく北条次郎宗秀の養子・北条五郎宗長。
改めて、宗秀は受領名として「越後権守」を賜る。
これらにより、三名とも無事で信長から丁重な振舞を受けて帰館ができた。

お市の方との再縁は認められないが、従姉妹である秀時の姉・北条秀子を継室として迎え入れた。

それ以降、秀時同様、信長から家康の与力を仰せつかり
「三鱗青備隊」として家康・秀時たちとともに各戦に参陣。
長篠・設楽原、天正壬午の乱、小牧・長久手まで家康と行動を共にし数々の武功を立てる。
(家康安土訪問・本能寺の変・伊賀越えの際、宗秀・宗長親子は岡崎城留守居)
 
天正壬午の乱の際は信濃国虚空蔵山城城代1万石。

ただし「北ノ庄城攻城戦」では、かつての妻子が攻め苦に晒されているのに対し、
徳川の軍監としての立場からはただ見守ることしか出来ず、茶々からは
「外から指をくわえて見ていただけ。あなたを父とは思わない!」となじられた。
以降、茶々(淀殿)からは憎まれる存在となった。

秀吉臣従後、秀時とともに徳川家康の与力大名を解かれ伯耆国倉吉打吹城5万石へ転封。


秀吉死後、上杉景勝の越後から会津120万石への転封に伴い、越後国新発田城10万石へ加増転封。
その際、越後国各城内の米蔵が判例だった半分を残されておらず空で上杉軍が全部持ち去ったことにより、「このこと」を一族当主で従弟の北条四郎秀時(坂戸城主)が五大老筆頭だった家康に報告。
他、旧上杉領の領主となった新発田城の宗秀に加え、春日山城の堀秀治、三条城の堀将監直政も同じ被害を被った。と報告している。
「この一件」が、上杉景勝への上洛要請の文、「直江状」と進むことになるため、「関ケ原の戦い」への発端となった。とも言われる。

会津征伐・関ヶ原・慶長出羽では東軍に所属。
特に「慶長出羽合戦」において、家康から越後戦線の総大将に任じられ、自身では三条城主堀将監直政嫡男:直寄とともに越後津川口から会津に攻め入りのち、春日山城主:堀秀治、坂戸城支城・小出城城代:仁田秀経と合流、会津坂下まで進軍、会津若松城をけん制。
五郎宗長には三条城主堀将監直政の進軍に同行させ、坂町口から米沢城を経て長谷堂城攻城に参戦させた。
 
これら戦功から、秀時が新潟20万石へ転封となった後任として越後国坂戸15万石へ転封。
また、このときから、受領名として「越後権守」に加え「坂戸城介」も加わる。
 

一族当主である従弟・秀時が城主を務めていた越後・坂戸城をそのまま「居抜き」で入城するのに対して、
秀時は関ケ原からの帰還から江戸にて新潟20万石への転封を受けた直後に「九州仕置」で九州に発ったことにより
秀時が本拠とすることになる新潟城の普請の初期に携わっている。
新潟城は天守が無く、堀には水を貯えない空堀構え。
これらは秀時からの要望を宗秀が受け止め構えたものである。

 
関ヶ原・「島津の退き口」での追撃の際、被弾負傷した秀時の一の姫(長女)・三郎康虎こと康子が
江戸(のちの新潟藩江戸館)で少しの療養ののち、秀時が本拠とする新潟城への移動途中、
旧本拠の坂戸城に滞在中にて容態が急変。

被弾した箇所について鉛玉を取れなったための悪化だった。

日によっては激痛に苦しめられたことがあり、何度か「切腹を。次郎伯父上。介錯をお願いしたい。」
と弱音を吐いていたが、日に日に身体も弱って、その力も無くなっていった。

父である秀時が九州仕置で看取れないなか、妹:正子、弟:忠時、伯母:秀子、
新たに坂戸城主となった義伯父:宗秀、従兄:宗長に看取られ
越後に咲き誇った桜を愛でながら息を引き取った。

慶長8年(1603年)徳川家康が。慶長10年(1605年)徳川秀忠が征夷大将軍としての就任の儀式において、秀時とともに陪臣として同行。
 
慶長11年(1606年)、越後坂戸藩江戸館にて危篤となった。
その際、正室・秀子、嫡男・宗長、一族当主である従弟・秀時に加え、二代将軍秀忠の御台となっていた江、常高院(初)も「実の父」である宗秀を見舞いに来ている。
ほどなく、越後坂戸藩江戸館にて波乱に富んだ数え年62歳の生涯を閉じた。