湖北菅浦須賀神社④
今の須賀神社は明治期に3つの神社が合体して
できました
保良神社
→主神は淳仁天皇
小林神社
→主神は大山くい神
赤崎神社
→主神は大山祇神
3つ合わせて
須賀神社です

保良宮は淳仁天皇が
営んだいわば副首都
首都はあくまでも平城京大津石山国分あたりに
あったとか
藤原仲麻呂は近江守でしたから共に造営したのでしょう
そんな保良宮の名称を
継ぐ神社なれば
淳仁天皇との関わりは
疑うべきもあらず
大山くい神は日吉神社の祭神です
日吉神社→比叡山→延暦寺
つまり天台宗の影響が
あるはずです
大山祇神は山の神様ですイザナギイザナミの子でコノハナノサクヤ姫の父由緒正しきお方
なにせこのあたりの山は急峻です
淡路島脱出に成功した
淳仁天皇
仲麻呂軍と体制を
立て直し反撃の契機を
うかがうも
孝謙道鏡軍の勢力強し
北陸からの援軍も
未だ来ず
「朕朝敵にあらず…
もうここらでよか…」
淳仁天皇は
全軍の武装解除を命令
「居並ぶ者共あとを追うこと能わず」
一人保良宮の裏山に
消えてゆく…
因みに小林赤崎は
近郷の名称です
三社合体の理由はよく
解りません

来年は50年に一度の
淳仁天皇鎮座1250式年祭
つまり淳仁天皇崩御の
764年から数えで
1250年
…どこまで…つづく
できました
保良神社
→主神は淳仁天皇
小林神社
→主神は大山くい神
赤崎神社
→主神は大山祇神
3つ合わせて
須賀神社です

保良宮は淳仁天皇が
営んだいわば副首都
首都はあくまでも平城京大津石山国分あたりに
あったとか
藤原仲麻呂は近江守でしたから共に造営したのでしょう
そんな保良宮の名称を
継ぐ神社なれば
淳仁天皇との関わりは
疑うべきもあらず
大山くい神は日吉神社の祭神です
日吉神社→比叡山→延暦寺
つまり天台宗の影響が
あるはずです
大山祇神は山の神様ですイザナギイザナミの子でコノハナノサクヤ姫の父由緒正しきお方
なにせこのあたりの山は急峻です
淡路島脱出に成功した
淳仁天皇
仲麻呂軍と体制を
立て直し反撃の契機を
うかがうも
孝謙道鏡軍の勢力強し
北陸からの援軍も
未だ来ず
「朕朝敵にあらず…
もうここらでよか…」
淳仁天皇は
全軍の武装解除を命令
「居並ぶ者共あとを追うこと能わず」
一人保良宮の裏山に
消えてゆく…
因みに小林赤崎は
近郷の名称です
三社合体の理由はよく
解りません

来年は50年に一度の
淳仁天皇鎮座1250式年祭
つまり淳仁天皇崩御の
764年から数えで
1250年
…どこまで…つづく
湖北菅浦須賀神社③
仲麻呂軍の残党と
合流した淳仁軍
孝謙道鏡派が主流であれば彼らは朝敵です
いざ汚名晴らさで
おくべけんや
撃ちてし止まむ
↓須賀神社二の鳥居

ズンズン参道を
登っていきます
↓手水鉢も厳か
こちらに靴箱があり
本殿までは
靴を脱ぐ式たり


白洲正子は裸足でお詣りしたとか
土足厳禁なれど貸し出しのスリッパがありまして
↓ぬれた石段が黒御影石のようにてかっていて
きれいです

さて
いよいよてっぺんに辿り着いて本殿です
淳仁天皇の神像が御神体らしい
ここからはさすがに
写真ははばかられました裏山が淳仁天皇の御陵として崇敬されています
急峻な山です
本殿左には天神さんの
摂社がありました
↓拝殿を背に琵琶湖を
望む

岩波古典文学体系の偉い学者さんと請け売りの
白洲正子にいいたい
淳仁天皇は仲麻呂の
傀儡政権にあらず!
次回は須賀神社の神様について語りましょうぞ
清々しくつづく
合流した淳仁軍
孝謙道鏡派が主流であれば彼らは朝敵です
いざ汚名晴らさで
おくべけんや
撃ちてし止まむ
↓須賀神社二の鳥居

ズンズン参道を
登っていきます
↓手水鉢も厳か
こちらに靴箱があり
本殿までは
靴を脱ぐ式たり


白洲正子は裸足でお詣りしたとか
土足厳禁なれど貸し出しのスリッパがありまして
↓ぬれた石段が黒御影石のようにてかっていて
きれいです

さて
いよいよてっぺんに辿り着いて本殿です
淳仁天皇の神像が御神体らしい
ここからはさすがに
写真ははばかられました裏山が淳仁天皇の御陵として崇敬されています
急峻な山です
本殿左には天神さんの
摂社がありました
↓拝殿を背に琵琶湖を
望む

岩波古典文学体系の偉い学者さんと請け売りの
白洲正子にいいたい
淳仁天皇は仲麻呂の
傀儡政権にあらず!
次回は須賀神社の神様について語りましょうぞ
清々しくつづく