それは事前宣告もなく、突如として訪れるものであった。
朝の満員……とまでもいかないがそこそこ混んでいる電車の中、かっこつけてエーリッヒ・フロムなんかの本を読んでいると、それがやってきて、僕はアゴや奥歯や眉毛やらを密かに動かす。そうでもしなければ紛らわせそうにないのである。何を隠そう、耳の中で妙にかゆいのである。
明確な理由は分からないが、尾籠ながら、「耳垢」のようなそうでないようなそれっぽいのが耳の中で発生したようである。それが耳の中で宙ぶらりんになったり飛び回ったりしているに違いない。きっと五ミリにも満たないようなそれだが、威力は絶大である。僕は顔をしかめる。
「そんなことをするくらいだったら、小指ででもほじくってみりゃええじゃないか」
などとおっしゃる方もいるかもしれない。しかし、そんなことは僕にはできない。自分の容姿、体裁、知能もろもろが肥溜めを煮沸したあとの残りみたいなほどであることは十分理解しているのだが、やはり人前ではいい顔したい人間が僕なのである。いわゆる八方美人ってやつである。たとえその電車のその車両に乗り合わせた人がもう二度と会わない他人であったとしても、どうにかしてカッチョヨクありたいのである。だから、
「ああ、あの人は耳がかゆいのね」
「小指で耳の穴グリンゴグリンゴしてらぁ」
「よっ、不潔の権化、今現る」
などと周りに思われてはならないと考えてしまう。
「誰もてめぇのことなんぞ見てねぇよ」
という指摘をいただけるに違いないが、自意識が汲めども尽きぬ泉がごとくほとばしり、あふれ出る人間にはその指摘は頭に入ってこない。
色々と顔の部位を不自然に動かし、ひょっとこみたいな顔をしながら耐えていたのだが、どうしても我慢できないのでは僕は作戦Ⅱに移行することにした。目をつぶり、意識を「かゆい」以外に本格的に向けるのである。ここで僕は耳垢の気持ちになってみようと努力してみた(以下、寸劇)
「アカ子、俺は外部調査隊に選ばれたんだ。お前の知っている通り、親父の調査隊の背中を見ていた俺は、外部調査隊にずっとなりたかったんだよ」
「駄目よアカ夫。外部調査隊になって帰ってきた人なんて一人もいないじゃない。あなたがいなければ私……」
「安心しろ。必ずや俺が外部世界の秘密を解明してやる。クリスマスには帰ってきてやるからな」
「でも……分かったわ。約束よ。クリスマスまでには必ず帰ってくるのよ」
「ああ、約束だ」
(ナレーター)そういってアカ子に背中を見せたアカ夫は外部調査機に乗り込んでいきました。熱意と緊張が相半ばするアカ夫。コックピットへの道のりが永遠かのように思われました。ですが、これまでの生活を思い出し、これからの生活を思い描いたアカ夫は熱意を盛り上げ、コックピットについてレバーをしっかりと握りました。コックピットの窓から、外をのぞくと、民衆がこちらを応援しています。遠くて皆が米粒よりも小さく見えましたが、その中からすぐにアカ子を見つけ出しました。手を胸の前で握ってこちらを見ているようです。アカ夫はその姿を目に焼き付けてから顔を真正面にただしました。
「こちらA-KA00、発進する」
トランシーバーでそう言ってから、アカ夫は旅立っていきました。アカ子は涙を流しながら空高く、それが消えゆくまで見続けました(ここでアルマゲドンのテーマが流れながら、暗転した後、スタッフロールが流れるのである)。
うん。きっとそうに違いない。実は運転が相当ひどいアカ夫が僕の耳の中であっちゃこっちゃ飛び回っているに違いない。だが、そうであると考えるとなんだか納得せざるを得ない気がするのだ。
と、ひどくどーでも良い葛藤をしていると目的の駅に到着したので、トイレに駆け込んで人目を憚りながらグリンゴグリンゴした僕であった。