生きる事とは行動の過程である。


我々は何おかなすべき為に常に考え行動をしている。


小さな目的、短期的目的から大きく長期に渡る目的も含め、常に何かの為に動いている。


寝る事も、休む事も、それぞれ目的をもった行為であり、純然たる無為の境地とは存在しえない。


生きる事はいやおうなしに連続して存在させられる事であり、且つ、いやおうなしに目的に向かって動かせれ続ける事である。


まるで回遊する魚のように、人は存在してる間は常に何かに駆り立てられ、泡のように沸いてくる目的に沿って行動している。


生きる事の意味や真実を考える暇もなく、矢のように追い立てられ時のみが過ぎ去っていく。




もし生に何らかの価値を見出すとすれば、それは普遍的意味を持つ事はない。


何故なら自分の生は自分にしかわからないのだから。


また価値基準自体が個々に異なるわけだから、生の価値を一言で表す言葉なぞ存在しえない。


そして何を成したのかではなく、今何をしてるのか?が問われるべき項目ではないだろうか。


下世話な話になるが


高校を卒業した。

大学を卒業した。

初めて自分で給与稼いだ。

年収が300万になった。

年収が500万になった。

年収が700万になった。

年収が1000万になった。

年収が2000万になった。

全てを失った。

復活し、再び年収が500万、1000万・・・・

病に倒れた。

病と闘い続けた。

そして死んだ。


どこで切っても、生きてる間はオチがない。常にその次に向かっている。その次に向かってる現在でしか現在の生を推し量る事ができない。


初めて涙ばかしの給与をもらった時の喜びと、年収が1000万から2000万に増えた時の喜びと一体どちらが大きな喜びであったであろうか。


結局は生は結果にて判定されうるものではない。


今現在の過程の中に何か計るべきものがある。


そしてそれを計るのは自分の目でしか測れない。


人生とは例えるなら映画のようなものであろう。


監督、主演は自分自身、そして観客も自分自身・・・


自分自身にとって、今の 自分の走りっぷりが満足するものかどうか、

それこそが最も重要な事ではあるまいか。


人生の中で、自分にとって十分生を満喫する瞬間をどれだけ持てたか、

それによって限りある生をしっかり消費できたか計れるものではあるまいか。



夏の夜の夢~形而上学的日記-sakura  

死について個体としては二つの意味があると思う。


第一は死のプロセスに伴う苦痛


第二には意識の連続性が永遠に断たれる事



第一の苦痛は肉体的苦痛である場合や、残された家族に対する不安などの精神的苦痛である場合もあろうと思う。


人は死を概ね上記のような苦痛をもって想起するものだ。


しかしながら死の本質は第二の意識の消滅にあるのではないか?

もし肉体的精神的苦痛を伴わず純粋に意識のみ消失することが可能な場合、死は遥かに受け入れ易いものとなるのではないだろうか?


もっと生きたかった。もっと色んな物を見たかった。もっと色んな事をしたかった。

そんな思いも所詮死ののちには後塵も残さない。


完全な静謐。


我々が床に入り、うたかたの夢物語に意識が沈んでいくときにその静謐が訪れ、そして朝の光にかき消されていく。


人の生を意識と記憶の連続性として捕らえるなら、まさしく我々は黄泉の国を毎日行き来してるということになる。


一度意識が途切れれば、目覚めるのが1分後であろうが、1000時間後であろうが、結局一緒なのだ。


さすれば死という永遠の眠りも結構身近なものでしかないのかもしれない。

我々は死を恐怖するが、それは死の本質に対するものよりも、それに伴う付属事象に対する恐怖にすぎないとも言える。

ガンを宣告された人間の死に対する恐怖とは、これから始まるであろう想像不可能な肉体的苦痛であるのか、残された家族が泣き叫ぶ姿か、路頭に迷う姿か・・・しかしいずれも、死ななくても起こりえる事象である。


死を存在の消失とするのは、あくまで他人の視点であり、自分自身が自己の消失を確認する事はできない。


明日に人生で最も素晴らしい朝を迎える予定で寝入った者が、眠りの中で時間をカウントする事はできない。予定どおり目覚めるかもしれないし、そのまま目覚める事がないかも知れない。


寝てる間に死ぬ人や、突然の交通事故で死ぬ瞬間の自覚のない死。それこそが付属事象のない純粋な死とはいえないだろうか?


もうすでに子供達も独立し、全ての借金やしがらみから開放された老人達は、あとは「ぽっくり死ねれば最高だ」と言うのは、死の本質を如実に現しているかも知れない。


ちなみに私は自身は「どうしようもなくやりたい事が自分には沢山あり、それを現在やっている、その意思に基づいて常に活動している。今のこの活動を継続したい。もっと人生を味わいたい。死が訪れるまで。」

そう思っています。


そういう意味において自分は死を受け入れられない。


では、やりたいことが全くなく、生活はただノルマをこなすだけ、そして生きる事がとてつもなく億劫で、とてつもなくつまらなく、そしてとてつもなく苦しいなら、死とは付属事象に対する恐怖のみであり、明日を迎えたくないと毎日何年も思っている人間にとっては、死は寧ろ幸いなのかも知れない。


こんなくだらない文章を最後まで読まれた方は、恐らく私をなんと酷い人間なんだろうと思われるかも知れない。

ただ私は誰を救うでもなく、誰に訴えるでもなく、ただただ自分の正直な思いや漠然と思いつく考えを、この電脳世界の片隅に無性に残しておきたくなったのです。