★延命か、死の受容か、私の思いを控えめに伝える「事前指示書」! | ジャーナリスト 石川秀樹

ジャーナリスト 石川秀樹

ちょっと辛口、時どきホロリ……。理性と感情満載、世の常識をうのみにせず、これはと思えばズバッと持論で直球勝負。
3本のブログとFacebook、ツイッターを駆使して情報発信するジャーナリスト。
相続に強い行政書士、「ミーツ出版」社長としても活動中。

★「尊厳死宣言」より有効です、延命に対する私の「事前指示書」!!
http://yuigonsouzoku.net/my-advance-directives/




どのような状況なら「延命」を望まず、静かに死を受容したくなるでしょうか。
「尊厳死宣言」のような居丈高な物言いでなく、謙虚に死を迎える覚悟について書きたいと思いました。



私を生かすため懸命に英知を絞り努力してくださっている医療や介護現場の人たちにも納得してもらえる”お願い文”。
「事前指示書」というと無味乾燥な感じがありますが、「こういうときにはこうしてください」と、あらかじめ病院側に伝えておく文書です。









「延命措置」をするかどうかということは、患者の一存で決めることは難しそうです。
必ずしも患者の判断は正しくないし、かと言ってお医者様任せではまさかの「寝たきり(なのに)100歳まで長生き」にさせられないとも限りません。
そこで「尊厳死宣言書」などを書く人も出てくるわけですが、
僕にはどうにもなじめない。
宣言が末期がんほかの「重篤な病」の最後に限定されているのが引っ掛かります。



いま「延命」の是非を論じなければならないのはソコではない、と思うんです。
実際に末期の病気にかかっているとしましょう。
「最後はバタバタと救命措置などせずに、静かに死なせてほしい」と言っておけば、それを配慮してくれる時代になってきています。



本当に問題なのは、そういう分かりやすい場面ではありません。
なし崩し的に「延命措置をされてしまう(しまいかねない)」
老化に伴う病気の場面です。
これがまだ、意外に論じられていません。
それで一石を投じるために、自分用の「事前指示書」を書いたわけですが。




すでに意識をまったく失い、意思能力もなく、家族や近しい人たちの存在も認識できないような危篤状態においては「経管栄養」は不要です。
また一時的に危機が去った場合でも、意識レベルが回復する可能性なく低下するばかりであることが予測される場合は、経管栄養を施さないでください。
すでに経管措置をしている場合でも、意識のない状態が長く続く場合には挿管を中止し、静かに死なせてください。




以上が私の老後、鼻からチューブを入れて栄養を摂る状態になったとき、そしてその状態が長く続く場合にしてほしいことのすべてです。
しかし最後の最後、自分の死をどのタイミングで受け入れる(医療側からすれば経管栄養法をやめる)かについては、最終の決定権を家族に委ねることにしました。
理由は────





最後の最後で私は、私の生死に関する最終決定権を家族に委ねました。
もちろん自分の意思、わがままを貫き通すことはできます。
しかし、家族の想いはもしかするとほかにあるかもしれません。



事実、家内がこのような「指示書」を残した場合、私は相当に悩み考え抜くと思います。
本当に死期が迫っており、生きている状態を保つ方が苦痛が大きい場合には彼女の選択を「是」とするかもしれませんが、
意識としては明確なものがなくても、ふたりの間に魂がなお触れ合っている感覚がある場合には、私は”家族”として彼女の事前指示書を認めないでしょう。



そういう感覚があるために、最後は家族にお任せしようと思った次第です。
(最後の4段落は本文から抜粋)