今日からNHK大河ドラマ「平清盛」が始まる
清盛は白河法皇と舞子とのとの間に出来た子供で、舞子は男児を出産後、命を落とす
平忠盛が引き取り育ての親となる
1月3日、88歳の父と二人で訪ねました
能登半島の先端にある大谷峠・鞍坪岳の麓に代々の居所と墓が遺されている
小生が初めて訪ねたのは今から40年前で、当時と比べると道路が整備され切り開かれ、観光地となっていました
今回訪ねることになったのは3年前、嵐山稜線を歩いていた時、道を尋ね昼食をご馳走になった則定画伯のご先祖がご当地ゆかりの方だと聞いたからです
画伯はこの地を訪ねたことはなく、いずれ行ってみたい!と仰っておられましたので、お礼かたがた近況をカメラで収め報告したく訪ねることにしました
バス停の前にある駐車場に車を止め、杉林や竹林の中を200m程下ったところに代々の居所がある
源義経との約束で命ながらへ能登に流されましたが、追手から身を護るため人目のかからない山中に忍込んだのでしょう
それでも幾度となく焼討ちにあったようです
29代目となるMさん(金沢在住)が敷地内にある梅木の剪定をされていたので、話を聞かせて頂きました
電気が灯ったのがオリンピックのあった昭和39年で、能登では一番最後でしょうね。テレビはなく、東京オリンピックのことは何にも知りません、と
「能登の国聞くもいやなり珠洲の海また吹き戻せ伊勢の神垣」・・・時忠
居所の裏にある経塚
盗掘が繰り返されたようです
平時忠公の家譜を辿れば、始祖は桓武天皇に発し、その子葛原親王、3代目平高棟(清盛先祖の兄弟)から10代目にあたる2代目・時国が町野川下流域(岩倉山麓)に時国村を成し農耕を営み家業発展させ今日に至っています
則貞家と時国家と分離することで家を護ろうとしたのでしょうか?
平清盛の正妻・時子(二位の尼)は時忠公の姉君であり、高倉天皇の中宮となった徳子(建礼門院)を生んだ
もう一人の姉妹である滋子(建春門院)は後白河院の後宮に入り高倉天皇を生んでいる
平家にあらんずんば人に非ず、この有名な言辞を吐いたのが時忠公である。云わば平家を象徴する人物の一人である
平清盛ゆかりの時忠・時国家などの名刹を連載いたします






