私は源為朝(みなもとのためとも)の孫、里子(さとこ)です。
後白河上皇(ごしらかわじょうこう)が自らの院政に抜擢したのが藤原信頼(ふじわらののぶより)でした。
信頼は、保元2年(1157年)3月に右近衛権中将、10月に蔵人頭、翌年2月には参議、8月に権中納言、11月に検非違使別当と急速に昇進していきました。
信頼さんは藤原北家の中関白家で『刀伊の入寇』で活躍した藤原隆家(ふじわらのたかいえ)さんの子孫なんだよ
信頼の知行国は武蔵国、陸奥国。
武蔵国は源義朝(みなもとのよしとも)が勢力を伸ばしている国であり、信頼とは深いつながりで連携していたのです。
源義朝
義朝という武力を得た信頼は藤原摂関家の藤原忠通(ふじわらのただみち)の嫡子、基実(もとざね)に自らの妹を嫁がせて、さらに権力を伸ばしていました。
藤原基実(近衛基実)
摂関家は保元の乱で知行国が減って、さらに荘園を争いから守っていた源為義(みなもとのためよし)さんが亡くなってたから、代わりの武力として義朝と強い関係を持つ信頼との提携はやむ得なかったんだよね
後白河上皇が頼りにしていた信西(しんぜい)は、後白河上皇の近臣だけでなく、二条天皇(にじょうてんのう)の側近にも自らの子を送り込んで権勢を奮っていました。
こんな信西に二条天皇派の旧来の側近の藤原惟方(ふじわらのこれかた)、藤原経宗(ふじわらのつねむね)は反感を抱いていました。
藤原経宗
信頼は信西の子らと出世競争で敵対しており、信西にも反感を持っていたのです。
ここに信頼と二条天皇派の旧来の側近らは反信西で結び付いたのでした。
信頼と強い繋がっている義朝も保元の乱の恩賞で平清盛(たいらのきよもり)と差をつけた信西に強い恨みを持っていたのです。
そして…平治元年(1160年)12月9日、
反信西派の軍勢は平清盛が熊野詣で京に不在時を狙って信西一門のいる院御所・三条殿を襲ったのです。
後白河上皇の身柄を確保した軍勢は三条殿に火をかけて逃げる者は容赦なく矢を射かけたのでした。
軍勢は義朝さんの他に源光保(みなもとのみつやす)さん、源頼政(みなもとのよりまさ)さんがいたんだよね
目的の信西一門は逃亡していましたが、10日に信西の子らを捕縛。
軍勢の源光保は13日に山城国に逃げ土中に穴を掘り隠れていた信西を発見しました。
掘り越される音を聞いた信西は自害し果てたのです。
光保は信西の首を切って京に戻り、首は晒されました。
つづく











