★明日のあなたはきょうのあなたとは違う! エンディングセミナーで話すこと | ジャーナリスト 石川秀樹

ジャーナリスト 石川秀樹

ちょっと辛口、時どきホロリ……。理性と感情満載、世の常識をうのみにせず、これはと思えばズバッと持論で直球勝負。
3本のブログとFacebook、ツイッターを駆使して情報発信するジャーナリスト。
相続に強い行政書士、「ミーツ出版」社長としても活動中。

★ちょっと辛口、私のエンディングセミナー! 生き抜くあなたへエール
http://yuigonsouzoku.net/ending-seminar/


先日書いたブログを読み返していた。
取り越し苦労、大きなお世話ではないかと思う、
しかし私には危惧があるのである。


エンディングセミナーばやりなのだという。
はやり方はどうでもいい、しょせんそれほど普及はしまい。
それでも私は何度かセミナーに駆り出されている。
世間の関心がないかといえば、関心はあるのだろう。




問題は、その関心の深さだ。
とても「理解が進んでいる」とは思えない。
例えばエンディングノートについて。
ブログに書いた通りを以下に列挙してみる。


1. まず、身仕舞いのこと(捨てる。「断捨離」も流行語になりました)
2. アッ、そのまえに「自分史」「家族への思い」がありましたね。
3. そして「いざというときのために」家族や周りの人に迷惑をかけないよう各種のメモ
4. 家族、親せき、友達などの連絡先情報
5. この後突然、わが身のことになって病歴や薬の記録
6. 病気になったらどのような治療を受けたいか、また受けたくないか
7. その延長のように突然「延命治療拒否」つまり“尊厳死宣言書”なども出てきます
8. さらに介護の話
9. どんな施設が望みか
10. 少し言葉をやさしくしながら「判断力がなくなったときの日常の家事や金銭管理の希望」
11. そして最後は死後の話に飛んで、葬儀や戒名の希望、納骨・お墓の選択の話まで


どうだろう、実に雑多で多彩ではないか。
エンディングノートを書くというのは
<“今までと同じ私”があしたにはいないかもしれない>
ということが前提になっていなければならない。
その観点から上の項目を見ると、確かに“衰えていく私”を前提にしているように見える。そして「やがて死ぬ」ことも当たり前になっていて、一足飛びに死んだ後のことまで心配している。


見事な覚悟、のように見えるが、ほんとうだろうか。
むしろ私には、人ごとだから「楽しんでエンディングセミナーを聞き、試しにエンディングノートを書いてみようかしら」と思っているように見える。


それはこれからの老いの日々の現実に比べ、あまりに楽観的ではないか。「あしたもきょうの私」でいられるかどうか、こんなことを書いている私でさえ定かでない。それが現実のはずだ。
こういうことを考えながら私はエンディングセミナーに臨んでいる。「ちょっと辛口」どころではないかもしれない。


思うところがあり、ブログを書き直した。