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「お楽しみ」というのは言葉のあやですが、
日本人はたぶん「60歳」に特別の意味を感じてしまう人種でしょうね。
「定年」との連想から、人生が終わってしまった、少なくとも”第一の人生”はこれで終わりで、そして”第二の人生”はいまだ見通せないと。
そんなこんなで、言葉の呪縛に邪魔されて、凝り固まった、世間並みの発想しか浮かばず『終わった人』と自らを規定してしまうのです。
でも、もう少し冷静になってみましょうよ。
60歳、あるいは65歳でもいいですよ、
そんなにあなた、衰えていますか?
体力(はともかく)、気力、やる気、経験、自信・・・・・
それらは現役のあなたといくらも違っていはしない。
カップの水は3分の2、残っています。
「3分の2も残っている」のか「しか残っていない」のかは受け取り方次第です。

昔、こういうような利いた風なことを言われるとムカつきました。
えらそうに、上から目線でと。
私も実は、歳を取りたくない、永遠に若さに焦がれる、肚の小さな臆病者です。
でも先日、「午後4時の太陽」を発見しました!
なにげなく過ぎていた午後4時。
午後4時は夕方なのか? 昼間なのか?
真冬なら、はや夜の入り口だけれども、
7月、8月の今ならまだ昼の盛り。
季節や気分で「時刻(とき)」はいかようにも変わります。
正直言えば、30歳を過ぎてからこの方、節目のときを迎えるたび
「俺が40だって⁉ そんなばかな」
「とうとう人生50年、来ちまったぜ」
「還暦だって? 何が暦の一巡か、ばかばかしい」
「65歳だ⁉ 押しも押されもしない『高齢者』だってさ」
いつもみっともない内心に、引け目を感じていました。
そして無意識に、時間をバカに、現実を認めませんでした。
「何が現実だ。俺は少しも変わらない・・・・・」
正直言って、まだ変われない自分がいます。
「高齢者」と言われる俺には向き合いたくない。
ただ少し、自分の中に変化のきざしがあります。
「老い」だの、「若さ」だのという概念を超えられたわけではありませんが、少し自由になってきました。
怒りっぽくなったのは大きな欠点ですが、
最近「天下御免」の意識は強くなりましたね。
ごう慢と紙一重なので戒めるべきですが、「価値」ということについては、ウソと本当がやや分かるようになってきた気がします。
そして最近、ようやく父親に、少しやさしくなってきました。
今の父親は「すべてを失った」と言ってもいいような辛い状況にいますが、なんだか飄々として見えます。
病院に行かないと無精ひげになるので、行くたびに電気カミソリをあて顔をきれいにします。
もうダンディーにはなれないのに、左手で頬を触ってうなずいています。
「恨みを感じさせない」父親に、まいったなぁ、人間はどんな状況にも沿っていけるのだなあ、と感嘆してしまうのです。
午後4時どころか、午後11時をだいぶ回ったとしても、人間は感謝することができる。
ちょっと救われた思いです。